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終わりの始まり。北条氏滅亡までの道筋とは? 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅

バイクのニュース / 2023年10月2日 10時50分

1590年3月、関白太政大臣として天下を手中に収めた豊臣秀吉の命により、22万もの大軍で小田原を本領とする北条氏を攻め、滅亡させました。世にいう「小田原攻め」「小田原合戦」です。NHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれているように、秀吉が小田原を征伐することに踏み切ったのには理由がありました。「小田原城」周辺をスーパーカブで巡りました。

■北条氏を滅ぼし、秀吉の天下統一となる

 1590年3月、関白太政大臣として天下を手中に収めた豊臣秀吉の命により、22万もの大軍で小田原を本領とする北条氏を攻め、滅亡させました。世にいう「小田原攻め」「小田原合戦」です。現在も神奈川県小田原市の「小田原城」周辺にはそれにまつわる史跡が残されており、スーパーカブで巡りました。

「小田原城」から東へ3kmの距離、スーパーカブで10分ほど走った場所に「徳川家康陣地跡」の碑がある。家康は秀吉の先鋒として3万人の兵を率いて、ここで110日間滞留したと伝わる「小田原城」から東へ3kmの距離、スーパーカブで10分ほど走った場所に「徳川家康陣地跡」の碑がある。家康は秀吉の先鋒として3万人の兵を率いて、ここで110日間滞留したと伝わる

 秀吉が小田原を征伐することに踏み切った背景には、もちろん天下統一の野望もありますが、別の理由もあったようです。戦から遡ること1年前、秀吉は1589年に北条氏と真田氏の間で争われていた「沼田城」(群馬県沼田市)の領土問題を裁定します。この争いが大きく関係しているようなのです。

 元々北条氏が領有していた「沼田城」は、上杉謙信(うえすぎけんしん)に一時奪われています。1580年に謙信の甥の景勝(かげかつ)の許可を得て、真田昌幸(さなだまさゆき)が攻略し、真田の城となりました。

 ちなみに、真田昌幸という人物はNHK大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄さんが、『どうする家康』では佐藤浩市さんが、それぞれ印象的な役柄として演じています。

「小田原城」へ向かう途中で見つけた「大手門跡」。この石垣は1632年の改修工事により造られたもの。かつては大規模な櫓を持つ門だったようだ。石垣上の鐘楼は大正時代に設けられたもの「小田原城」へ向かう途中で見つけた「大手門跡」。この石垣は1632年の改修工事により造られたもの。かつては大規模な櫓を持つ門だったようだ。石垣上の鐘楼は大正時代に設けられたもの

「沼田城」はその後も歴史の渦に巻き込まれます。武田氏が滅び、真田氏は織田信長に沼田の領地を譲り渡しますが、「本能寺の変」の混乱を経て真田昌幸が取り返すことに成功。武田滅亡後の真田は小勢力のため、上杉や北条など主君を変えながら生き延びようとします。

 やがて武田氏の旧領をめぐる争奪戦は北条と上杉の和睦により、「徳川vs北条」へと発展していきます。真田が徳川方に転じ、窮地に陥った北条は1582年、徳川と和睦。そこで取り決められたのが、「甲斐(山梨県)と信濃(長野県)は徳川領」、「沼田城を含む上野(群馬県)は北条領(北条の切り取り次第)、真田氏の沼田領は北条へ譲渡」という内容でした。

「沼田城」を手放したくない真田昌幸と徳川家康はやがて決裂。1585年、家康は北条と共に真田の「上田城」、「沼田城」などを攻めますが敗退。この時、真田は徳川と北条に反旗を翻し、上杉に従属していましたが、1587年に上杉が秀吉に従属したため、この時点で、秀吉がほとんどの勢力を配下においた形となりました。

秀吉の来攻に備えた総石垣造りの「小田原城」。いまある姿は江戸時代以降のもので、当時は土造りだったが、堅牢で強固な城ゆえに、秀吉は数の力と比類ない戦略で攻略した秀吉の来攻に備えた総石垣造りの「小田原城」。いまある姿は江戸時代以降のもので、当時は土造りだったが、堅牢で強固な城ゆえに、秀吉は数の力と比類ない戦略で攻略した

 1588年には反抗の態度を示していた北条氏も秀吉への従属を決めました。1589年、秀吉による沼田領の裁定は、北条氏と真田氏が所有する領地を取り決めたものですが、これに不満を抱えていた北条氏は同年11月、真田氏の山城「名胡桃城(なぐるみじょう:群馬県利根郡みなかみ町)」を強奪し、秀吉は北条の勝手な動きに激怒します。

 これを機に秀吉は1590年、北条氏を攻め滅ぼすべく、22万とも言われる大軍を小田原周辺に送り込んだのです。ドラマでもそれとなく描かれていましたが、沼田領の裁定を巡る一連の動きは、天下統一を目指す秀吉が、邪魔な北条氏征伐の大義名分を得るために仕組んだことだと捉える向きもあるようです。

秀吉が布陣した「石垣山一夜城」の解説板には、北条に対する攻囲陣立の様子が描かれている。名だたる猛将たちによる包囲。陸からも海からも攻め立てられた秀吉が布陣した「石垣山一夜城」の解説板には、北条に対する攻囲陣立の様子が描かれている。名だたる猛将たちによる包囲。陸からも海からも攻め立てられた

 家康はこの「小田原攻め」に参戦し、1590年2月10日に「駿府城」から3万の兵で出陣します。3月29日には秀吉の軍勢と共に「山中城」(静岡県三島市。美しい障子堀で有名ですが、わずか半日で落城したと伝えられる)を落城させ、箱根を越えます。4月4日から「小田原城」の東口に当たる地域に布陣し、開城までの110日間、ここを拠点としたそうです。

 最高権力者の北条氏政(ほうじょううじまさ:ドラマでは駿河太郎さんが演じる)は、家康にとっては「小牧・長久手の戦い」の際に援軍を出さなかった恨みもあったと言われています。息子の氏直(うじなお:西山潤さんが演じる)は、家康の次女、督姫の夫です。氏政とその弟の氏照は切腹しますが、氏直は家康の助命により、追放処分となったそうです。

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