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家康vs.幸村 「大坂夏の陣」 英雄と伝えられる真田幸村最期の地を訪れた

バイクのニュース / 2023年12月11日 8時10分

NHK大河ドラマ『どうする家康』で強敵として登場する真田幸村(信繁)は、2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』では物語の主人公でした。家康と幸村、この2人の対決が(ドラマ上で)7年ぶりに見られるとあって、SNSでも盛り上がっています。そんな幸村の最期の地をスーパーカブで訪れました。

■「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」真田幸村の最期

 真田幸村(さなだゆきむら)は本名を信繁(のぶしげ)と言い、1600年の「関ケ原の戦い」では父、昌幸と共に西軍に属し、戦に敗れた後は和歌山県、高野山の玄関口となる「九度山(くどやま)」に蟄居(ちっきょ)させられていました。本来であれば死罪となってもおかしくないところですが、家康の家臣、本多忠勝(ほんだただかつ)のとりなしで命が助けられたそうです。

「大坂夏の陣」で真田幸村が戦死した地、「安居神社(安居天満宮)」をスーパーカブで訪れた「大坂夏の陣」で真田幸村が戦死した地、「安居神社(安居天満宮)」をスーパーカブで訪れた

 しかし1614年、家康と豊臣家の間で起こった「大坂冬の陣」で、40代後半になった幸村は豊臣秀頼の誘いに乗り「大坂城」へ入城、再び家康と戦うことになるのです。

 幸村が「大坂城」の弱点と見抜いた南側を「真田丸」と呼ばれる出城で守り、そこで徳川の大軍を壊滅させるほどの大活躍を遂げました。その死者数は1万5千人とも言われています。

 幸村の活躍などにより、戦は徳川と豊臣の講和で決着となりますが、この時に豊臣方が「大坂城」の堀を埋めるという条件を飲んでしまい、「真田丸」の優位性は失われてしまいました。

大阪「天王寺」にある標高26mの「茶臼山」は、「大坂の陣」史跡として整備されている。「大坂夏の陣」では幸村の本陣となり、その活躍ぶりは家康を自害寸前まで追い込んだと言われる「天王寺口の戦い」で知られる大阪「天王寺」にある標高26mの「茶臼山」は、「大坂の陣」史跡として整備されている。「大坂夏の陣」では幸村の本陣となり、その活躍ぶりは家康を自害寸前まで追い込んだと言われる「天王寺口の戦い」で知られる

 それでも幸村は、翌年の1615年に再び起こった戦、「大坂夏の陣」で徳川に寝返ることなく、武将として堂々と戦います。

「大坂城」の南側にある「茶臼山(ちゃうすやま)」を本陣とし、「天王寺口の戦い」では3千5百の兵で1万5千の相手に奮戦し、家康本陣に突撃して馬印を倒したと言われています。

「安居神社」の境内にある松の下で戦死した幸村。当時の松は枯死したため、1951年に社殿復興を祈念して「さなだ松」が植樹された「安居神社」の境内にある松の下で戦死した幸村。当時の松は枯死したため、1951年に社殿復興を祈念して「さなだ松」が植樹された

 数で劣る豊臣方は次第に劣勢となり、幸村は「安居神社(やすいじんじゃ)」まで軍を引かせます。神社の境内で休んでいたところ、松平忠直(まつだいらただなお)の部隊に見つかり討ち取られました。「我が首を手柄にせよ」という最後の言葉も伝説として残っています。

松の下で傷を抱えながら休む幸村だが、最期まで武士の誇りを捨てずにいた姿が、銅像にも現れていた松の下で傷を抱えながら休む幸村だが、最期まで武士の誇りを捨てずにいた姿が、銅像にも現れていた

 幸村最期の地となる「安居神社」をスーパーカブで訪れると、NHK大河ドラマ『どうする家康』では主人公である家康にとって宿敵ですが、その類い稀な才能は敵味方関係なく評価され、最期まで筋を通した武将として、いまなお人々の心に息づいているようでした。

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