「私には若い奧さんもいますから」フィリピンで年金生活を送る「脱出老人」は幸せか

文春オンライン / 2019年7月1日 6時0分

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常夏の楽園での老後は…… ©水谷竹秀

「年金は毎月18万円もらっています。家賃も含めて生活費は10万円以内で暮らしていますが、十分幸せです。物価の安いフィリピンにいれば何も困りません。それに私には若い奧さんもいますから、ハハハハハ」

 スマホのスクリーンの向こうで、2日後に古希を迎える中澤久樹(69歳)さんが、豪快に笑った。少し日に焼けた、健康的な肌に黄色いTシャツ、短パンというラフな格好で、「長袖や長ズボンは買わないから服にお金は使いません」とまた笑う。常夏の国、フィリピンの平均気温は27度だから、1年中、Tシャツと短パンでも平気だ。

一軒家の家賃は約1万6000円

 中澤さんは現在、フィリピン中部のセブ州マクタン島にある2階建ての一軒家で、40歳年下の妻、エメリーナさん(30)と6歳の息子と3人で暮らしている。家賃は8000ペソ(約1万6000円)。1階がキッチンに居間、2階は3部屋という間取りで、決して大きくはないが、3人で暮らすには十分だ。中澤さんは、私が書いた『 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち 』(小学館文庫)にて、最初に登場する「脱出老人」である。

 日本では現在、年金をめぐる「2000万円問題」が騒がれ、7月の参院選の争点にまでなっている。その話に及ぶと、中澤さんは「話題になっているのは知っています」と言った上で、こう力説した。

「老後の生活の質はピンからキリまであるのに、一律にいくらと決めるのはダメだと思います。質素な生活ができる人もいるし、豪華な生活を望む人もいる。色々な価値観がある中で、老後の生活費を決めること自体がおかしいのではないですか? 日本での年金生活は大変かもしれませんが、物価の安い国なら十分満足に生活できますよ」

「生活費以外は、妻や子供のために貯金しています」

 麻生太郎財務相兼金融相が受け取りを拒否した金融庁の報告書には、夫婦の老後資金に「2000万円が必要」という試算が盛り込まれていた。3000万円が必要とする経産省の試算も明らかになり、老後への不安が高まっている。だが、支給年金の範囲内で生活している中澤さんのような海外移住組には、その金銭感覚がピンとこないかもしれない。特に中澤さんの場合は、老後の資金が必要どころか、年金の一部をこつこつ積み立てているというのだ。

「10万円の生活費以外は、妻や子供のために貯金しています。将来、土地と家を買って残してあげたいのです」

 金融庁の試算は、彼ら海外移住組には必ずしも当てはまらない。

金融庁の試算よりも年金支給額は少ないが……

 外務省の海外在留邦人数調査統計によると、平成29年10月1日現在、海外に在留する日本人の総数は約135万人。平成元年から倍以上に増えた。中澤さんのような永住者は、このうち約48万人で年々増加傾向にある。

 フィリピンの在留邦人数は1万6570人で、永住者は5423人と全体の3分の1を占める。

 中澤さんが出身の高知県からフィリピンへ移住したのは、今から8年前のことだった。その背景には、日本で送る老後への不安があった。

「仕事を引退して年金が下りるようになったらフィリピンに移住しようと思っていました。私の年金額は、一般的に言われる月額平均には及ばない。だから持ち家があっても日本では十分に暮らせないでしょう。それだったらフィリピン人の妻もいるから、持ち家を処分して物価の安いフィリピンで生活するのが一番良いなあと思っていました」

 中澤さんはこれまで、漁師や建築関係、ガスの営業などの仕事に従事し、中でももっとも長く勤めたのはタクシー運転手だった。年金を支給され始めた時は、月額換算で12万円。65歳になって、エメリーナさんと子供の加給年金が加わり、現在の支給額は18万円に増えた。それでも金融庁が示した、年金を中心とした1カ月の平均収入21万円を下回る。中澤さんは持ち家を売り払ったため、日本で暮らすとしたら、余裕はほとんどないだろう。

「電気は止まるわ、水は止まるわ」

 フィリピンは、物にもよるが物価は日本の3分の1から5分の1程度。たとえばコンビニで買うビール1本(330ml)は30ペソ(約60円)、マクドナルドのバリューセットが100~200ペソ(約200~400円)だ。経済成長率6~7%を維持するフィリピンの物価は上がっているとはいえ、リゾート地へ行ったり、日本料理店やゴルフ場に通うなどで散財しなければ、中澤さんの年金でも十分に暮らしていける。

 もちろん、物価の安さだけを頼りに海外で幸せな暮らしが送れるかというと、そんなに単純でもない。異国の地では文化も言葉も違うからだ。中澤さんの妻は辞書を頼りに少し日本語ができるようになったとはいえ、英語の電子辞書も使いながらコミュニケーションを取っていた。最近では慣れてきたのか、ほぼ日本語だけでやり取りしているという。

