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大都会にいまも残る「江戸城」の巨大な石垣! 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅

バイクのニュース / 2023年10月8日 12時0分

NHK大河ドラマ『どうする家康』で、ムロツヨシさんが演じる豊臣秀吉の命により、松本潤さん演じる徳川家康が、静岡県の駿府から江戸へ「国替(くにがえ)」させられるシーンが印象的でした。そこで、スーパーカブで首都東京の各所に残る「江戸城」の石垣の跡を探してみました。

■現代に残る「江戸城」の石垣跡

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、ムロツヨシさんが演じる豊臣秀吉の命により、松本潤さん演じる徳川家康が、静岡県の駿府から江戸へ「国替(くにがえ)」させられるシーンが印象的でした。そこで、スーパーカブで首都東京の各所に残る「江戸城」の石垣の跡を探してみました。

今回訪れた中でも、とくに保存の仕方がお洒落だと感じたのが、東京都港区西新橋にある「江戸城外郭南側の石垣」。三代将軍の徳川家光が作らせた石垣が、ビル増築工事の際に発見されたそうだ今回訪れた中でも、とくに保存の仕方がお洒落だと感じたのが、東京都港区西新橋にある「江戸城外郭南側の石垣」。三代将軍の徳川家光が作らせた石垣が、ビル増築工事の際に発見されたそうだ

 江戸は湿地帯として知られる未開の地でした。「江戸城」は太田道灌(おおたどうかん)が1457年に築いた城ですが、規模は小さく、現在の皇居外苑付近まで海が迫っていたと言います。

「街を一から作る……」家康がそんな気概で「江戸城」に入ったのは1590年の8月1日でした。まず運河を作り、生活になくてはならない塩の運搬のための交通を確保。現在は痕跡をほぼ残していない「道三堀(どうさんぼり)」という運河を作り、城と江戸湾を結ぶ物資の輸送路として活用。また飲料水の確保のため、のちの神田上水として発展する河川の整備。そして千鳥ヶ淵などの貯水池を整備したと伝えられています。

 ドラマでも家臣達がアイデアを出し合うシーンがありましたが、まず最初に神田山(現在の駿河台)の丘陵を切り崩し、日比谷入江(現在の日比谷は元々入江だった)を埋めたと言われています。神田川が流れる御茶ノ水の、渓谷のような景色も人工的なものです。

「赤坂門跡」に残る石垣は通りからも見つけやすかった。1636年に筑前福岡藩主、黒田忠之(くろだただゆき)が築造したもの「赤坂門跡」に残る石垣は通りからも見つけやすかった。1636年に筑前福岡藩主、黒田忠之(くろだただゆき)が築造したもの

「江戸城」の城下町が発展すると同時に、外敵の侵略から守るための外堀や、「見附(みつけ)」と呼ばれる監視場も設けられます。今でも地名として親しまれている「赤坂見附(あかさかみつけ)」もそのひとつです。まずはスーパーカブで赤坂見附に残されている「枡形門(ますがたもん)」の石垣跡(東京都千代田区紀尾井町)を探しに行きました。

「枡形門」は、四角状(枡の形)の囲いで、ここを通過しないと内部に入ることができない構造です。赤坂見附は国道246号の起点になる場所。四谷門は甲州街道の起点というように、主要な街道の入り口にこのような門が設けられ、24時間体制で警備、監視をしていたそうです。そんな見附が全部で50箇所以上もあったというので、相当厳重であったことが想像できます。

 赤坂見附の赤坂門は、1636年に福岡藩主の黒田忠之(くろだただゆき)により築造されたもの。大山街道の出発点で、神奈川県伊勢原市の「大山阿夫利(おおやまあふり)神社」や、南足柄市の「大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ)」を参詣する江戸の人々で賑わっていたようです。かつての櫓や石垣のほとんどは明治4年(1871年)に撤去されましたが、昭和31年(1956年)に文化財として指定され保存されています。

草に覆われて見つけるのが困難だった「江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡」。かつての江戸城の外堀に位置するところで、荷揚げ場として使われた痕跡を残す草に覆われて見つけるのが困難だった「江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡」。かつての江戸城の外堀に位置するところで、荷揚げ場として使われた痕跡を残す

 次に、「江戸城」外郭南側の石垣を訪れました。ここは東京都港区西新橋に残る石垣です。1636年、三代将軍の徳川家光(いえみつ)の時代に作られたもので、ここもまた賑わいのあった場所とのこと。九州各地の諸大名が普請にあたり、石工による石面の符号も見つけることができました。

 丸の内トラストタワーのビルの谷間に残されている外堀の石垣は、バイクの駐車スペースがすぐに見つけられそうになかったので今回はスルーし、東京都千代田区大手町にある江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡に向かいました。

 ここは見つけるのに少し時間がかかりました。折しも平日のランチタイム、会社勤めの人たちが大勢いる中、安全なところにバイクを停め、しばし日本橋川の沿道を探索。すると雑草に覆われ、ほんの一部顔を覗かせている石垣を発見しました。解説板によると、この川はかつては「外堀川」と呼ばれ、「江戸城」の外郭に位置していたそうです。

 橋のたもとには築城資材の荷揚げ場があり、生鮮食品、材木などの物資も多く集まっていたようです。現代の、美味しそうな匂いを放つキッチンカーに集まる会社員達の姿も、ある意味当時の賑わいを、時代を超えてそのまま反映させているようで、興味深いものがありました。

東京都千代田区一ツ橋にある「雉子橋(きじばし)門石垣跡の石垣」は、非常に大きく、そびえ立つビルの谷間にありながらも堂々とした佇まいを見せる東京都千代田区一ツ橋にある「雉子橋(きじばし)門石垣跡の石垣」は、非常に大きく、そびえ立つビルの谷間にありながらも堂々とした佇まいを見せる

 最後に東京都千代田区一ツ橋にある「雉子橋(きじばし)門石垣跡」を訪れました。ビルの合間にひっそりと佇む……というよりも、かなりの迫力で存在感を放っているようにも見えました。

 石垣には刻印や矢穴が多数見受けられます。「矢穴」とは石を分割する際に楔を打ち込んだ、点線状の小さな穴です。本来は加工の跡なので隠したいところですが、これもまたちょっとした造形に見えてくるから、当時の石工も「これはこれでよし」としたのかもしれません。刻印はここを担当した大名を示しており、全国の大名が家康の命令によって城の整備を行なった証でもあります。

 まだまだ様々な場所に残されている「江戸城」の石垣跡と数多くの刻印。大都会の中に家康や、徳川家が残した跡を発見する旅はまだまだ深掘りできそうです。江戸の未来を描き、その可能性を信じた家康に、先見の明を感じずにはいられませんでした。

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