取材陣が1000人! 元宮内庁報道担当が明かす 昭和から平成「代替わり」の瞬間――新・令和の時代

文春オンライン / 2019年4月29日 17時0分

写真

昭和天皇 ©JMPA

平成から令和へ――。宮内庁の報道担当として、昭和天皇の大喪の礼と今上天皇の即位の礼を体験した山下晋司氏が、当時の内実を明かします。(出典:「文藝春秋SPECIAL」2017年季刊冬号)

◆ ◆ ◆

後にも先にも経験したことのない大混乱の連続

 私は平成13(2001)年に退職するまで、23年間、宮内庁に勤務していました。そのうち7年間、報道担当を務めましたが、なかでも記憶に残っているのは、昭和天皇の大喪の礼、今上天皇の即位の礼です。まさに後にも先にも経験したことのない大混乱の連続でしたが、メディアと皇室の関係を深く考えさせられる機会でもありました。

 私が長官官房総務課報道係、今でいう報道室への異動を命じられたのは昭和62(1987)年のことでした。この年の9月に昭和天皇が手術をなされるのですが、緊急事態に備えてのことだとは分かっていました。しかし、前の部署の引継ぎなどもあり、実際に配属されたのは翌63年4月1日のことでした。

 当時の報道係は、小さな所帯でした。報道専門官という課長補佐が1人、2つの係に係長が1人ずつ、係員が5人のわずか8人で、宮内庁にまつわる報道関係を取り仕切るのです。

 私が異動してまもなく、療養されていた昭和天皇が宮殿行事に復帰されました。そして9月19日に吐血されると、マスコミ各社が緊急態勢となり、どんどん人員を増員してきました。特にそれまで社会部などで事件取材を担当していた、いわゆるエース記者たちが投入され、どちらかというとのんびりしていた記者クラブの空気が変わっていったのを覚えています。

記者会の通行証発行数が1000人を超えた

 通常、皇室報道を担当する記者たちは宮内記者会に属しています。私が配属された時点では、新聞、テレビなど15社で、常駐している記者は27人。およそ1社あたり2人ですが、そもそも記者会室には机が27しか入りませんでした。ですから、9月以降、宮内記者会に登録される記者の数がどんどん増えていくのですが、記者会室で原稿を書こうにも机が足りないのです。

 ただ、この記者会に登録さえしておけば、通行証がもらえて当時は皇居への出入りが基本的には自由になりました。そのため通行証の発行数は激増し、63年の暮れにはなんと1000人を超えたのです。宮内庁としてもどこで線引きしていいのか判断できませんでした。特に多かったのはテレビ局です。記者だけでなく、カメラマン、照明、音響などの技術関係の人まで、1社で100人近く登録していた局もありました。

 そうなると、もはや宮内庁周辺がマスコミ関係者に占拠されてしまったような状態です。ご容態が悪化したという情報が入り、急いで宮内庁前に駆けつけた取材班がそのままそこに居座り続けたのですから、秩序も何もありません。いつ何が起きるかわからないので、中継カメラに繋いであるコードも抜けないし、移動している隙に他社に場所をとられてしまうかもしれないというので、そのままの状態で10月、11月と時が過ぎていきました。

報道担当の私に届いた、宮内庁内からの苦情

 報道担当の私には、庁内から苦情がひっきりなしに届きました。たとえば、テレビ局の電源車の油が落ちて、その箇所の舗装が傷む、宮内庁庁舎の電源を勝手に使っている、芝生の中にずかずか入り込む人がいる……。人が増えれば、当たり前のことですが、弁当の空箱や新聞といった日用品のゴミの量も激増します。そのために宮内記者会費で臨時の回収職員を雇ってもらいました。

 マスコミ各社の記者やスタッフも連日の泊まり込みですから、疲れて、廊下などで横になる人もいました。天気のいい日なんかには、中継車やハイヤーの上に毛布や寝袋、布団を干したり。しょうがないから、「廊下で寝ないでください」とか「庁舎前では布団を干さないでください」といったやり取りを、大真面目でやっていました。

