「口に入れるとトロっとするからトロにしては……」 マグロの「トロ」を考えたのは三井物産の客だった

文春オンライン / 2019年4月20日 11時0分

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「二葉鮨」3代目の小西三千三さん(中央)と昭和天皇、香淳皇后の貴重な記念写真。写真提供・小西亜紀夫さん(二葉鮨)

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昭和天皇の御寿司番 「二葉鮨」の貴重な逸話

 銀座4丁目を歌舞伎座方面に向かう。三越を左手にして歩き、三原橋を越えたあたり、ちょうど昭和通りから1本手前に走る路地を左折するとすぐ、江戸前の老舗、「二葉鮨」がある。ビル群に囲まれながらも、古き江戸の雰囲気をまとう圧倒的存在感の一軒家に誰もが目を奪われるはずだ。

 日本橋葭町(現在の人形町)で修業した初代が、明治10年(1877)に木挽町に店を構えたのが始まり。まだ昭和通りも銀座という名前もなかったころだ。 山田五郎氏が著書『銀座のすし』で、「“銀座のすし”は二葉鮨にはじまるといっても過言ではない」と言うように、「二葉鮨」は寿司にまつわる逸話に事欠かない店だ。

 昭和26年(1951)に建てられた現在の店は、江戸時代から続いた屋台店を模した出窓がまず目を引く。珍しい扇形のつけ台、10分進めてある柱時計、歴史を物語る大皿の数々、吉田茂から贈られた五色石がちりばめられた三和土の土間床などなど。

 現在は5代目・小西亜紀夫さんが店を守るが、その祖父、3代目の小西三千三さんも数々のエピソードを残した人物だ。

 皇族と旧皇族の交流の場である「菊栄親睦会」などでは、寿司の出張屋台も設営され、数々の寿司職人が寿司を握ってきたが、特に「二葉鮨」の3代目は「昭和天皇の御寿司番」とも呼ばれるほど、たびたび御用にあずかったという。

 陛下は特にコハダの寿司をお気に召していたが、コハダのことはいつも「コノシロ」と標準和名でお呼びになっていたそうで、生物学者でもあらせられた陛下らしいこだわりだと3代目は語っていたという。

 菊栄会は身内だけの宴なので園遊会よりはプライベートな催しだが、そんな時でも陛下はいっさい酒を召し上がらなかった。しかし陛下が日本酒好きなことを知っていた3代目は、「二葉鮨」の湯呑みにひそかにお酒を少し入れておき、陛下に「どうぞ」と差し出したという。陛下は湯呑みに口を近づける際に中身が酒だと気づくと、3代目のほうを向いてにっこりと微笑み、ゆっくりと飲み干されたそうだ。

 そんな陛下はたびたび3代目に、「店のほうに行ってみたい」と仰られていたそうだが、3代目は「そんなことをしたら警備やら何やらで大騒ぎになりますから、どうかご連絡をくだされば私のほうから出向きますので、そうお申し付けください」と、これだけは頑なに固辞したという。まさに江戸っ子らしい矜持だと思う。

「トロ」という呼び方誕生に三井物産の人が関係していた!?

 世界に浸透した「SUSHI」文化。その代名詞とも言えるトロもまた、今や国際語だ。米コネチカット州やインドネシアには「Toro Sushi」という名の寿司店があり、ポルトガルには「Sushi Toro」という店がある。

 年齢や人種を問わず大人気のトロだが、そもそもマグロの脂身を「トロ」と呼ぶようになったのがいつなのか、実はそれを立証する明確な資料は残っていない。しかし寿司の研究者としても知られる日本橋「𠮷野鮨本店」3代目・𠮷野曻雄さんが書いた『鮓・鮨・すし−すしの事典』には、「わたしどもの店での」といった控えめな表現をしながらも、トロという言葉の誕生秘話が記されている。

 大正7、8年(1918、19)頃、𠮷野さんの父の時代、当時は安かったマグロの腹側(現在ではこちらが最上とされる)を仕入れて高級店よりも2割ほど安く売り、これが大人気となったという。そしてこう続く。

