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資料館の充実ぶりは歴史ファンにも嬉しい「久留里城」 バイクで往く城跡巡り

バイクのニュース / 2023年9月24日 12時0分

かつて日本全国には4万とも5万とも言われる数の城が存在していました。成り立ちが定かではない山城跡もあれば、千葉県君津市に残る「久留里城(くるりじょう)」のように、資料や史跡がしっかりと保存されているところもあります。その史跡を見るべくスーパーカブで訪れました。

■多くの城主と長い歴史を経て、現在に残る近世城郭の代表格

 千葉県君津市にある「久留里城(くるりじょう)」は、上総地方の名城として知られています。現地には駐車場も完備され、山城としての遺構も保存されています。二の丸跡には資料館が建ち、本丸跡には二層三階の天守閣が再建されていますが、訪れた時は2023年の地震と台風の被害により、安全確保と修理作業のため立入禁止でした。2024年中には復旧予定とのこと。スーパーカブで訪れ、現在の「久留里城」を散策しました。

スーパーカブで「久留里城」へ。資料館までの道のりは舗装されていて歩きやすい。広い駐車場にバイクを停め、天守閣の方へ歩くスーパーカブで「久留里城」へ。資料館までの道のりは舗装されていて歩きやすい。広い駐車場にバイクを停め、天守閣の方へ歩く

 駐車場にバイクを停めて歩道を歩き始めると、切り立った崖が見えてきました。人工的に設けられた急峻な崖「切岸(きりぎし)」なのかと思いながら歩みを進めると、いきなり深くえぐれた跡があり、そこは「堀切(ほりきり)」の跡でした。

 堀切とは、尾根筋の通路を断ち切るために設けた堀です。現地に設置された解説板によると、通常は橋が架けられ、敵の侵入時に外されたそうです。複数の堀切跡が見られ、そこで少し面白いと感じたのは、一部がコンクリートで固めらた堀切です。現在も人工的に手を加えながらも史跡として保存されていました。

敵の侵入を防ぐ「堀切」の跡が見られる。当時のまま残されているところもあれば、コンクリートで固めているところもあった敵の侵入を防ぐ「堀切」の跡が見られる。当時のまま残されているところもあれば、コンクリートで固めているところもあった

「久留里城」は元々、真里谷(まりやつ)武田氏の城だったとか。その後、安房国(あわのくに:現在の千葉県南部)の里見氏が上総に進出し、居城します。1564年には下総の国府台(こうのだい)の戦いで北条氏に破れて城も落ちましたが、2年後に城を奪還。その後、北条氏の勢力に押されて里見氏と北条氏は和睦。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、里見氏は勝手な行動をとったという理由で上総の所領を没収されています。

 徳川支配後は大須賀忠政(おおすがただまさ)、土屋忠直(つちやただなお)が入城しています。土屋家に仕えた儒学者の新井白石(あらいはくせき)が、この「久留里城」で過ごしたそうで、資料館でもこれらの情報を入手することができました。

訪れた時は閉鎖中だったが、駐車場付近から天守閣まで行ける林間歩道があった訪れた時は閉鎖中だったが、駐車場付近から天守閣まで行ける林間歩道があった

 土屋家のお家騒動で廃城となるも、約60年後の1742年に黒田直純(くろだなおずみ)が藩主となり、3年の歳月をかけて城を再興。黒田家の治世は約130年もの長期間続きましたが、明治維新後、ついに廃城したとの事です。

 城主を変えながらもたくましく生き残り、現代人の前にその姿を現してくれる「久留里城」には力強さを感じずにはいられません。

資料館の内容はかなり充実しているのでオススメ。撮影禁止もエリアもあるので要注意資料館の内容はかなり充実しているのでオススメ。撮影禁止もエリアもあるので要注意

 ちなみに、資料館は撮影禁止のエリアが多いため詳しく紹介できませんが、かなり凝った内容で充実しており、一見の価値ありです。中でも展示されていた甲冑のデザインセンス(黒と紺を基調としていて、シンプルかつお洒落!)には惚れ惚れし、しばし見とれてしまったのでした。

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