 新興国ゆえの不便さもある。実際に生活を始めてみると、インフラの不備や渋滞などでやはりストレスを感じる人は少なくない。その点、おおらかな中澤さんは、異国の環境に何とか順応できている。

「電気は止まるわ、水は止まるわで腹が立つこともありますが、我慢です。日本のように腹を立てたらアウト。だってフィリピンは日本と全然違うんだよ。仕方がない。日本と同じようにはいかないよ」

 物価の安さや温暖な気候といったメリットがある反面、日本の価値観を持ち込むと、海外ではしばしばトラブルになりがちだ。たとえば、フィリピン人はカラオケ好きで、真っ昼間からカラオケ機器を使って大音量で歌う習慣がある。その歌声に耐えられず、怒鳴り込んで住民たちと気まずい関係になる日本人も絶えない。その国の事情を理解するよう努め、現地社会にいかに溶け込めるか。

 それが海外生活における処世術である。

女性を追いかけて無一文に陥る「困窮邦人」も少なくない

 日本では2040年、65歳以上の独居世帯が全体の3割を超えると推測されている。男性の生涯未婚率は23%、女性は14%で、独居化の流れは止まりそうにない。これに伴う孤独死の増加も深刻だ。

「日本にいる60代の独身の方は考えて下さい。フィリピンなら出会いがあります」

 そう言い切る中澤さんにとっての南国への入口は、地元高知県にあるフィリピンパブだった。脱出老人たちの中には、パブで出会った女性を追いかける者がとにかく多い。中澤さんもパブへ通ううち、紹介してもらった若いフィリピン人女性と結婚し、日本でしばらく暮らした。だが、老後は海外でと考えていたため、先にフィリピンへ渡った女性と住む家を建てるため、送金を続けた。しかし、女性に浮気が発覚し、離婚。送金額は約500万円に達していた。

 フィリピンには、女性を追いかけて散財した挙げ句、無一文に陥る「困窮邦人」が少なくない。ビザの更新ができずに不法滞在になり、お金も尽きて路頭に迷う。日本の親族とは長年音信不通のため、援護を求めて在フィリピン日本大使館へ駆け込んでも、送金のあてもない。フィリピン人住民の優しさにすがって生きるしかなくなるのだが、高齢のために体調を崩せば、やがて死に至る。

 一歩間違えれば、中澤さんも同じ轍を踏んだ可能性はあっただろう。だが、女性と離婚し、独り身となってからは、ショッピングモールで店員の若い女性に声をかけまくるという突飛な行動に出た。そうして出会った女性たちと食事やディスコへ遊びに行ったりを繰り返し、新たに出会ったのが現在の妻、エメリーナさんだった。中澤さんが語る。

「私は頭も薄いし、ちびで醜い男やけど、それでもフィリピン人女性たちはかまわないと言ってくれるんです」

「愛情がないのは承知の上です」

 日本で同じような行動を取っていたら、相手にされないどころか、不審者と間違えられるだろう。しかし、それを可能にさせるフィリピンという国の摩訶不思議さの裏には、お金の力が働いているのは否定できない。中澤さんも、それは頭で理解していた。

「若いフィリピン人女性が、日本人のおっさんなんかに愛情がないのは承知の上です。『愛されている』と言うおっさんたちは錯覚しているだけ。けちだったら寄りつかないし、気前がよかったら有り金全部使われる。うまくいく分岐点はその中間かな」

 エメリーナさんと交際を続けた中澤さんは、2012年末に結婚した。以来、6年以上が経過した今も、仲睦まじい関係を続けている。そんなフィリピンでの日々を振り返り、中澤さんはこうしみじみ語った。

「フィリピンに来なかったら、今頃日本で1人寂しく暮らしていたと思います。日本は先進国になりすぎた。物価が高い、法律が色々とうるさい。とにかく規制でがんじがらめにされるでしょ?」

 そして自身の状況を踏まえ、皮肉混じりにこう語った。

「お金持ちは日本に住めるかもしれませんが、私のような貧乏人は物価の安い海外のほうがいいんです。フィリピンに住む日本人の中には、いざとなったら帰国する人がいます。でも私は日本の家も売り払ったので、帰国するつもりはない。私の人生はここで終わりです。それでいいんです」

 日本で老後の資金が5000万円、あるいは1億円もある夫婦に比べれば、中澤さんのフィリピン移住生活は決して贅沢とは言えないだろう。それでも中澤さんは「幸せだ」と言い切る。そこには年金の額や老後の資産だけでは決して測れない、もう一つの幸せのかたちがあるのかもしれない。

(水谷 竹秀)

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