  「この頃、前々から父の店をひいきにして、毎日のように食べに来られた三井物産のAという方がいた。この方がまた、脂身が大のお好きで、ある時同僚の方5、6人とご一緒に来店されたことがあった。脂身について、客側に適当な呼び名がないうえに、その霜降りのところとか、段だら(腹側の中でも脂の多いところ)のところとか、(中略)これでは面倒だから、なんとか直に通じる符丁をわれわれでこしらえようということになったのである。皆さんからいろいろな案が出たようだったが、ある人が、『どうだい、口に入れるとトロっとするからトロにしては……』というと、それはおもしろい、トロにしようと皆さんが賛成され、脂の多いところは大トロ、中位は中トロだと即座に決まった」

 大正9年(1920)に発表された志賀直哉の『小僧の神様』にはまだトロという呼称は出てこず「脂身」という表現だったが、大正15年になると、実業家・波多野承五郎が書いた『古渓随筆』に、こんな一文を見いだせる。

  「鮨は鮪に止めを刺すと言ってこそ、本当の鮨通だ、然かも鮪のトロ身で、部厚のものでなければならぬ」

 この間、関東大震災を挟み、寿司に限らず東京の食文化は足踏みしたと思えるが、それでもわずか数年でトロという単語が一般化していることが、この記述でわかると思う。

二郎さんはなぜ捨てシャリを? 左利き克服の「二郎握り」も

 江戸前寿司の握り方には大きく分けて、本手返し、小手返し、縦返し、という3種類がある。本手返しが本来の握り方で、5手から6手で握る。それを少し簡略化したものが他の2つだ。握りは手数が少なければ少ないほどいいと言われているが、昔ながらの本手返しではなく、多くの職人が小手返しや縦返しで握るのには、本手返しが難しいからという理由もあるのかもしれない。江戸前の伝統を守る老舗の多くは本手返しで握っているが、独自の握り方を習得した職人も数多くいる。

 握り方に関連してよく言及されるのが「捨てシャリ」。これは、酢飯をつかんでネタに合わせたあと、余分なシャリを櫃に戻すことを指すのだが、これを忌み嫌う人が特に通を自認する客に多い。曰く、「職人としての姿が美しくない」ということと、捨てシャリをすることで「手数が1つ増えるから」ということらしい。

 とはいえ、名のある寿司職人でもこの「捨てシャリ」をする人は多い。その代表例は、「すきやばし次郎」の小野二郎さんだろう。いったいなぜ、二郎さんは捨てシャリをするのか。この疑問について、評論家の山本益博氏が、著書『至福のすし』で本人に直撃して書いている。

「“捨てめし”はするものだって、先輩たちから教わったのを、そのまま深く考えずにずうっとやってきたってことでしょうか。一工程余計といやあ、その通りですね」

 二郎さんは左利きの不利な点を克服する過程で、手返しをしないで握りが手の中でくるりと回る「二郎握り」という独特の握り方を習得しており、素早く握ることができている。山本氏はそこに理由があると分析する。

  「山本 はじめから適量をつかむより、とりあえず素早くつかんで空気を含ませ、すし種の上へのせる。それを優先させた結果なのではなかろうかと。

   二郎 自分じゃ、ほとんど無意識に近くて、よく分からないですね」

 僕自身はこの捨てシャリ論争自体がナンセンスだと思っている。目を閉じて食べて、捨てシャリをした握りとそうでない握りの違いを指摘できる客などいないと思うし、捨てシャリをすることで劇的に握りの味が落ちるなら、とっくに誰もが修正しているはずだ。どうしたらシャリが美味くなるのかを考え過ぎて夢にまで見るという二郎さんが、捨てシャリを「無意識」にする理由は、握る姿の美しさなどよりも、自分の握る1カンごとの寿司の完成度に集中しているがゆえなのだと思う。

 握り寿司が誕生してからの200年の歴史から、職人ならではの手仕事のこと、流儀、地方によって違う寿司の特色や、回転寿司から高級店まで、お寿司にどっぷりのめり込んだ著者が150冊もの参考文献を読み漁り、また全国津々浦々の寿司職人に話を聞いて集めた、旬なお話ばかりが並んでいる。
 

「マグロは江戸時代、猫もまたぐほどの下魚だった?」
「わさびを醤油に溶かすのは、本当にマナー違反?」
「江戸無血開城時、勝海舟は西郷隆盛にお寿司を準備していた?」
「寿司屋の修業、10年は本当に必要?」
「関東大震災で起きた物資不足が寿司ネタの幅を広げた」ーー

お寿司がもっと楽しく美味しくなる「なるほど」&「お役立ち」情報満載の1冊です。

(河原 一久)

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