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【関ケ原の戦い】負け戦と知りながら三成との友情のために戦った大谷吉継 その陣跡には墓が建てられていた

バイクのニュース / 2023年11月2日 8時10分

1600年10月21日(慶長5年9月15日)に起きた「関ケ原の戦い」は、徳川家康率いる東軍の勝利に終わりました。負けた西軍にも多くのドラマがあり、共感され続けているエピソードも生まれています。その筆頭と言えるのが、大谷吉継(おおたによしつぐ)と石田三成(いしだみつなり)の友情物語でしょう。吉継の陣跡をスーパーカブで訪れました。

■浮かび上がる人間像、心に響く逸話があった

 豊臣秀吉の死去から2年後の1600年、徳川家康は上洛要請に応じない会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を謀反人とし、討伐するために大阪を出発しました。上杉との戦を順調に進めていた家康でしたが、その最中、石田三成と大谷吉継(おおたによしつぐ)が共謀して挙兵したことを知ります。そこには三成と吉継の友情が深く関わっており、「関ケ原古戦場」をスーパーカブで巡り大谷吉継陣跡を訪れると、そこに置かれた解説板でも知ることができました。

「若宮八幡神社」の境内を通り、大谷吉継の陣跡へ向かう。通りを挟んで駐車場があるので、バイクを停めて散策開始「若宮八幡神社」の境内を通り、大谷吉継の陣跡へ向かう。通りを挟んで駐車場があるので、バイクを停めて散策開始

 1600年6月、吉継は家康の会津征伐に加わるために領国の敦賀(福井県)を発ちましたが、その途中で三成から滋賀県彦根市の「佐和山城」に来るよう伝言を受けます。そこで挙兵の秘事を打ち明けられた吉継は、強大な勢力を持つ家康に対して勝ち目なしと、再三に渡って説得しましたが、最後は三成の決意に心打たれ、負け戦になることが分かっていながらも西軍として戦うことを決めたそうです。

 吉継が三成への厚い友情を示した理由のひとつが、「茶会」にあると言われています。不治の病である「らい病(ハンセン病)」にかかっていた吉継は、茶会にて顔の膿をお茶にこぼしてしまいました。それを目撃した誰もが飲むふりをしてお茶を回していたところ、三成はゴクゴクと飲み干したそうです。吉継は三成に対して感謝と友情の念を強く持ち、それは一生涯変わらなかったということになります。

鳥居の向こう側には東海道本線の踏切。線路を渡った先に、吉継の陣跡と墓がある鳥居の向こう側には東海道本線の踏切。線路を渡った先に、吉継の陣跡と墓がある

 才能溢れる吉継は、武将たちに人望のない三成を参謀役とし、毛利輝元(もうりてるもと)や宇喜多秀家(うきたひでいえ)を上に立てることを推奨。そのため西軍の総大将は三成ではなく、毛利だったのです。

 さらに小西行長(こにしゆきなが)や島津義弘(しまずよしひろ)など、そうそうたる武将たちを味方につけることに成功しました。その中の1人、小早川秀秋(こばやかわひであき)に対しては裏切りを予感していたため、小早川が布陣する松尾山のすぐ近く、山中村に陣を張ったそうです。

 戦いの火蓋が切られた9月15日(現在の暦で10月21日)正午、1万5千の大軍の秀秋が東軍に寝返り、わずか2千人という吉継の部隊は大軍に襲われますが、3度も跳ね返し善戦したと言います。しかし自らの指揮下にあった脇坂安治(わきさかやすはる)らも寝返ったため、ついに壊滅。吉継は切腹したのです。

「若宮八幡神社」の境内から右へ進んで山道を登っていく。吉継の家紋は2つあり、関ケ原では武勇を象徴する「違い鷹の羽(ちがいたかのは)」の家紋を使った「若宮八幡神社」の境内から右へ進んで山道を登っていく。吉継の家紋は2つあり、関ケ原では武勇を象徴する「違い鷹の羽(ちがいたかのは)」の家紋を使った

「(病で崩れた)自分の顔を敵に晒されないよう土に埋めよ」との命を受けた家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ)は、東軍の東堂高刑(とうどうたかのり)に見つかり、自分の首を差し出す代わりに、吉継の首を奪わず土に埋めさせて欲しいと嘆願します。すると高刑は、主君の名誉を守るその姿に感銘を受けたと言います。

 その後、家康に吉継の首の在り処を厳しく追及されるも、高刑は決して口を割りませんでした。その様子に家康は怒るどころか高刑の行動に感心し、褒美まで与えたというエピソードも残っています。

藤堂高虎が建立させたという吉継の墓。その横には主君の名誉を守り通した家臣、五助の墓も並んでいる藤堂高虎が建立させたという吉継の墓。その横には主君の名誉を守り通した家臣、五助の墓も並んでいる

 吉継の陣跡に向かって山道を登っていくと、吉継と五助の墓が並んでいました。高刑の伯父である高虎(たかとら)は東軍でありながら、敗戦の将である吉継を敬って関ケ原の地に墓を立てたのだそうです。また1916年には湯浅家の手により、吉継の墓に寄り添うように五助の墓も建てられました。

 そっと墓に手を合わせて、次の陣地へ向かいました。

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