「ひとりで死にゆくひとはさみしいのか?」この問いに向き合う専門家たちが出したそれぞれの“答え”

文春オンライン / 2019年6月16日 6時0分

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「死の孤独」によりそう取り組みも

 どんなに「在宅ひとり死」を可能にする制度的条件が整備されても、どうしても解決できない問題が、最後に残る。それは「死にゆく人はさみしいか?」という問いである。

 死にゆくひとはさみしいか?

 さみしいだろう、と思う。

 父を看取るときに、体感した。……死にゆくひとのさみしさは、どんな他者によっても癒やされない絶対的な孤独のように思える。この問いにまともに答えようとする専門家たちがいる。

死を前にした人の4つの痛み

 死を前にした患者には、身体的苦痛、心理的苦痛、社会的苦痛、精神的苦痛の4つの痛みがあるという。なぜだか医療の専門職には、患者のスピリチュアル・ペインに応じなければならぬと強い使命感を持っているひとたちがいる。

 そのひとり、エンドオブライフ・ケア協会の代表、小澤竹俊さんのエンドオブライフケアの極意は、「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいるとうれしい」ことにある。だがこんな負荷を背負ったら、そりゃ専門職の方がバーンアウトするんじゃないか、と心配になる。

 ガン専門医の樋野興夫医師が始めたのが「がん哲学外来」である。樋野さんは、「なぜ、わたしが……」と苦しむ患者と1対1で向かい合い、的確な「ことばの処方箋」を贈る。「がん哲学外来」を必要とする人々がいることはわかるが、あろうことか、「やるなら白衣を脱いで、やってください」とわたしは言ってしまった。

 がん告知をされる側の衝撃の大きさは想像にかたくないが、告知する側の負担感も軽くない。そのときに、医師以外の受け皿があったら、医師の負担感も減るのじゃないだろうか。……という場所が必要だと感じて、作ったひとたちがいる。訪問看護師の秋山正子さんたちが、イギリスのマギーズ・ハウスに倣って作った「東京マギーセンター」である。こういう場所があったら、がん告知をした後に、医師は東京マギーセンターのパンフを患者にわたして、「ここに行ってみたらどうでしょう」と勧めることもできるだろう。

死に正解はない、どんな死もあり

 死ぬのが怖い、というひとたちに、「ボケこそ救い」と呼んだのは、京都のわらじ医者、早川一光さん。その早川さんが、多発性骨髄腫というがんの一種になった。在宅療養の自宅に早川さんを訪ねたわたしの問い、「やりのこしたことはありますか」に、「道半ばやね……」――医療は「総合人間学」にならなければならない、それが「道半ば」だという答えだった。医師という職業はもしかしたら、自分の身の丈を越える「メサイア・コンプレックス(救世主願望)」を伴うのではないか。医師の過剰な使命感や責任感に対して、必要なのは、患者の側のわきまえと、医師の側のつつしみだと思うが。

 介護保険ができてからこの20年ばかり、老いと介護の現場を研究してきたわたしがこの経験から得た教訓は、死に正解はない、どんな死もあり、だという感慨である。

 わたしの好きな作家、佐野洋子さんに次のことばがある。「いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」。

 この気分で日々機嫌よく、老いていければよいが。

※死にゆくひとは、さみしく、苦しい。だからこそ超高齢化社会を生きる者は、死を予期し、備えておかねばならない――人生の終わりを心穏やかに迎えるヒント満載の上野千鶴子さんの短期集中連載『「在宅ひとり死」のススメ』最終回は、 「文藝春秋」7月号 に全文掲載されています。ぜひあわせてお読みください。

(上野 千鶴子/文藝春秋 2019年7月号)

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