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売上1兆円マルハン社長「従来のパチンコをぶっ潰した」。業界を変える闘いを語る

bizSPA!フレッシュ / 2021年10月23日 8時47分

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マルハンの代表取締役東日本カンパニー社長、韓裕氏

 今も語り継がれる1981年夏の甲子園決勝「報徳学園高校 対 京都商業高校(現・京都学園高校)」。

 現在、パチンコホール経営最大手・マルハンの代表取締役東日本カンパニー社長を務める韓裕(はん・ゆう)氏は、京都商の5番レフトとして出場し、大フィーバーを巻き起こしたことは前回の記事で触れたとおりだ。

韓裕氏

高校時代の韓裕氏

 しかし、韓は「決勝で注目されたことよりも、甲子園の舞台に立つ自分を思い描き、努力を積み重ねて実現させるまでの苦しい日々の方が忘れられない」と振り返る。全3回のロングインタビュー。第1弾の記事第2弾の記事に続く、第3弾をお届けする。

◆野球部での苦労体験がマルハンに生きた

「はっきり言って、めちゃくちゃ大変でしたよ。京都商の新入部員は180人。中学時代は“4番でエース”だった近畿地方の有力選手ばかり集まっていましたから。肘を壊して投手から野手に転向し、最終的には5番を打っていましたが、3番も4番もコンバート組でした。控えの選手もレベルが高く、周りは友達というよりもライバル。

 ポジションを奪われないよう必死で、いつもギリギリの精神状態でした。でも、この3年間の経験がマルハンでも生かされました

 大学卒業後、不動産会社勤務を経て、90年に26歳で父が経営するマルハンに入社。すでにパチンコホール30店舗、売上高1000億円の業界大手ではあったが、当時のパチンコ業界は閉鎖的で異質な場所だった。

◆当時のパチンコ業界は閉鎖的で異質な場所

草薙アピア店

当時の草薙アピア店

 韓は「パチンコをサービス業として誇れる仕事にする」という新たな夢を描いたが、現実は自身が思っていた以上に酷いありさまだった。

「当時のパチンコ店は職人気質のいわゆる“釘師”と呼ばれる人がいて、釘師が引き連れてきた子分が店員として働き、彼らに店舗運営を頼り切っていました。『金を稼げればいい』『客になめられたら終わりだ』という考え方なので、経営者は店員を信用していません。経営者は店員を監視し、店員はお客を監視するという、おかしな世界だったんです

 韓が思い描く理想のパチンコ店は、丁寧に礼儀正しくお客を迎え入れ、レジャーとして楽しんでもらう店。ファストフードやファミレスのように女性アルバイトが活躍し、地域に親しまれる店を作ることだった。

◆意見に賛同する者はなかなか現れず…

 しかし、釘師たちは「パチンコは客との騙し合い。地元の人間をアルバイトで雇ったら、客と癒着して不正をするのでダメだ」俺たち抜きで何ができるのか」と全く取り合わず、入社から2年が経っても「パチンコはサービス業」という韓の意見に賛同する者は誰もいなかった

「だったら自分で検証してみよう」。韓は父親に掛け合い、ゲームセンターやボウリングも併設していた静岡の中規模店・草薙アピア店を新たなモデル店にすべく、任せてもらうことにした。

「私の理想に共感してくれる新たな人材をイチから集めました。大学の野球部時代のつても使って、なんとか社員を5人採用しましたが、それだけでは店は回せません。しかし、当時はパチンコ店のアルバイトなんて一般の人は誰も応募してくれなかった。そこで施設全体のアルバイトを募集する派遣会社を別に作って、『パチンコなら時給が高いですよ』と声をかけ、なんとかスタートを切ることができました」

◆学生の親から怒鳴りこまれたことも

草薙アピア店

草薙アピア店では大胆な改革を行った

 アルバイトも事前に1か月の研修を行い、92年4月に草薙アピア店をリニューアル。他のサービス業と同じように「いらっしゃいませ」とお客を出迎え、常連客は名前で呼び、積極的にコミュニケーションを取るなど、既存のパチンコ店ではありえなかった新たなスタイルを打ち出した。当初はお客も戸惑っていたが、次第に受け入れられて人気店となった。

「でも、30店舗のうちのたった1店舗です。まだ、すべてを変えられたわけではありませんでした」

 モデル店を拡大すべく、翌93年から新卒採用にも乗り出した。しかし、当初は900万円近くかけて求人誌に広告を載せ、ホテルに50人が入れる採用会場を借りても、たった4、5人しか集まらなかった。なんとか入社を決めてもらっても、学生の親から「パチンコなんてふざけるな! 責任者を出せ」と怒鳴り込まれたこともあった。

◆従来のパチンコのあり方を全部ぶっ潰した

マルハンパチンコタワー渋谷

マルハンパチンコタワー渋谷

「人がまったく集まらず、再び現実を思い知らされました。だからこそ、絶対に社員が誇りを持てる会社に変えていかなければならないと決意を新たにしました」

 潮目が変わったのは、平成7年(95年)7月7日にマルハンパチンコタワー渋谷(2016年に閉店)を開店した頃からだった。

「それまでのパチンコはギラギラのネオン、大理石風タイル張りの店内がほとんどでしたが、ハードだけでなく、今までと見た目も異なるフラッグシップ店を作りたかったんです。従来のパチンコのあり方を全部ぶっ潰して、社員教育や標準化を行い、改革のひとつの証として『200店舗』『売上高1兆円』いう分かりやすい目標を全社員に共有しました

 次第に、変化に適応できなかった社員や新たな方針に共感を見出せなかった社員は自然と去っていきました。社内だけなく採用でも『この会社は変わりそうだ』と期待されるようになったのを感じました」

◆原点は高校野球。“描く力”を大切に

韓裕氏

マルハンの代表取締役東日本カンパニー社長、韓裕氏

 2005年に目標だった売上高1兆円を達成。2008年からは代表取締役を務め、現在はパチンコホールだけでなくゴルフ場、レストランなどを展開するアミューズメントレジャー企業に成長し、海外では金融事業も手掛ける巨大グループとなった。

 厳しい現実にもめげず、強い信念を貫き通せたのはなぜなのか?

「原点は高校野球ですね。甲子園出場という夢を描き、実現するために努力した。会社に入ってからも“描く力”を大切にし、『こういう会社を作りたい』と小さな一歩を積み上げてきただけなんです。夢を描き、挑戦する。やっぱり、夢を追いかける人生のほうが楽しいじゃないですか」

<取材・文・撮影/中野龍 写真提供:マルハン>

【韓裕】
マルハンの代表取締役東日本カンパニー社長。1963年京都府生まれ。京都商業野球部在籍時、第63回全国野球選手権大会では準優勝を経験。1990年株式会社マルハンコーポレーション入社、取締役に就任。1995年プロジェクトリーダーとして「マルハンパチンコタワー渋谷」をオープンし、成功へ導く。取締役営業統括本部長、常務取締役営業本部長を経て、2008年6月代表取締役に就任、現在に至る

【中野龍】

1980年東京生まれ。毎日新聞「キャンパる」学生記者、化学工業日報記者などを経てフリーランス。通信社で俳優インタビューを担当するほか、ウェブメディア、週刊誌等に寄稿

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