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崩れた石垣と美しい天守に心奪われる「小田原城」 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅

バイクのニュース / 2023年10月4日 10時50分

1590年の豊臣秀吉による「小田原攻め」により、北条氏は滅亡しました。その後「小田原城」は江戸時代に石垣の城に生まれ変わり、幾度も自然災害に見舞われたと言います。戦国時代と江戸時代、2つの顔を持つ「小田原城」をスーパーカブで訪れました。

■戦では無傷だったが、幾度も天災に見舞われ現代に至る

 戦国時代最大の城と呼ばれていた「小田原城」は、周囲の山をも含み、現在の「小田原城址公園」の敷地をはるかに超える広大さを誇っていたようです。そして当初は、現在見られる石垣造りではなかったことが伝えられています。過去にNHKの特番でも紹介されていましたが、総延長9kmもの大規模な堀と土塁による防衛ラインを持つ「総構(そうがまえ)」と呼ばれるものだったそうです。敵対する秀吉の侵攻から城下10万人もの領民を守るため、鉄壁の要塞を築いていました。

スーパーカブで「小田原城」へ。「小田原城址公園」内にある「報徳二宮神社」前の駐車場にバイクを停めて散策したスーパーカブで「小田原城」へ。「小田原城址公園」内にある「報徳二宮神社」前の駐車場にバイクを停めて散策した

 一方、秀吉は近辺に「石垣山一夜城」を築くため、滋賀県の特殊な技工集団「穴太衆(あのうしゅう)」を呼び寄せ、見事な石垣の城を築きました。石垣に対して土の防御と聞くと不利なようにも思えるのですが、じつはそうではなく、北条氏は加工しやすい関東ローム層の特徴を生かした強固な防御システムを築いていたのです。秀吉とその臣下の城造りも見事ですが、北条も負けてはいません。

 かつてスーパーカブで訪れた“間もなく消滅する運命の山城「河村新城」”(新東名高速道路の建設のため)に見られる深い堀や急角度にそりたった壁など、場合によっては石垣以上に高い防御システムを構築していたようです。

 また「小田原城」の支城「八王子城」も、崩れやすい砂岩(さがん)を巧みに石垣として築いていたことから、北条氏もまた、石垣造りを含め高い築城技術を持っていたことが分かります。

 22万の秀吉大軍勢の前に支城が次々と落ち、結果として北条氏は「小田原城」を明け渡すことになりましたが、城自体は無傷のままでした。

現代にも通じる「間知石(けんちいし)積み」の石垣は、大小2つの面を持つ四角錐状の石材を使った工法。広い方の面を外側に連ねて構成されている現代にも通じる「間知石(けんちいし)積み」の石垣は、大小2つの面を持つ四角錐状の石材を使った工法。広い方の面を外側に連ねて構成されている

 その後、徳川の時代に「小田原城」は天守閣を持つ石垣の城に生まれ変わりました。

 徳川にとっては西方に向かって権威を象徴させるための建物であると同時に、1633年、1648年以降に数回発生した小田原大地震、1703年元禄の大地震、1707年の富士山噴火による噴煙の被害など、幾度も被災し、多くの死者が出て領民が苦しめられてきたことを踏まえ、災害復興のシンボルでもあったと、NHKの番組では解説していました。

 それらを踏まえ、天守閣を見学しました。2015~2016年に行なわれた大改修後に訪れたのは初めてです。まず内部の展示の美しさに驚きました。まるでおしゃれな現代風の美術館のようで、展示品などにひき込まれました。

入館料を払い天守閣へ。1階は江戸時代、2階は戦国時代、3階は小田原ゆかりの美術工芸品や発掘調査を展示している入館料を払い天守閣へ。1階は江戸時代、2階は戦国時代、3階は小田原ゆかりの美術工芸品や発掘調査を展示している

 天守最上階に置かれた「摩利支天(まりしてん)像」は、武士の守護神です。江戸時代に作られた貴重な小田原城天守模型を調査することで、「摩利支天像」が安置されていた空間を発見し、それを現代の職工が見事に再現していました。災害復興を目指す領民の心の支えの象徴のようなものなのだろうと思いました。

 城の外には滑り落ちた本丸の石垣がそのままの姿で保存されています。前述の大地震など被災のたびに修復されてきましたが、1923年の関東大震災による被害は甚大で、建物も石垣も崩壊したそうです。その際に、偶然積み上げられたままの姿で滑り落ちたため、石垣の姿をしっかりと残しています。

最上階の5階は「摩利支天像」を祀る安置空間が再現されている。その発見の決め手となった、江戸時代に作られた天守閣の模型も展示最上階の5階は「摩利支天像」を祀る安置空間が再現されている。その発見の決め手となった、江戸時代に作られた天守閣の模型も展示

 歴史を知る前は、秀吉に敗れた北条氏とその「小田原城」くらいにしか認識していませんでしたが、実際に訪れ、言及している人の話を聞くと、いろいろな面が見えてきます。

 小田原は戦で焼け野原にはならず、やがて徳川の守りの要となり、現代も観光客が絶えず訪れる世の中になりました。人の力の大きさを感じずにはいられない城跡巡りでした。

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