 強烈に記憶に残っているのは、お見舞いの記帳のために、現在のスポーツ庁長官の鈴木大地さんが宮内庁に来た時のことです。ソウルオリンピックで金メダルを取った直後でしたからまさに時の人で、マスコミの報道の過熱ぶりは大変なものでした。尋常ではない数のカメラが押し合いへし合いになり、あちこちから怒声が飛び交っている。こちらも必死で応酬しながら、カメラをかき分けて、鈴木さんをガードし、車まで送りました。宮内庁職員にこんな仕事があったとは、と思いましたね。

 私たち報道係は、9月のはじめの1週間こそ、遠距離通勤者は泊まり込みでしたが、長丁場に備えてきちんと態勢を整えなくてはならないと思い、泊まりをシフト制にし、交代で24時間、誰かが勤務している状態をつくりました。そして、昭和64年の年明けを迎えたのです。

「前例」を作った昭和の大礼

 1月7日、昭和天皇が崩御されてからは、正直、場当たり的な対応に追われていた、というのが実感です。我々宮内庁の職員も、実際の皇室の儀式については、ほとんど何も知らないに等しい。ましてや大喪の礼、即位の礼などは、誰も経験したことがないわけです。担当者から「この儀式はこういうもので、こういうことをします」と説明を聞きながら、一方でマスコミから「ここでカメラを回したい」とか「こういう取材をしたい」といった要望を受ける。いくら混乱しようが、時間がくれば始まるし、同様に儀式が終われば、そこで終わりなんだ、と腹をくくって、とにかく目の前の対応に終始していました。

 しかし、苦労はしましたが、メディアの存在は皇室にとって、そして国民にとって欠かせないものだという意識はありました。ですから、儀式の際も、報道陣に良いポジションを確保しようと、現場の担当者とやりあったこともあります。多くの国民、さらには世界中の人々がこのカメラを通じて、皇室の伝統を知るんだ、という思いがあったのです。

 報道以外の場でも混乱や問題は多々ありました。象徴天皇制度という憲法下では初めての御代替わりでしたから、特に皇室儀式の宗教的な面と法律面での折り合いをいかにつけるかが大問題だったのです。

 たとえば大喪の礼と、葬場殿の儀の分離です。大喪の礼は国家によるもの、葬場殿の儀は皇室によるものというように区分けした。これも政教分離の建前を守るためで、宮内庁だけではなく、官邸や内閣法制局とも意見調整が行われました。そうした調整の結果、幕を引いて鳥居を置いて、葬場殿の儀を行った後に、鳥居も幕も外して、改めて大喪の礼を行うというようにして、国家と皇室の儀式を分けたのです。いわば苦肉の策ですが、とにかく前例のないなかで、ひとつの「前例」を作ったわけです。

生前退位のメリット

 今回の今上陛下の「おことば」を受けて、生前退位について、法整備も含めて国民全体での本格的な議論が深まっています。実際に生前退位を認めるとなると、葬儀にまつわる前例は一度崩れることになり、また新たな検討が必要となります。

 しかし、私はいくつかの面で、生前退位によるメリットも大きいと思うのです。

 明治以降、終身在位を天皇制の根幹としていたため、崩御と即位は必ずセットとなっていました。天皇陛下のお言葉にもありましたが、「喪儀に関連する行事」、すなわち悲しみ、悼みの行事と「新時代に関わる諸行事」、明るい祝いの行事が「同時に進行」していたわけです。その板挟みに、国民も皇室も苛(さいな)まれる。生前退位にはそれを避けることができるというメリットがあります。

 より国民目線でいえば、元号の問題があります。現行の元号法は、政令で定める、御代替わりの際に変更する、この二項のみです。天皇の崩御、つまり新天皇の即位に合わせて改めるということしか書かれておらず、具体的にいつから変えるかは明記されていません。大正から昭和の場合は即日施行でしたから、大正15年12月25日と昭和元年12月25日は、両方存在しました。昭和から平成の場合は、翌日からの施行でした。

