「なんでガイジンが握ってんだよ!」から始まった……ミャンマー人が浅草に“本気の寿司屋”を出した理由

文春オンライン / 2019年7月28日 11時0分

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(右から)板長のマウン・ラ・シュイさん、ニイ・ニイ・サンさん、レイン・レイン・トゥンさん

 東京、浅草。雷門も近い、商店街の一角にその寿司屋はある。扉を開けると、威勢のいいかけ声が響いた。

「らっしゃい!」

 活気ある店だ。メニューを見れば、握りや刺身のほかに揚げ物や炒め物などつまみも充実している。寿司屋であり、居酒屋としても使えそうだ。

 注文するとすぐに、華やかに盛りつけられたひと皿が運ばれてくる。いかにも新鮮そうなネタが並び、お腹が鳴るが、手にしているのは浅黒い肌の異国の男性。優しげな笑顔が印象的な彼が、この店の「板長」マウン・ラ・シュイさんだ。

 南国の顔立ちを見て驚くお客もいる。が、料理を口にすると、表情が変わるのだ。ほどよく脂の乗ったネタとシャリとが口の中でほどける。甘さと一緒にとろけていく。一品料理だって、白魚の唐揚げは磯の香りが立っているし、活しじみの出汁が効いた玉子焼きのふんわり優しいこと。日本人でこの味を出せる人が、どのくらいいるのだろうかと思う。

 ここはマウンさんたち、ミャンマー人が経営する寿司屋なのだ。腕を振るう3人の板前は、日本で長年、日本人とまったく同じ土俵で、寿司職人として修行を積んできた人々。彼らが独立し、浅草で勝負をかけて出店したのが、この「寿司令和」だ。

ミャンマーから来て、日本で修行すること24年

「いまでこそ回転寿司や大手寿司チェーンでは外国人がたくさん働いていますが、私が来た当初はまだまだ少なかったと思います」

 そう語るマウンさんが来日したのは1996年のこと。母国では軍事政権が民主化運動を弾圧し、経済は低迷、学校を出ても就職先がなかった。海外に希望を求める若者が多かった。

 そんなミャンマー人たちが、東京・高田馬場などにコミュニティをつくりはじめた時期だった。まずは仕事をしなくてはと外国人も受け入れてくれる職場を探し、たまたま見つかったのが、とある寿司屋だったという。

「はじめはお寿司の味がぜんぜんわからなかったんですよ。ミャンマーは、カレーやスパイシーな料理など味が濃いもの、刺激が強いものが多いです。ところが和食は薄味で、繊細。まったく違うことに驚きました」

 だから日本に来たばかりの頃はカレーライスと唐揚げばかりを食べていた。しかし、そんな外国人であろうと親方はお構いなしに怒鳴り飛ばし、厳しく指導をする。昔ながらの寿司修行の世界に、マウンさんは図らずも叩き込まれたのであった。もちろんはじめは延々と皿洗いと下働きの日々である。少しずつ魚を扱えるようになっても、

「初歩的なミスばかりでね。さばいた魚を氷で締めるのを忘れて怒鳴られる。味つけのわずかな差で怒鳴られる。間違っていなくても怒鳴られる(笑)」

 カッとすることもあった。それでも、走り回っているうちに寿司の、和食の味がわかってくる。考えてみれば、親方は日本人も外国人もなく怒鳴ってくれるのだ。ためになると思った。自分が手がけた料理をお客が平らげてくれたり、あるいは残しているのを見て、考えるようにもなる。どうにか巧くなってやろう。技術を身につけてやろう。楽しくなってきたのだ。

 やがて、つけ場にも立つようになる。

「なんでガイジンが握ってんだよ!」

 そんな声を投げつけられるのも、よくあることだ。

「でもね、そういうときは常連さんがかばってくれるんですよ」

 こいつぁいい寿司を握るんだから、まず食ってみてくれよ……そう常連が言ってくれるようになるまでに、24年が経っていた。

日本でがんばる同胞たちの励みになりたい

 マウンさんが寿司職人として認められたいま、いつしか外国人が労働力として大量に流入してくる時代になった。ミャンマー人もたくさんの留学生や技能実習生が日本で暮らしている。

「そんな後輩たちにも、ミャンマーにいる人たちにも、伝えたかったんです。外国人でも日本の文化を担うことはできるし、まじめに続けていれば自分の店を持つこともできる」

 独立したいというよりも、そんな気持ちから、思い切って冒険に出て、会社を設立したのだ。

「ミャンマーではなく、どうしても日本で店を出したかった。日本でこの仕事を学んだという自負があるし、日本人にも見てもらいたかった」

 と言うが、前職を辞めるときはなかなかに大変だったようだ。飲食の、それも厳しい寿司の世界に入ってくる日本人の若者は少ない。熟練の職人であるマウンさんは何度も引き止められたが、どうしてもチャレンジしたかった。

