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【世界に挑む日本人ライダーの足跡】Moto3山中琉聖選手、11歳の再開と決意

バイクのニュース / 2024年9月16日 12時10分

この企画では、MotoGPに参戦する日本人ライダーの、世界へ至る足跡を紹介します。今回は、2024年シーズンの第7戦イタリアGPで歓喜の3位、Moto3初表彰台を獲得した山中琉聖選手(MTヘルメット - MSI)に話を伺いました。

■ガス欠になるくらい夢中で走った、初めてのポケバイ

 ムジェロ・サーキットの表彰台の上で、山中琉聖選手(MTヘルメット – MSI)の印象的な笑顔が弾けました。2024年シーズンのイタリアGPで獲得した3位。それは、2020年シーズンからMoto3クラスへの挑戦を開始し、戦い続けてきた山中選手が、ロードレース世界選手権の舞台で初めて得たポディウムでした。

2020年のロードレース世界選手権デビュー以来、初の表彰台を獲得したイタリアGP(2024年)2020年のロードレース世界選手権デビュー以来、初の表彰台を獲得したイタリアGP(2024年)

 そんな山中選手のキャリアは、バイクに夢中になるところから始まりました。3歳のとき、お兄さんがポケバイに乗っている姿を見て、練習に連れられて行っていた3歳の山中選手の心に「僕もポケバイに乗ってみたい」という気持ちが芽生えたのです。乗ってみると、山中選手はその楽しさにすっかり魅了されてしまいました。

「すごく楽しくてガス欠になっちゃったくらいです。“やばい、ガソリンがない”って、ガソリンをもらいに行ったんですよ!」

 そんなスタートのあと、ポケバイからミニバイクレース、そして筑波やもてぎ、鈴鹿のロードレース選手権に参戦。13歳のときにアジア・タレントカップへ……と、順調にステップアップしていったように見えますが、そこはほかの遊びもしたいお年頃です。バイク以外に心を惹かれる時期もありました。

「ポケバイで走っていた小学校低学年のころは、毎日学校までお父さんが迎えに来て、家から10~15分のところにあるポケバイサーキットに直行していました。そのころはまだお兄ちゃんも現役で走っていたんですけど、お父さんが正門で待っているから、2人して“家に帰っちゃおう”って、裏門から逃げたりしました(笑)。もちろん、嫌なときもありましたよ。友達と遊びたいときもありましたしね」

■バイクの再開と、プロへの決意

 そして、山中選手にひとつの──、いいえ、大きな転機が訪れます。それは小学校5年生の頃でした。バイクに乗ることをやめたのです。

「速く走れなかったし、親にも怒られるからやめよう、って。そのときに、野球やゴルフ、スケボー、スキー、いろいろなスポーツをやってみたんです。野球はちゃんとクラブチームにも所属していました。でも“やっぱりちょっと、違うな”と思っていたんです」

 バイクから離れてプレイしていた野球では、ピッチャーとキャッチャー以外のあらゆるポジションをやりました。けれど、周りは小学校1年生から野球に打ち込んできた選手ばかり。一方の山中選手は小学校5年生からの加入で、当時は体格が小柄だったこともあって、ヒットを打っても飛距離が伸びないなど、如何ともしがたい周りとの差がありました。

「やっぱり違うな。そろそろバイクに乗りたいな」

 バイクへの思いが募りつつあったある日、山中選手は「たまにはバイクに乗ろうよ」と、走行会に誘われるのです。それが、山中選手の道を変えました。

「その日、乗ったバイクがすごく楽しくて。“やっぱり、もう一度、バイクに乗りたい”と、バイクを再開しました。走行会に行っていなかったら、バイクとは違う道にいましたね」

山中琉聖選手(#6/MTヘルメット - MSI)山中琉聖選手(#6/MTヘルメット - MSI)

