「仕事を持って生きるということに迷いはありませんでした」雅子皇后はなぜ外交官を目指したのか

文春オンライン / 2019年7月12日 6時0分

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ハーバード大学卒業論文 宮内庁提供

令和の皇后となられ、ご成婚時の輝くような笑顔を、取り戻されつつある雅子さま。
新皇后の半生を徹底取材した決定版『 皇后雅子さま物語 』(文春文庫)から、新皇后の「あゆみ」を特別公開します。 

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ついにハーバード大を卒業 「日本人として、日本で働きたい」

 1985年(昭和60年)3月20日、雅子さんが21歳の時に卒論が完成した。タイトルは「EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS : OIL IN JAPANESE TRADE(輸入価格ショックへの外的調整――日本の石油貿易)」。A4判で99ページになる論文である。

 当時は日米貿易摩擦が深刻度を増していた。自動車・半導体・農産物・ビデオ機器など、日本からの輸出が増大、アメリカの労働者の不満も高まっていた。彼らが日本製品をハンマーで叩き壊す映像が、ニュースでは繰り返し流されていた。この論文執筆に際し、雅子さんが相談や指導を仰いだのは、エズラ・F・ヴォーゲル氏を始め、元大蔵官僚で経済学者の榊原英資(えいすけ)氏や元東京三菱銀行参与の真野(まの)輝彦氏などだったことは謝辞にも記されている。

 論文は、優等賞の「マグナ・クム・ラウデ」を受賞。卒業生1681人のうちこの栄冠に輝いたのは、56人。経済学部ではわずか3人だった。

 同年6月、ハーバード大の卒業式が行われた。雅子さんは、シンプルな黒いマントのアカデミックドレスを羽織り、頭に正方形の角帽を被っていた。これで、6年間にわたった米国の生活も終わる。在米の証券会社や金融機関などから就職の誘いがあったが、すべて断っていた。日本の友人に宛てた年賀状にも、次のように気持ちを綴っていた。

〈このままアメリカに残ると中途半端になってしまいます。日本人として、日本で働きたい。外交官になって世界から日本を見て、貢献してみたいです〉

「根無し草にはなりたくない」強い意志で目指された外交官への道

 外交官になりたい――意外にも、当時外務省条約局長だった恆さんがその志望を初めて知ったのは、大学卒業を目前にした頃だった。ある日「これからどうするんだ」と聞くと、「外交官になりたい」と言われて驚いた。恆さんは賛成も反対もしなかったそうだ。雅子さんが外交官になろうと思ったわけを、優美子さんはこう語っている。

〈このままアメリカにいれば根無し草のようになる、これは私のアイデンティティの問題だと(雅子さんは)よく口にしておりました。根無し草になるというのも、一つの生き方だとは思います。でも雅子はそうなりたくなかったのでしょう。というのも、私たちの家庭はごく日本的な家庭でございまして、子供は日本人として育てたかったんです。外国で暮らしているだけに、その分、日本人というものはどういうものであるかを、子供たちに教えておきたいと私はいつも思っておりました〉(前出・文藝春秋)

長い海外暮らしが雅子さまにもたらしたもの

 海外暮らしが長かったからこそ、日本を意識し続けた小和田家の教育環境で雅子さんは育った。長じるにつれ様々な国の人と接するうちに、自分は何者なのかを考え、日本で日本のために働きたいという揺るぎない思いが湧き上がってきたのだった。

 卒業式から1週間後の85年6月、雅子さんは早々に帰国した。目黒区の家は改装中で、家族が住んでいた渋谷区広尾の官舎に取りあえず落ち着いた。家族5人が揃ったのは4年ぶりのこと。雅子さんは「やっぱり、日本がいちばん!」といって、くつろいでいたという。

 のんびりしたのもつかの間。雅子さんは翌年6月の外交官試験を目指して猛勉強を始めた。当時、外交官試験は40倍という超難関で、しかも女性の合格者は毎年一人か二人しかいなかった。雅子さんの専攻は、経済学だったため、憲法や細かい法律を一から学ばなくてはならなかった。国際法にしても専門用語を英語ではなく日本語で覚え直さなくてはならないなど、課題は多かった。外交官試験の難しさは、恆さんがいちばんよく知っていたため、「外務省が駄目だったときに備えて、もういちど日本の大学に籍を置いたらどうだろう」とアドバイスした。

「仕事を持って生きることに迷いはありませんでした」

 明確な課題が見えると、雅子さんは驚異的な力を発揮する。その一方で、切り替えも早い短期集中型だ。猛勉強の毎日でも、週末には映画やミュージカルなどに、また86年の正月には京都へも出掛けている。

 同年4月、雅子さんは東大へ学士入学した。だが、2カ月後には外交官試験が迫っていた。その間、就職先として日本銀行だけは受けていた。後の会見でも「ハーバードでは女性でも仕事を持つのが当たり前でしたから、仕事を持って生きるということに迷いはありませんでした」と話している。おりしも男女雇用機会均等法が施行された年であった。

(友納 尚子)

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