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「大坂冬の陣」で家康を追い詰め伝説を残した「真田丸」 その場所を訪れた

バイクのニュース / 2023年12月7日 12時10分

2016年に放送され空前の大ヒットとなったNHK大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』では、「大坂冬の陣」で堺雅人さん演じる真田幸村(さなだゆきむら)が徳川方の軍勢に大打撃を与えた伝説の出城が描かれました。現在は学校のグラウンドになっているその場所を、スーパーカブで訪れました。

■跡形も無くなった「真田丸」の地へ

 戦上手な真田昌幸(さなだまさゆき)に手こずる徳川家康の姿は、NHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれていました。そして昌幸の息子、幸村(信繁)もまた、今度は「大坂冬の陣」で家康を大いに苦しめました。鉄壁であるはずの「大坂城」は南側が弱点であることを幸村は見抜き、堀の外に出城「真田丸」を築き、徳川方の軍勢を迎え撃ったのです。

「真田丸」の跡地は学校のグラウンドになっていることは知っていたが、思っていた以上に立派な石碑が建てられ、その場所を見つけやすかった。ちょうどNHK大河ドラマ『真田丸』が放送された時期に建てられている「真田丸」の跡地は学校のグラウンドになっていることは知っていたが、思っていた以上に立派な石碑が建てられ、その場所を見つけやすかった。ちょうどNHK大河ドラマ『真田丸』が放送された時期に建てられている

 現地に設置された解説板にも書かれていますが、1600年「関ケ原」の戦いで西軍側であった真田親子は、敗軍の将として和歌山県の「九度山」に流されました。昌幸は1611年に他界し、幸村は豊臣秀頼の招きに応じて「大坂城」に入城し、「大坂冬の陣」(1614年)で大活躍を見せます。

「真田丸」は武田が得意とした半円形の「丸馬出(まるうまだし)」の形状で、空堀と水堀を備えていました。土塀には櫓が建てられ、狭間(さま)からは鉄砲による連弾攻撃ができたとのこと。これにより徳川勢は大量の死者を出してしまう事態に陥ったと言われています。

解説板では「大坂冬の陣」の陣図も見ることができた。徳川勢が城を完全包囲していた状態が分かる。この状況から巻き返したのが「真田丸の戦い」だ解説板では「大坂冬の陣」の陣図も見ることができた。徳川勢が城を完全包囲していた状態が分かる。この状況から巻き返したのが「真田丸の戦い」だ

 徳川方の大軍には前田利常(まえだとしつね)、松平忠直(まつだいらただなお)、井伊直孝(いいなおたか)、藤堂高虎(とうどうたかとら)など、そうそうたるメンバーがいましたが、彼らを手玉に取る活躍をした真田幸村は、伝説を残しました。

 現在は跡形もない「真田丸」は、大阪明星学園の敷地に当たることが判明しており、石碑の向こうに見えるのはグラウンドだけです。それでもこの地が幾多のドラマを生んだ戦場であったのは確かです。

真田山の「三光神社」の麓には、凛々しい姿で幸村の銅像が建っている。台座は真田家の菩提寺の「真田石」を使用している真田山の「三光神社」の麓には、凛々しい姿で幸村の銅像が建っている。台座は真田家の菩提寺の「真田石」を使用している

 少し離れたところに真田山「三光神社(さんこうじんじゃ)」があるので、麓に建てられた真田幸村の銅像も見てきました。そこには「大坂城」へ抜けると言われる「真田の抜け穴跡」がありますが、真意のほどは定かではないそうです。しかし「大坂城」には抜け穴伝説も残されているので、想像しながら眺めるのも楽しいものです。

年に1度だけ解放される「真田の抜け穴」は、真意は定かではないものの、真田による「大坂城」への抜け道の跡とされている年に1度だけ解放される「真田の抜け穴」は、真意は定かではないものの、真田による「大坂城」への抜け道の跡とされている

 また、11月の第一日曜日に開催される「真田まつり」では、その時だけ扉を開放するそうです。そのタイミングで訪れ、覗いてみるのも面白そうです。

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