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ここまで状態保存の良い平城は珍しい!? 富山市「安田城跡」へ

バイクのニュース / 2024年9月7日 12時10分

富山県富山市にある「安田城跡」にバイクで訪れ、到着した瞬間に思ったのは「城跡はどこ?」でした。解説板によると、ここは周囲の川を堀として活用した「平城」だったのです。当時の遺構としての姿をしっかり残している、全国的にも珍しい城跡でした。

■一見ただの平地だが……

 急峻な山岳に築かれた「山城」もあれば、平地に築かれた「平城(ひらじろ)」もあり、国内に残存する城跡にもいろいろな形があります。今回バイクで訪れた富山県富山市婦中町安田にある「安田城跡」は、いわゆる平城でした。隣接する資料館は残念ながら閉館日でしたが、現地には城跡の解説板が充実しているため、「安田城」の成り立ちや存在意義、歴史などを知ることができました。

バイクで「安田城跡」へやって来たが、現地に設置された解説板の向こうは一見ただの平地。どこに城の跡が残っているのだろうと思ったが、この平地そのものが「平城」だったバイクで「安田城跡」へやって来たが、現地に設置された解説板の向こうは一見ただの平地。どこに城の跡が残っているのだろうと思ったが、この平地そのものが「平城」だった

 1585年、天下統一を果たすため豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)はその年の8月に、佐々成政(ささなりまさ)を攻めるべく、越中(現在の富山県)に出陣しました。

 成政のことを調べると、なかなか面白いことが分かります。10代の頃から仕えていた織田信長を、真意はともかく暗殺しようと企てていたらしいことや、織田軍の鉄砲部隊を鍛え上げたこと、1584年「小牧・長久手の戦い」では家康側につき秀吉と対戦するも信長亡き後、盟主である信長の嫡男、信雄(のぶかつ)と、仲間であったはずの徳川家康が敵対する秀吉と和睦停戦してしまったため、孤立無援の窮地に陥り、家康の真意を確かめるために敵軍の目をかいぐぐって真冬の立山連峰を越えて富山から浜松まで会いに行った伝説などなど。

 さて、そんな成政を攻めるために秀吉は「佐々攻め」を行なうわけですが、富山市のホームページには、秀吉の狙いは成政を屈服させるだけでなく、かつて主として仰いだ信雄を「佐々攻め」の総大将とすることで、上下関係(秀吉が上であること)を明確にする意図があったと書かれています。また越後(現在の新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と連携を図る目的もあったようです。

「安田城跡」には、野外にタイルを使った城の立体模型や対峙する城の位置関係が分かる地図が設置されている「安田城跡」には、野外にタイルを使った城の立体模型や対峙する城の位置関係が分かる地図が設置されている

 この「安田城」は、秀吉の本陣「白鳥城」の支城として築かれたものだそうです。成政は秀吉の圧倒的な兵の数に降伏し、「安田城」には加賀前田家(かがまえだけ)の家臣である岡嶋一吉(おかじまかずよし)が居城。その後、家来の平野三郎左衛門(ひらのさぶろうざえもん)が居城しましたが、金沢に帰還したため廃城となったようです。

 堀と土塁は調査の結果をもとに復元整備されたものだそうです。近くには井田川が流れ、水を引き入れた堀が巡らされた構造で、「本丸」と「二の丸」には土塁が存在していました。かわらけ(灯明皿として利用)、陶磁器、短刀、銅銭などが出土したそうです。

 その後の成政ですが、秀吉に仕え、九州征伐の軍功を評価されて肥後国(現在の熊本県)を与えられました。しかし強引な検地強行のため一揆を誘発して大苦戦。その失態を秀吉から追求され、1588年5月に切腹を命じられます。

 その4年前、成政は側室の小百合の不貞を疑い、木にくくりつけて惨殺。小百合は呪いの言葉を吐いて絶命したと言います。「安田城跡」を訪れたことは、エリート武将、佐々成政の激動の人生を知るきっかけになりました。

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