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あの武田信玄がボロ負け!? 長野県上田市の「砥石城」は堅固な連郭式山城だった

バイクのニュース / 2025年1月27日 21時10分

勇猛武将として知られる武田信玄が大敗を喫し、その後、真田氏が重要視した「砥石城(といしじょう)」は、3つの山城が連なり1つの要塞として機能していた、いわゆる「連郭(れんかく)式」の山城です。バイクで城跡を訪れました。

■急峻で広大な山城、登山感覚で歴史浪漫を満喫

 これまでの山城巡りでも、「連郭(れんかく)式」と呼ばれる縄張りを実際に散策したことがあります。これは主要部となる本丸と、二の丸、三の丸など他の曲輪(郭)が連なるように配置されていることを指します。今回バイクで訪れた「砥石城跡」では、その規模が相当広大なものでした。「本城」を中心に、南に「砥石城」、北に「桝形城(ますがたじょう)」という3つの城から成り、総称して「砥石城」と呼ばれるそうです。

「砥石城跡」の麓に位置する、真田一族の本家が開いたとされる「陽泰寺」の広い駐車場にバイクを置いて登城開始。解説板も設置されており、全体の地理関係などを頭に入れてから歩いた「砥石城跡」の麓に位置する、真田一族の本家が開いたとされる「陽泰寺」の広い駐車場にバイクを置いて登城開始。解説板も設置されており、全体の地理関係などを頭に入れてから歩いた

 ここは戦国最強と言われた武田信玄が大敗を喫した山城としても知られています。

 甲斐国(現在の山梨県)を拠点とする信玄が、父の信虎(のぶとら)が結んだ諏訪、村上との同盟を破棄して信濃(長野方面)へ侵攻しました。1548年の「上田原の戦い」で、信玄は村上義清(むらかみよしきよ)によって初の敗北を味わうことになります。

 1550年には「砥石城」を拠点とする義清を攻めた信玄ですが、東西が崖に囲まれ、文字通り「砥石」のような山肌に手間取り、村上軍の救援隊の到着で挟み撃ちになることを恐れ、退却します。この戦で信玄は1000人もの武将を失い、大敗しました。

 現地に設置された解説板によると、これを「砥石くずれ」と呼ぶそうです。

 そんな堅牢な山城ですが、翌1551年、まさかの展開が待っていました。真田幸隆(さなだゆきたか)が、隙をついて易々と手に入れてしまうのです。真田氏の調略や内通による手腕が発揮されたようです。

 その後、義清は劣勢となって信濃国から逃走し、越後国の上杉謙信(うえすぎけんしん:当時は長尾景虎・ながおかげとら)を頼ります。「川中島の戦い」として知られる信玄と謙信の長きに渡る闘争は、ここから始まりました。

 一方、真田氏は1600年の「関ヶ原の戦い」まで、この「砥石城」を重要な拠点として位置付けていたそうです。幸隆の子、昌幸は城下町で政務を執り、次男は「真田丸」で有名な幸村(ゆきむら)です。

 さて、真田一族の本家が開いたと伝えられている「陽泰寺(ようたいじ)」脇の広い駐車場にバイクを停めて、解説板を読んでから登城を開始しました。低山登山の要素があるということを事前に調べておいたので、いつも通り滑りにくいトレッキングシューズで歩き始めます。道の入口に竹の杖が置かれていたので、それをお借りして登り始めました。

急峻な山だけに九十九折区間も長い。落ち葉で隠れた地面はとくに注意しながら足を進めた急峻な山だけに九十九折区間も長い。落ち葉で隠れた地面はとくに注意しながら足を進めた

 かなりの急斜面と九十九折の道は、落ち葉で地面が隠れているので慎重に進みました。今回は見つけることはできなかったのですが、途中には湧水ポイントの「水の手」があったようです。山城を築く際に水を確保できるかどうかは戦略上重要です。ここは理にかなっていたことがわかります。また、道中幾つもの平場を見ましたが、これは段が連なる郭として機能していたそうです。

 ようやく最初に見た看板は、左は「本城」、右は「枡形城」へ至るT字路です。左の「本城」へ進むと「大手口(おおてぐち)」に到着、いわゆる正面口です。

 坂道が終わり、開けた場所で一息つきます。冬の日差しが入り込む気持ちの良い尾根は、霜が降りているので気温は低いのですが、登山で温まった体をクールダウンするのには最適です。

 遠くに「烏帽子岳(えぼしだけ)」などを眺めながら、南方面に歩くと幅9mの「堀切(ほりきり)」と「切岸(きりぎし)」がありました。これは敵の侵入を防ぐために堀を分断し、崖を急峻なものに加工した防御機構です。

 この急な岸を登った先に、「砥石城」の主郭があります。かつては梯子を使って登っていたようですが、現在はロープが張られていて、それを掴みながら登頂しました。

 登り切るとベンチや解説板が設置された平場があり、そこで一息入れて眺望を楽しんでから「大手口」まで戻り、「本城」へ向かいます。

 ここで石垣の跡を発見。かなり崩れてしまっていますが、自然石のまま積まれている石垣や、下に転がっている石をしばし眺めます。もともと、城や山城に惹かれた理由が石垣です。城の石垣を見ていると、その当時の人の面影や息遣いを感じられるようで、なんとも言えない歴史浪漫を感じることができるのです。

 この辺りは幾つもの平場が段で連なっており、かなり広大です。かつては館もあったのではないか、と推定されているそうです。

 さらに北へ歩くと「空堀(からぼり)」、そして「矢竹(やたけ)」が群生している箇所へ到達。背が低くまっすぐな竹は矢に用いられていたそうで、ここは栽培されていた名残ではないか、とのこと。触ってみると想像以上に硬く、これなら武器の部品として使えそうです。

 北端の「桝形城跡」に到着し、探索は終了です。最高地点は周囲の山々や麓の真田町を見渡せるところでした。

 麓に戻ってきた頃には、朝一面に張っていた霜が溶けていました。ちょっとした登山感覚で楽しめる「砥石城跡」を十分に堪能し、バイクが待つ駐車場へ戻りました。

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