外国人が認められづらい社会の中で

「日本社会で外国人が認められるのは、なかなかに難しいんです」

 と言うのは、「寿司令和」の代表を務めるトエエモンさん。2003年に来日後、語学学校で日本語をマスターしてからは有名理系大学に進学、さらに大学院に進み日本の博士号を取得している。

 それだけの秀才をもってしても、就職活動は困難を極めた。

「何十社と落ちました」と苦笑する。表向きはどんな会社だって外国人だからお断りとは言わない。でも、それとなく歓迎されていない空気は感じるものだ。日本語能力はそこらの日本人の若者以上で、農業や経済についての高度な専門知識を持ったこの人材を、結局のところ日本社会はあまり活用しようとはしなかった。引っかかったのはまったく専門外のIT企業。「外国人でも誰でも」という人手不足からの採用だった。

 そして就職し、実績を上げても、外国人はなかなか「運営する側」には回れないのが実情だ。どうにかステップアップしたかった。

 もともと、タイやベトナム、それにミャンマーも含め、東南アジアの人々は独立心旺盛。日本社会の中でも資金のめどがついたらどんどん起業する。日本人は一円からでも会社を設立できるが、外国人の場合は500万円以上の投資が必要なのだが、それでもばんばん勝負に打って出るのだ。トエエモンさんも、そんな姿を見てきた。

「だから僕も前から独立は考えていたんです。もちろん日本がいやになったとか、そういうわけじゃないですよ。奥さんも日本人だし(笑)。でもね、マウンさんの言うように、僕もやっぱり、苦労している仲間たちにがんばってる姿を見せたかったんです。とくに次世代の若い人たちに、なにかひとつ手渡したい」

ガンコな地元の人たちにも馴染んでいく

 3人の板前を中心に、10人ほどのミャンマー人が集まり、出資しあって、会社をつくった。寿司屋のオープンを目指して動き出したわけだが、とにかく困ったのは店舗の場所探しだった。トエエモンさんがため息をつく。

「はじめは新宿で出店を考えていたんですが、外国人はまず契約してくれない。なんとか検討してくれるところが見つかっても、今度は後から来た日本人が優先されて、そちらに決まってしまう。そんなことの連続でした」

 ようやく契約にこぎつけたのが、この浅草だった。

「その日がね、5月1日だったんです。“令和”がはじまった日。令和の日本は、外国人がいま以上にどんどん増えていくでしょう。それなら、僕たち外国人も令和の名前を使ってもいいんじゃないか。そう思って店名につけたんです。なにより、覚えやすいしね」

 とマウンさんは笑う。

 オープン間もなく、梅雨どきとあって苦戦しているが、少しずつお客が増えてきた。それも地元の、ライバルであるはずの飲食店の日本人が偵察がてらにやってくる。なにせ下町だ。ガンコなおじさんも当然いるわけで、外国人が寿司屋をはじめたと聞くとマユをひそめるのだが、

「なんだ、おいしいじゃないの、なんて言ってもらえるようになってきたんです。常連になってくれて、世間話をする間柄の人も増えてきました。それがなにより嬉しいですね」

 と、トエエモンさんは手ごたえを感じている。

市場に出向いて、魚の仕入れもする

 実のところ、いまでは外国人経営の和食店というのはけっこうある。でも現場で働いているのは日本人ということがほとんどなので、表向きはそうとはわからない。ところが「寿司令和」は違うのだ。マウンさんが前面に出て、外国人の寿司屋だとアピールする。

「そこに違和感を持つ日本人もいると思うんです。日本人以上にきちんと味を確かなものにしないと納得はされない。だからネタの鮮度や質にはこだわっています」

 マウンさんは自ら足立市場に出向き、魚の目ききと仕入れも行う。外国人の料理人も増えてきた昨今だが、「市場で外国人と会うことはないですね」とマウンさんは言う。もともとミャンマーでも海に近いミャウーという街の出身で、魚はよく知っているのだ。

 そうして仕入れたネタを、ずいぶん低価格で提供している。大丈夫か、と心配になるが 「まずは来てもらわないと」とトエエモンさん。

 マウンさんは、もちろん「日本人はまず、目で味わう」こともよく知っている。だから盛り付けはていねいに映えるように。衛生面にも徹底的に気を使う。

 そして浅草は外国人観光客の多いマーケットだ。言葉のわからない外国人でも注文しやすいように言語対応を進め、オーダーフォームもつくった。競争の厳しい街だということは店の誰もがわかっているけれど、

「日本で修行した技術で、やるべきことをきちんとやれば、日本人は認めてくれる。満足してもらえる自信はあります」

 マウンさんは胸を張る。

 日本を代表する食文化に、誇りを持って人生を賭けるミャンマー人がいる。ますます多民族化が進む日本にあって、彼らは先駆けのような存在になるのかもしれない。

(室橋 裕和)

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