 元号は、国民全員にかかわる問題です。身近なところでは、カレンダーや手帳。昭和64年と刷り込まれたものを使っていた人も少なくないでしょう。

 生前退位が認められれば、新しい元号は人為的に決めることができます。たとえば改元の日を1月1日とすることも可能です。特に役所関係は大きなメリットがあると思います。

 その反面、まだまだ論じるべき課題も多い。たとえば皇位継承権者には辞退する権利が与えられるのか、という問題もそのひとつでしょう。先日薨去(こうきょ)された三笠宮殿下は、100歳を超えても皇位継承権をお持ちでした。天皇陛下が高齢を理由に退位されるとき、それよりも年齢が上の皇位継承権者はどうなるのか。これは極端なレアケースに思われるかもしれませんが、つまり、皇位継承権も含む皇室のありかたすべてが、終身在位を前提に作られている。したがって生前退位を検討する場合には、天皇のみならず皇室全体がどのような影響を受けるかを考える必要があるのです。小手先の特措法では、より多岐にわたる問題が噴出する恐れがあります。

 それだけ終身在位から生前退位へという転換は、近代皇室のありかたそのものに関わるものです。それを実現しようとするなら、皇室典範の改正という抜本的な改革なしには難しいのではないでしょうか。

「直接触れ合う」スタイル

 私は宮内庁職員として、昭和と平成、2代に仕えることになりました。その中で感じたことは、それぞれのスタイル、ものの進め方がある、ということでした。

 たとえば我々、というか我々の上司が何か陛下にご説明する場合、昭和天皇のときは、各担当が侍従に相談し、侍従が陛下に伝えるというスタイルでした。それが今上陛下は担当から直接説明を聞かれる。たとえば行幸啓(ぎょうこうけい)ならば総務課長が呼ばれて、直接、ご説明をするわけです。

 この直接性は、今上陛下の大きな特徴ではないかと思います。たとえば被災地などに行かれても、現地の人たちの中に入っていって、膝をつかれて直接話を聞かれる。これも当初はいろいろな批判もありました。私などもそうなのですが、それまで「天皇」といえば昭和天皇なんですね。だからはじめのうちは、昭和帝と違う、という感覚がありました。

 ところが、それが一変する出来事があったのです。両陛下の地方行幸啓にはじめて随行したときでした。両陛下を地元の人々が出迎えてくれるのですが、その歓迎の凄さ、歓声の響きが体の中にまで入ってくるような感覚でした。これが国民と直接触れ合うということなのか、と実感したのを覚えています。

 憲法を読むと、第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれています。しかし、それだけでは単なる法律の文言に過ぎない。それに実体を与えているのは、天皇と国民との間に直接流れる共感ではないか――そんなことを感じました。

宮内庁から情報発信を

 国民に「見える天皇」、そこにいることを「感じられる天皇」を支えているのは皇后陛下の存在でしょう。

 私は宮内庁を退官したあと、『皇室手帖』という雑誌をつくり、最近ではBSで『皇室の窓』という番組の監修にたずさわっています。つまり、報道される側から報道する側に転身したわけですが、そこでも痛感するのは、圧倒的な皇后陛下の人気です。皇后陛下の発信力と、天皇陛下の誠実さがあいまって、今の国民からの支持を築いていったと思います。

 たとえば天皇陛下はこの前、タヌキの論文を発表されましたが、研究日は必ず毎週日曜日と決めておられたそうです。平日は勤務日だから、プライベートの研究はなさらない。そういう見えないところでも、常に自分を律しておられる。また、ご自身でパソコンを使い、プリントアウトもされるのですが、確認用などで印刷するときは、裏が白い、不要になった紙をためておいて、その裏紙を使われる。その話をネットの対談で紹介したところ、若い人たちの間で話題になったそうです。

 メディアと天皇との関係でいうなら、私はもっと宮内庁が、皇室のプロデューサーのような役割を担い、非難されることを恐れずに、あるべき皇室の情報を発信し続けてほしいと考えます。同様に、マスコミは批判すべきことは批判しつつ、皇室と国民を繋ぐ役割を継続してほしいと願っています。

やました・しんじ 1956年大阪市生まれ。関西大学卒。23年間の宮内庁勤務の後、出版社役員を経て独立。『皇室手帖』の編集長などを務め、現在BSジャパンで『皇室の窓』の監修をてがける。近著に『天皇陛下 83年のあゆみ』(宝島社)など。

(山下 晋司/文藝春秋SPECIAL 2017年季刊冬号)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング