美川憲一、“飾らない言葉”のブログが話題に「シンプルに生きるとラクになる」

bizSPA!フレッシュ / 2020年11月25日 17時45分

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美川憲一、“飾らない言葉”のブログが話題に「シンプルに生きるとラクになる」

 9月からスタートした歌手・美川憲一さん(74)のブログが若い世代に反響を呼んでいます。

〈出来ることをコツコツとやるしかないわね〉〈時間はあるようでないんだから みなさんも幸せな事で 時間を埋めていくのよ~〉など、まるで美川さんに語りかけられているようなその文体は、〈美川さんの声で脳内再生できる〉と話題になっているほか、人生の機微が詰まった言葉には「沁みる」「泣いてしまった」という声も多数。

美川憲一

歌手生活55周年を迎えた美川憲一さん

 読むと元気が出る、と人気のブログタイトルは「しぶとく生きる」。全く売れなかったデビュー曲からのヒット、そしてスランプを経験し、再ブレイク。そして“おネエキャラ”はいつから――? など、「しぶとく生きる」というメッセージにつながる半生を聞きました。

◆シンプルに生きると「ラク」になる

──アメーバブログ「しぶとく生きる」を始めたきっかけを教えてください。

美川憲一(以下、美川):今の時代に少し合わせていかなきゃいけないんじゃないかって、周りのスタッフに言われてね。

 私はどっちかというと、マメなほうじゃないんですよ。「やりたいことはやるけど、やりたくないことはやらないわ」っていうスタンスでずっと今まできたのでね。でも、みんながやってるから、っていうぐらいの気持ちで、去年インスタを始めて。「ブログは(やらなくて)いいんじゃないの?」って最初は言っていたんだけど。

──ブログの飾らない言葉が、若者の心に響いています。

美川:私はね、スランプに陥ったとき「ここまで落ちたら這い上がるっきゃない」というところまで落ちてやろうと思って、落ちたんですよ。1984~1985年ごろのことね。

 私は自分が今どのくらいの位置にいるのか、肌で感じる人間なんです。でも、自分が落ちて「苦しい」と思うんじゃなくて、この寂しさをしっかりと受け止めようと思ったの。そしてその時に、これからは構えないで、シンプルに生きようと。見栄も張らないでね。

 そう考えたらすごくラクになるんですよ、気持ちが。外を歩くのも、人に声をかけられたら挨拶できる範囲で挨拶をして、話しかけられたら話したりしようって。すっごいラクなの、そうしたら。

◆産みの母と育ての母

美川憲一

──“自分がいまどのくらいの位置にいるのか”がわかるのは、子供の頃からですか?

美川:子供の時からそうでしたよ。私は産みの母と育ての母(実母の姉)という2人の母がいて。美人姉妹だったんです。育ての母のほうが色っぽいのね、着物を着て品があって。実母のほうは割とあっけらかんとしていて、洋風でモダンな感じで。

 ある時、姉夫婦と実母が汽車に乗っている時、車内で姉が男性から声をかけられて。(姉が)ごめんあそばせ、私は主人がおりますのよって言ったら、なんかがっかりした顔して。それでも(家に)遊びにきたんですって。実母は独り身でしたから、(姉が)その男性をすすめたら、タイプじゃないわって言ったんだけど、姉に「結婚して面倒を見てもらったほうがいいんじゃない?」と勧められて。お付き合いして、その男性がアパートを借りてくれて。

 それで、母が身籠って私ができたんです。母は子供できて嬉しいわって思ったけど、(実の父は)喜ばなかったんだって。産むのは「いいよ」って言ったんだけど、2か月ぐらい経ったころに薬を持ってきたのよ。「これを飲むと元気な赤ちゃんが生まれるよ」って言って。

 でも、母はなんかイヤな予感がしたらしいの。今ここで飲んでって父に言われたけど、後で飲むから心配しないでよって言って(父を)帰して。父は1回も泊まらなかったんですって、家には。それで2~3日経ってから(父が)来た時に、「飲んだ?」って聞くから、母は飲んだわよって言ったけど、実はその前に流しで薬を捨てていて……。

◆「この世に出なかったかもしれない子なのよ」

美川憲一

美川:母が薬を飲んでいたら、私は生まれなかったかもしれないの。ドラマみたいな話でしょ。

 結局、母のお腹がどんどん大きくなって、父は逃げちゃったのよ。(母は)妻子ある男性に騙されたのよ。その後、父の実家に行ったら奥さんが土下座して、お金あるからもらって欲しいって言って。それで、もうその人とは縁を切ったのね。……でもそれから母は肺結核にかかって、姉に私を預けたの。

──美川さんは、その話をいつ頃知ったのですか。

美川:中学生の頃。でもね、それには母の計算もあったのよね。何かあると「あんたはね、この世に出なかったかもしれない子なのよ」って。普通、親はそんなこと言わないでしょ。すごいビックリして。でも、さらに「だからあんたはしぶといのよ」って(笑)。その頃からあたしの体にはしぶとさが身についているのよ~。

◆つらい顔を絶対見せなかった“2人の母”

美川憲一

──美川さんにとって2人のお母さんは、それぞれどんな印象ですか。

美川:2人とも絶対に諦めないのよね。つらいっていう顔も見せない。義理の父親は、友達の保証人になったことから返済ばかりで……。生活費に困って、最期は私の目の前で、脳溢血で倒れて亡くなったんです。養母は風呂敷包みひとつあったら、どこでも働きに行くような人だったの。一人でご飯を食べて待っていたわ。

 テレビも買えない時代で。でも隣の家はテレビがあって、「坊や、見においで」って言ってくれたけど、意地でも行かなかったわね。自分の家はこういう家なんだから、それはしっかりと受け止めようと、最低限の子供のプライドだったんです。自分の部屋でお布団を敷いて、(育ての)母が帰ってくるのをポツンと待っているような子でした。

 やっぱり養母に心配をかけちゃいけないっていうことと、お小遣いが欲しいなと思っても言えないみたいなところがあって……我慢ですね。

 我慢することって、すっごく大事なことなのよ。我慢して、我慢してつらいことを乗り越えた先に喜びがあるのよね、必ず。それは大きい喜びもあれば小さい喜びもあるけど、そのときにすっごく喜ぶこと。

◆役者から歌手の道へ「絶対に売れてやろう」

美川憲一

──歌手になろうと思ったのは、いつからですか?