 再びバイクに乗り始めるにあたり、山中選手はひとつ、大きな決断をします。プロになることを決めたのです。

「やるなら、本気でやろう」

 その決断は、現在に至るまで山中選手のモチベーションの根源となりました。

「バイクを再開するとき、父と“もう一度やめるのはなし。やるなら、しっかりやろう”という話をしました。そこで決断したんです。ハングリーな気持ち、勝ちたい、上のクラスに行きたいという気持ちが常にあったんですね。もちろん、今もあります。その気持ちがあったから、続けてこられたのかなと思います」

「僕はたぶん、ほかのライダーと比べてきつい道を通ってきたと思っています。スポンサー集めなどで苦労したシーズンがあったり、一時はもう走る場所がなかったこともありました。自分でスポンサーさんを見つけて、シートを探して、ほんとにつらい時期でしたけど……、“世界チャンピオン”という目標が常にあったんです。チャンピオンになるには、こんなところでつまずいていられない、と常に思っていました」

 もしも、野球に夢中になってバイクに乗りたいという気持ちが戻っていなかったら?

 もしも、走行会に誘われたとき「バイクはまだいいかな」というタイミングだったら?

 そして、バイクを再開するという決断の先に、プロのレーシングライダーを意識していなかったら……。

 いくつもの細かく、小さな、タイミングと決断。それは「レーシングライダー・山中琉聖」にとって、大きな大きなターニング・ポイントでした。

■「もし、レーシングライダーになっていなかったら?」

「もし、レーシングライダーになっていなかったら、何になっていたと思いますか? または、何になりたかったですか?」と質問すると、山中選手はすんなりと答えました。

山中琉聖選手(MTヘルメット - MSI)山中琉聖選手(MTヘルメット - MSI)

「スポーツ選手にはなりたいと思っていました」と。体を動かすのが好きなのだそうです。

「最後までやりきりたいという気持ちがあるので、どのスポーツでも、トップの選手になりたいです」

 そう思う背景には、あの「ターニング・ポイント」がありました。山中選手にとって、小学校5年生のそれは、道だけではなく、考え方を含めて変化をもたらした事象だったのでしょう。

「バイクをもう一度やる、という決断をして“やるならプロを目指そう”と思ったんですが、そう思ってから気持ちが変わったというか……。今だから言えますけど、もしあの頃に戻って自分の野球を見たら、すごく甘い野球をしているな、と思うはずなんですよ」

「当時、もちろんトレーニングや練習はしていました。でも、人一倍の練習をしないとプロにはなれないのに、それをしていなかった。努力が足りなかったなって。野球や、今までやってきたスポーツを振り返ると思うんです」

「今、プロになって思うのは、たくさん練習をしたからこそ、ここに来られた、ということです。もし、もう一度あの当時に戻って野球をやり直したら、もしかしたら、野球選手になれていたかもしれない。それがビッグな選手なのかはわからないけど、ちゃんと人一倍の努力をしていれば、なれるんじゃないかな、と思います」

 山中選手の言葉には、彼がこれまで積み重ねてきた、そして注ぎ込んできたものが詰まっているようでした。そしてこれからも、山中選手は本気の全力疾走を続けていくのでしょう。11歳で決めた、意志とともに。

2023年は前年のチャンピオンチーム「Gaviota GASGAS Aspar M3」から参戦した山中選手(#6)2023年は前年のチャンピオンチーム「Gaviota GASGAS Aspar M3」から参戦した山中選手(#6)

■山中琉聖(やまなかりゅうせい)/MTヘルメット – MSI/#6
2001年11月6日生まれ
2015年:シェルアドバンス・アジア・タレントカップ(※現イデミツ・アジア・タレントカップ)に参戦
2016年:シェルアドバンス・アジア・タレントカップ ランキング4位
2017年:イデミツ・アジア・タレントカップ ランキング4位、レッドブルMotoGPルーキーズカップ ランキング6位
2018年:レッドブルMotoGPルーキーズカップ ランキング6位
2019年:FIM CEVレプソルMoto3ジュニア世界選手権 ランキング5位
2020年:ロードレース世界選手権Moto3クラスにフル参戦を開始
2024年:「MT Helmets – MSI」(KTM)よりMoto3にフル参戦。第7戦イタリアGPで3位表彰台を獲得

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