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高校1年生の時「津波と重油で真っ黒の中を泳ぎ…」元危機管理監の記憶と当時の映像で振り返る『新潟地震』

BSN新潟放送 / 2024年6月22日 13時1分

BSN

1964年6月16日、BSN新潟放送のアナウンサーは会社の屋上から実況中継で新潟地震の様子、津波の様子を伝えていました。

「津波来ました!…至急高台にお上りください」
「1~2mくらいの高波…、船が1隻転覆しております」
「現在のところ市内は電話線が不通、それに停電、通信網が断たれております」

自宅から飛び出し逃げる女性と、誘導する男性の姿がありました。
そして、石油タンク火災の煙も見えました。

14人が死亡し、300人以上が重軽傷を負った新潟地震。

BSNに残っている貴重な映像と、実際に地震を経験した男性の証言から、あの日、新潟で何が起こったのか。そして、そこで得た教訓を学びます。

新潟市西区に住む斎田英司さん(75歳)が新潟地震を経験したのは、高校1年生の時。


斎田さんの通っていた新潟明訓高校は当時、新潟市中央区川岸町にありました。
1964年6月16日午後1時1分、斎田さんは教室にいたそうです。

「椅子・机が、後ろから前の方に向かってダーっと動いて、もう立ってられないぐらいで…。何が起きたっていうのはもうわからんまま飛び出たんですね」

外のグラウンドは地面が割れ、水が噴き出していました。

【当時のナレーション】
「突如として激震が新潟市を中心に襲った。市内いたるところから地下水が噴き上げ、逃げる間もなく土砂の海と化していった」

【斎田英司さん】
「パンを売る車がちょうど来てて…、沈没っていう感じだったんですね」

斎田さんは、先生の指示で陸上競技場や川岸町の県営アパートへ逃げました。
しかし…

【当時のナレーション】
「さらに土砂は県営の陸上競技場へと流れ込み、様相を一変させた。逃げる人、肉親を求める人で街々はごったがえす…」

【斎田英司さん】
「県営アパートは液状化現象でダァーっと倒れたような状況で…。先生の指揮も全然乱れていて、どこに行ったか分からねーし、もう構ってられねーやと」

自宅があった臨港町の方向で煙が上がっているのが見えました。
その煙は、石油タンクの火災によるものでした。

「自宅方面で煙が上がっているというのが、目視できたんだと思うんですよね。やべーんじゃねーの?って」

斎田さんは、母親が心配になり、急いで帰ろうと考えました。
自宅に戻るには信濃川を渡らなければなりません。
現在の東区臨港町にあった自宅に向かおうと、信濃川を渡ろうとしましたが…

昭和大橋は橋げたが落ちていて、行く手を阻まれました。

「そん時は必死で動いたみたいな感じ…。通常考えられないですよね」

斎田さんは、越後線の鉄橋を渡って川を越えたそうです。

通っていた高校の教室で新潟地震にあった斎田英司さん(75歳)は、地震の直後に自宅の方角に見えた黒い煙を見て母親が心配になり、およそ7kmを歩いてなんとか自宅に辿り着きました。自宅は床下浸水していました。

「布団とか濡れてないやつはできるだけ上の方に積み直して、それで兄貴は通帳とか貴重品を探して見つけて。そんなしてる時に、急にドンッて…」

【当時のナレーション】
「地震発生とともに市内の製油所から火災が生じた。2か所は間もなく消えたものの、昭和石油の火災はますます激しさを増していく…」

石油タンクの火災でした。

【斎田英司さん】
「家の中で爆発音を聞いて外に出たときに、上からバーッと火の粉が落ちてくるようなそんな感じだったんです。軒並み並んでいた家が全部、ペロリと焼けちゃって無くなってたので、大きな火災があったのではないかなと思うんですけどね」

新潟地震では290棟が全焼、1棟が半焼しました。

現在の新潟市東区臨港町にあった斎田英司さんの自宅周辺は、電柱が何本も倒れ、押し寄せた津波とタンクから漏れ出した重油でいっぱいになっていました。
斎田さんはパニック状態のまま真っ黒な水の中に飛び込み泳いで逃げたそうです。

「死を感じていたのか、ともかく逃げるしかないと。もう必死でしたね」

泥まみれ、油まみれで真っ黒になった斎田さんは、当時小金町にあった新潟大学農学部に避難。その姿を見かねた人から声を掛けられたそうです。

「なにか力になることないかと。『うちのお風呂に入りなさい』ということで入れてもらった。本当にありがたかったですね」

高台に住む人たちが、おにぎりやみそ汁などの炊き出しも用意していたそうです。
当時船で外国に行っていた父親を除く家族全員と、斎田さんは避難所で再会が叶いました。

「良かったな~と思ったんだろうけど、やっぱり緊張感が解けたのか…、記憶があまりないんですよね」

火災で自宅を失った斎田さん一家は、6畳一間の仮設住宅で生活しました。
周りの人、そして母親の存在が支えとなったそうです。

「配給された米も虫がついてるんですよね。いろんな虫が糸を引いてるみたいな。後でわかったんですけど、みんな綺麗に洗って、俺にそんなこと言わないでご飯食べさせてくれたんだなと。つくづく、おふくろの力を感じましたね」

母親を思い、越後線の鉄橋で川を渡った斎田さん。

その後、斎田さんは新潟県の職員となり、2007年には県の危機管理を総括的に担当する「危機管理監」も務めています。

そんな斎田英司さんが新潟地震で得た“教訓”とは…
「その場の状況を自分なりに見て判断する努力。場合によっては正当な道じゃないところもくぐらざるを得ないことも頭の中には置いたほうがいいんじゃないかと」

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