美川:高校を中退して、芸能学校(東宝芸能学校)に入ったのが昭和37年(1962)頃。そこで2年勉強して、そのあと映画の世界に行こうと思って「大映ニューフェイス」に。

 役者になるのが憧れだったんですよね。でも大映に入りたてのころに「歌手にならない? 絶対に売れると思う」って言われて。歌うことなんて考えられなかったんだけど、古賀政男先生のご自宅で歌の勉強を始めました。

 育ての両親には学校だけは出てって言われていたんだけど、「あなたたちのためよ」って私は思ったのよね。早く独立して、2人の母の面倒を見なきゃいけないって……背負っているものが大きかったから。芸能学校も、新橋の喫茶店でボーイをしたり、夏は郵便局の仕分けみたいなのもやったり、自分がアルバイトしたお金で通って。

──その時、「歌で絶対に売れる」と言われなければ、今の人生も変わっていたかもしれませんね。

美川:全然変わってたわね。「歌やらない?」って言われたとき、とっさに一攫千金を狙おうって(笑)。私ね、勘で生きてるのよ、今までずうっと。勘がすごく強くて。

「絶対に売れてやろう」って。それで母を楽にできるならって思ってたんだけど、清純派路線のデビュー曲が全然売れなくて、新橋のレコード屋さんに(母が)買いに行っても置いてない。でも、私は「そのうち売れるから」って言っていて。母も「そうだわ。あんたはしぶといから大丈夫よ」って(笑)。だから、「しぶとい」って言葉はあたしの体のなかにしみついてるの。

 その後、『柳ケ瀬ブルース』が出て、そうしたらもう次から次へと出す曲すべてヒットするようになりましたからね。ヒット曲があるとね、落ち目になっても食いつないでこれたかなっていうのはあるわよね。

──売れたときに、2人のお母さんは何と言っていましたか?

美川:2人とも「やっぱりね」って(笑)。

◆実は抵抗があった“おネエキャラ”

美川憲一

ブログの文字入力はマネージャーさんと勉強しながら行っている

──歌手以外でもご活躍の幅が広がりました。

美川:「タンスにゴン」のCMのセリフ「もっと端っこ歩きなさいよ~」から、“おネエキャラ”みたいなキャラクターが出来あがっちゃって。そういうふうに言われるのってすごく抵抗を感じるほうだったんだけど、CMが売れたときに、逆に「これを商売にしてやろう」と思ったんです。私、したたかなのよ~(笑)。

──コロッケさんや最近では松尾駿さん(チョコレートプラネット)が美川さんのものまねをされて、それもすっかり公認キャラになりました。

美川:コロッケがものまねをやってね。ゲストで初めてだったのよ、“ご本人登場”は(1989年正月)。

 その後、赤井英和さんの『どついたるねん』(1989)のプロデューサーが、この番組を見て声をかけてくださったの。ゲイバーのママ役で、ちょっとだったんだけどね、何でもいいやこの際って。(ちょうどスランプ後の仕事がない時期で)忘れ去られた時間を取り返すのは大変だから、そんな綺麗事言わずにもう、何でもやってやろうと(笑)。

 そうしたら、「タンスにゴン」のCMにも繋がったのよ。さらにワイドショーのお騒がせタレントみたいになって。その頃からね、(おネエ)キャラクターができていったのは。

◆自分は自分。「男なんだから」に抵抗を感じた

美川憲一

美川:母なんかは「あなた、おネエキャラみたいなこと言われてるけど、本当の性格知らないのよ」って。女になりたいとも思わないし、そんなこと考えたこともないのよ。

 でもスランプのとき、一度『ペントハウス』という雑誌で女装したんですよ。女装でもなんでもやってやろうって。そのときに、横須賀のどぶ板通りでミニスカートを履いてたばこを吸って、娼婦のイメージで写真を撮ったら、キレイだったのよ~。自分でもビックリするぐらいキレイで。このままいったらハマっちゃうなって(笑)。それでやめようって。美川憲一は美川憲一のままでいこうって。

 見た感じ、私は“男らしく”ないから、ひ弱で。私の時代は「男なんだから」「男は男らしく」って言われて、それにはすごい抵抗を感じていたの。でも精神は男の中の男なんだからって自分に言い聞かせてるから、強いのよ~。

<取材・文/吉河未布 撮影/長谷英史>

【美川憲一】
1965年に芸能界デビュー。「さそり座の女」(72年)をはじめ、「柳ヶ瀬ブルース」(66年)、「新潟ブルース」(67年)、「釧路の夜」(68年)など数々の代表曲を世に送り出す。今年9月よりアメーバブログで「しぶとく生きる」をスタート、独特な“美川文体”が話題に

【吉河未布】

編集者・ライター。ネットの海の端っこに生きています。気になったものは根掘り葉掘り

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