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真田幸村ゆかりの地でもある秋田県由利本荘市の「亀田城」へ

バイクのニュース / 2024年9月14日 12時10分

秋田県の南部に位置する由利本荘市(ゆりほんじょうし)をスーパーカブで巡り、「亀田城跡」を訪れました。現在は美術館として残されています。

■陣屋から城へ、城主格に至った亀田藩とは

 秋田県由利本荘市にある「亀田城跡」は、正確に言えば城跡ではなく、現在は「亀田城佐藤八十八美術館」として残されている、旧岩城町亀田を藩庁とした、亀田藩の陣屋があった場所です。周囲には民家や学校が立ち並んではいますが、いわゆる城下町のような雰囲気です。その空気を感じながら、スーパーカブで訪れました。

かつて岩城亀田藩2万石の城下町として栄えた町をスーパーカブで巡る。城下町の雰囲気をところどころに感じるかつて岩城亀田藩2万石の城下町として栄えた町をスーパーカブで巡る。城下町の雰囲気をところどころに感じる

 美術館の駐車場にバイクを停めて、入館料210円を払って中に入ってみました。

 まずは解説動画を見て亀田藩の歴史を勉強します。それによると、岩城という地域は、縄文遺跡が多数出土した場所だそうです。その後、奈良時代の中央政権が東北の「蝦夷(えみし)」と呼ばれた部族たちの支配、平定を進めていったこと、平安時代には奥州藤原氏の文化が栄えたことなど、東北の歴史を解説してくれます。

 1623年に岩城吉隆(いわきよしたか)が長野県の川中島から移り、初代「亀田藩」の藩主となりますが、その後、佐竹家の養子となったため、叔父の岩城宣隆(のぶたか)が2代目藩主に。

1991年に建てられた「亀田城」の大手門や石垣の迫力はなかなかのもの。石垣に使われている石材も大小さまざまで、歴史的価値云々ではなく建造物として面白い1991年に建てられた「亀田城」の大手門や石垣の迫力はなかなかのもの。石垣に使われている石材も大小さまざまで、歴史的価値云々ではなく建造物として面白い

「真田丸」で有名な真田信繁(のぶしげ・別名幸村)の娘、御田姫(御田の方・おでんのかた)が宣隆のもとへ嫁ぎ、地元に大変愛され、また地域や真田家の復興に尽力したことや、3代目の重隆は名君と呼ばれたことなど、歴代の藩主のことを知ることができました。

 さらに解説動画によると、8代目の隆喜(たかひろ)の時代、1852年に家格が城主格に昇格し、ここから亀田陣屋は「亀田城」となったそうです。亀田藩は広大な地域を領地としており、現在の秋田市、大仙市、由利本荘市の地域を指しています。

美術館見学を終えて、バイクで4分ほどの「妙慶寺」へ。真田信繁(幸村)の娘、御田姫(御田の方)が1629年に建立。いたるところに「六文銭」が見られ、真田ゆかりの地であることを感じさせる美術館見学を終えて、バイクで4分ほどの「妙慶寺」へ。真田信繁(幸村)の娘、御田姫(御田の方)が1629年に建立。いたるところに「六文銭」が見られ、真田ゆかりの地であることを感じさせる

 一通り歴史を学んだところで、館内巡りです。本庄市の佐藤八十八(さとうやそはち)氏が3代にわたって収集し、岩城町に寄贈した書や絵画、工芸品などの展示をはじめ、日本の伝統文化を数多く展示していて見応え十分なものでした。

 美術館を見学したあとは、御田姫が建立した「妙慶寺」へ。御田姫の歴史を調べるとたいへんドラマチックです。「大坂の陣」で真田幸村が討ち死にした後、娘である姫は町民に変装して各地を流転していましたが、徳川家康に捕まり江戸へ連行されます。しかし武将の娘の立ち振る舞いは良い意味で表に現れていたのでしょう。家康は姫の身元を知ると大奥に仕えさせます。

真田家の家紋「六文銭」が刻まれた御田姫の墓前で手を合わせた真田家の家紋「六文銭」が刻まれた御田姫の墓前で手を合わせた

 その後いかにして秋田県の亀田藩へ嫁いできたのか、その経緯もたいへん興味深いものです。このお寺は「大阪の陣」で破れた真田家を供養するために建立したものだそうです。そして真田家の再興も成し遂げたとのこと。

 32歳という若さで亡くなった姫の暮石にそっと手を合わせて、「亀田城跡」を後にしました。

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