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茨城県唯一の本格的石垣城砦「笠間城」に昂る!

バイクのニュース / 2024年11月24日 11時10分

地名と苗字は関係が深く、普段とくに気にせず認識している地名が、じつはその地を治めていた家の名というのはよくあることです。茨城県中部の笠間市と、かつての常陸国の笠間氏(かさまし)の関係も然りです。「笠間城跡」をバイクで訪れました。

■随所に石垣が見られる、散策が楽しい山城

 地名と苗字は関係が深く、普段とくに気にせず認識している地名が、じつはその地を治めていた家の名というのはよくあることです。茨城県中部の笠間市と、かつての常陸国の笠間氏(かさまし)の関係も然りです。そこに茨城県内の城跡としては珍しい、石垣が使われた「笠間城」があるので、バイクで訪れました。

広い駐車場にバイクを停めて「笠間城跡」の散策開始。現地に設置された解説板には城の概要が記され、縄張り図もあるので山城の姿をイメージしやすい広い駐車場にバイクを停めて「笠間城跡」の散策開始。現地に設置された解説板には城の概要が記され、縄張り図もあるので山城の姿をイメージしやすい

 茨城県笠間市の歴史は、市の公式ホームページで詳しく知ることができます。それによると、元々は宍戸氏(ししどし)がこの地を領土として、15代に渡って380年間治めています。

 室町時代後期には宍戸氏の統治が終わり、鎌倉時代初期には二大寺院とされる「正福寺」と「徳蔵寺」による激しい勢力争いがあり、その紛争に乗じて両寺を討ち、領地を拡大したのが宇都宮一族です。

 領主である宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)が甥の塩谷時朝(しおのやときとも)にこの地を与えますが、ここで時朝は苗字を「笠間」として笠間氏の時代が始まります。

 1590年の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際に、18代綱家(つないえ)が本家の宇都宮家に反逆の様子をみせたことで、宇都宮国綱(くにつな)によって滅ぼされ、約385年の笠間氏の歴史は幕を閉じたとのことです。

 1600年の「関ヶ原の戦い」の翌1601年に笠間藩が、1602年に宍戸藩が成立します。有名な笠間焼は江戸時代後半に始まったと言われています。明治4年7月の廃藩置県では、笠間藩が笠間県に、宍戸藩が宍戸県となり、その年の11月には現在に至る茨城県として統合されました。

散策路を歩いてすぐに大手門跡があり、「穴太衆」の技術を活かした野面積みの石垣が残存していた。文化財の調査中で一部ロープが張られていた散策路を歩いてすぐに大手門跡があり、「穴太衆」の技術を活かした野面積みの石垣が残存していた。文化財の調査中で一部ロープが張られていた

 ということで、広い駐車場にバイクを停めて「笠間城跡」の散策開始です。解説板によると、築城は1219年とのこと。前述の笠間時朝が築城者として名を残しています。1590年の笠間氏没落後は宇都宮氏家臣の玉生氏(たまにゅうし)、そして1598年には蒲生郷成(がもうさとなり)が「笠間城」を近世城郭として変貌させたと考えられているようです。

「笠間城」は茨城県では唯一の本格的な石垣が築かれている貴重な遺構です。平成26年から本格的な調査を始めていると書かれていますが、訪れた時も石垣の調査が行われていて、大切に保存されている様子がわかりました。

昼間でもちょっと怖いくらいの真っ暗なトンネルをゆく。ここは心霊スポットとして有名だそうだが、山城ファンにとっては、人の生死が濃い場所というのは織り込み済みで、歴史浪漫の方が勝るというもの昼間でもちょっと怖いくらいの真っ暗なトンネルをゆく。ここは心霊スポットとして有名だそうだが、山城ファンにとっては、人の生死が濃い場所というのは織り込み済みで、歴史浪漫の方が勝るというもの

 前述の蒲生郷成の時代に石垣が築かれたと考えられていますが、蒲生氏の出身が岐阜県の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」がいた近江だという事実に納得です。不揃いな大小の石を匠の技で強固な石垣とした「野面積み(のづらづみ)」を間近に拝められるだけで幸せです。

 散策開始直後に、いきなりその石垣が目の前に現れて興奮します。さらに本丸へ向かって歩みを進めると、真っ暗なトンネルが現れます。訪れたのは午前中でしたが、電灯のない暗闇に多少ビビりながらも先を進みます。

天守があった場所までは登って行けるが、石垣にはシートが被せられ最上部まではいけなかった。まだ東日本大震災後の復旧がされていない様子。ただ、立派な石垣を見ることはできた天守があった場所までは登って行けるが、石垣にはシートが被せられ最上部まではいけなかった。まだ東日本大震災後の復旧がされていない様子。ただ、立派な石垣を見ることはできた

 開けた本丸に到着すると、さらに天守がある曲輪への堀が見られました。残念ながら東日本大震災の影響で石垣にはシートがかかり、立ち入り禁止とされていました。あれから10年以上が経ちますが、いつの日か、ぜひ復旧して欲しいと願っています。

 かつては見事な天守が建ち、「三の曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」が設けられ、それぞれ白壁の塀があったとされています。その威容を想像しながら、帰路につきました。

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