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戦国時代を引き起こした!? 北条早雲ゆかりの「韮山城」へ

バイクのニュース / 2024年2月18日 11時10分

北条早雲(ほうじょうそううん)、またの名を伊勢新九郎(いせしんくろう)は、出家後は伊勢宗瑞(いせそうずい)を名乗る戦国大名です。1493年10月1日に「伊豆討入り」という、戦国時代の始まりを象徴する事件のひとつを起こした人物が、伊豆の拠点として、また晩年を過ごしたと言われる「韮山城(にらやまじょう)」を、スーパーカブで訪れました。

■北条早雲終生の居城は、「落ちない城」として伝えられていた

 歴史ファンなら、その名を聞けば心が昂ぶるかもしれない北条早雲(ほうじょうそううん)は、駿河から伊豆へ侵攻し、その後、小田原を制して関東の覇者となった、後北条家の代表的な武将です。事の発端となる1493年の「伊豆の討入り」では、伊豆の最大勢力「堀越公方(ほりこしくぼう)」のお家騒動の混乱に乗じて制圧したと言われています……が、実際はそう単純な話ではないようです。

スーパーカブで伊豆の国市韮山にある「韮山城跡」へ。近くの重要文化財「江川邸」の無料駐車場にスーパーカブを停めてから散策を開始。この付近には明治の産業遺産「韮山反射炉」や、伊豆に流された源頼朝と北条政子が寄り添う像が置かれた「蛭ヶ島公園」など、見所も多いスーパーカブで伊豆の国市韮山にある「韮山城跡」へ。近くの重要文化財「江川邸」の無料駐車場にスーパーカブを停めてから散策を開始。この付近には明治の産業遺産「韮山反射炉」や、伊豆に流された源頼朝と北条政子が寄り添う像が置かれた「蛭ヶ島公園」など、見所も多い

 少し調べてみると、堀越公方と呼ばれる人物は将軍足利義政(あしかがよしまさ)の弟、政知(まさとも)で、鎌倉には入れず、伊豆堀越(現在の静岡県田方郡韮山町)を拠点としたため、その名で呼ばれていました。

 政知には3人の男子がいました。長男の茶々丸(ちゃちゃまる)は先妻との子で、次男の潤童子(じゅんどうじ)を後継にしたいと考えた後妻の円満院(えんまんいん)が、茶々丸を些細な罪で牢に入れてしまいました。

 しかし1491年に政知が病死すると、茶々丸は混乱に乗じて脱獄し、円満院と潤童子を殺害して自らが2代目の堀越公方になることを宣言するのです。

 そして1493年、早雲の「伊豆の討入り」が起きるわけですが、この年にもうひとつの大きな事件が勃発していました。それが「明応の政変」です。

 これは官僚の細川政元(ほそかわまさもと)によるクーデターで、不仲だった10代将軍の足利義稙(あしかがよしたね)を追放し、11代足利義澄(あしかがよしずみ)を擁立した事件です。

 そして義澄は、じつは初代堀越公方である足利政知の子でした(茶々丸の弟で潤童子の兄)。義澄は京都で出家していた身だったため、茶々丸に殺されずに済んだのです。将軍となった義澄は、当然ながら実の母と弟を殺した茶々丸を許すわけにはいきません。

「韮山城」の本丸に向かう道へ。この地点で、すでに正面の高台から弓矢鉄砲で狙われている……と感じた「韮山城」の本丸に向かう道へ。この地点で、すでに正面の高台から弓矢鉄砲で狙われている……と感じた

 さて、そこで早雲の動きに繋がるのですが、早雲という人物は甥である今川氏親(いまがわうじちか)の家督争いに協力しており、駿河国に領土を得ていました。

 早雲も今川氏親も官僚の細川政元と親密であったため、幕府に協力して今川勢の先鋒、総大将として堀越公方(茶々丸)を攻めるため、伊豆へ侵攻したというわけです。これが1493年、早雲38歳の時の「伊豆の討入り」です。

「韮山城(にらやまじょう)」は、早雲の伊豆の拠点となった城です。早雲により伊豆を追放された茶々丸は、その後反撃し、戦闘は続いたと言われていますが、1498年に甲斐国で自害という結末を迎えています。

北条早雲が創建したとされる「熊野神社」(韮山城守護神社)では「落ちない城」とデザインされた絵馬を販売中。勝利に通ずるご利益を感じさせる北条早雲が創建したとされる「熊野神社」(韮山城守護神社)では「落ちない城」とデザインされた絵馬を販売中。勝利に通ずるご利益を感じさせる

 今回スーパーカブで訪れた伊豆の国市「韮山城跡」に設置された解説板によると、早雲によって本格的に築城され、約100年に渡って存続した中世城廓で、1519年に早雲が没したのもこの地だとのこと。

 その後、2代目の北条氏綱(うじつな)の時代に小田原に拠点を移しますが、この「韮山城」も領国支配と防衛の重要拠点でした。1590年の豊臣秀吉による「小田原攻め」の際は、4万を超える大軍勢に包囲されながらも約3カ月持ちこたえたと言います(最終的には小田原城と共に開城)。

 1601年に廃城となりましたが、曲輪(くるわ)や堀、土塁などの保存状態も良好で散策しながら見ることができます。現在の県立韮山高校となっている平地は、かつては平時の居館があったそうです。

高台に上がると本丸があった。地元の方の誇りを感じさせるのぼり旗が何本も立っていた高台に上がると本丸があった。地元の方の誇りを感じさせるのぼり旗が何本も立っていた

 本丸へ向かう途中、城の麓には早雲が戦国時代に創建したとされる「熊野神社」(韮山城守護神社)があります。そこには「落ちない城」の絵馬が掛けられていました。勝負に勝とうとする人たちの願いが込められているようです。

「韮山城跡」は、まさに戦国時代到来を告げた、早雲の魂を感じさせる山城でした。

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