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関東の名城、鎌倉に築かれた北条早雲の「玉縄城」は堅固な山城だった

バイクのニュース / 2024年10月27日 11時10分

戦国時代初期の武将として知られる北条早雲(ほうじょうそううん)が、現在の神奈川県鎌倉市に築いた「玉縄城(たまなわじょう)」は、戦で堕ちることがなかった頑強な山城でした。その姿を確かめに、バイクで訪れました。

■もはや城の姿は想像できないが、遺構が大切に保存されていた

 1512年、戦国時代初期の武将として知られる北条早雲(ほうじょうそううん)により築かれた「玉縄城(たまなわじょう)」は、東海道と鎌倉を結ぶ交通の要所に位置します。川に囲まれ、水堀の機能と共に水運の役目も果たすという機能面の強さもさることながら、歴代の名君が城主として引き継ぎ、堅固な城だったとも言われています。

「玉縄城」を散策すべく、緑地として整備・公開されている「植木1号市民緑地」看板前に到着。ここでも城の想像図を見ることができる「玉縄城」を散策すべく、緑地として整備・公開されている「植木1号市民緑地」看板前に到着。ここでも城の想像図を見ることができる

 三浦半島の三浦氏、房州の里美氏の軍勢を止め、1561年には上杉謙信(うえすぎけんしん)の包囲でも堕ちず、1569年、甲州の武田勢の攻めにも安泰。1590年の豊臣秀吉の「小田原攻め」の際は、徳川家康勢の包囲でも力づくでは堕ちなかったとされています。最終的には無血開城となりましたが、それほどまでに強固な山城だったということがわかります。

 さて、まず最初にバイクで訪れたのは「太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)」付近です。場所的には「七曲坂(ななまがりざか)」を上り切ったところにあります。周囲は民家がぎっしりと建ち並んでいるので城があったことは想像しにくいです。ここは市民緑地として開放されており、麓にある駐車スペースにバイクを停めると散策しやすいでしょう。

太鼓櫓は狼煙台としても使われていた。その遺構は「七曲坂」を登り切った標高55mの高台にある太鼓櫓は狼煙台としても使われていた。その遺構は「七曲坂」を登り切った標高55mの高台にある

 まずは本丸の大手門跡の解説版を発見。現在は清泉女学院の裏門になっているため中に入ることはできませんが、かつては「玉縄城」の大手門だったところです。五角形の巨大な本丸の様子が窺える、1960年に撮影された写真も見ることができました。

 太鼓櫓の南側の崖下には小規模の平場が展開されており、これが「煙硝蔵(えんしょうぐら)」、つまり武器弾薬庫の跡だとされています。

 じつは「玉縄城址」を守る活動を行なっている市民団体が作成したホームページで、見事な堀切の跡などの写真を見ることができるのですが、それは西側の門扉から階段を降りて平場に立たないと見られない光景のようです。残念ながら整備中とのことで封鎖されていたので、中に入ることはできませんでした。

 しかしホームページの充実、市民ボランティアによって綺麗に整備された七曲坂やこの緑地などを見ることができるだけでも、城跡好きな身にとってはありがたい限りです。

「七曲坂」を下から歩いてみる「七曲坂」を下から歩いてみる

 七曲坂は下から登ることにしました。付近の清泉女学院、坂の麓にあるみどり幼稚園や鎌倉市の協力のもと、2011年の美化ボランティアによって整備されて復活したという道はとても歩きやすかったです。

 幾重にも折れ曲がった坂は、まさに戦国時代の山城らしい遺構です。あの上杉謙信が坂下から城砦を見上げて攻略を諦め、兵を引きあげたとも言われています。

 途中に休憩用ベンチがある辺りは、「武者だまり」として下から攻めてくる敵兵を追い返す防御地帯だったそうです。

玉縄北条家の菩提寺である「龍寳寺」と「玉縄歴史館」にも訪れた玉縄北条家の菩提寺である「龍寳寺」と「玉縄歴史館」にも訪れた

 坂を堪能した後は、北条の菩提寺である「龍寳寺(りゅうほうじ)」と、同じ敷地内にある「玉縄歴史館」にも訪れました。

 東国最強の山城とも言われる「玉縄城」は、城跡好きにはたまらない遺構でした。

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