1945年8月15日も「日本の鉄道は時刻表通りに走っていた」は本当か? ある新米車掌の手記

文春オンライン / 2019年8月15日 5時30分

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1945年8月15日玉音放送の後、皇居で涙を流す人々 ©AFLO

「昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである」

 紀行作家の宮脇俊三は、著書『時刻表昭和史』の中でこう書いている。宮脇は米坂線の今泉駅で玉音放送を聞いた。その直後、時間通りにやってきた米坂線の坂町行きに乗ったという。そして「こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いをしていた」と書いた。

 米坂線は山形県の米沢から新潟県の坂町までを結ぶローカル線。さほど軍事上重要な拠点があったわけでもなく、米軍の空襲禍にさらされるようなこともなかった。むしろ都市部から疎開してきた人たちが多く暮らしているようなところであっただろう。こういう事情もあるから、必ずしも全国津々浦々で鉄道が“時刻表通りに走っていた”とは言い難い。ただそれでも、74年前の今日、終戦の日にも鉄道が走っていたことは間違いない。日本の鉄道は、戦争に負けずに最後まで走り続け、そして終戦後もまた変わらず今日まで走り続けているのである。

 ただ、これをもって「日本の鉄道はスゴい!」とするのは少し早計でもある。実際、戦争末期から終戦時にかけての日本の鉄道網はズタボロであった。いったい、その頃の鉄道事情はどうだったのだろうか。

8月13日「東海道線は大船で折り返し運転」

 当時の新聞を調べてみると、断続的に「列車の運転状況」を報じる短い記事が載っていた。終戦前最後の「列車の運転状況」記事は1945年8月14日の朝刊。前日の13日15時に東京鉄道管理局が発表した情報として例えば次のようなことが書かれている。

「東海道線列車は大船、横須賀線は横浜始発で折返し運転、京浜線は上りは鶴見、下りは品川で折返し運転、ただし一部列車は品川、鶴見間を貨物線を経由して運転し乗車券所持者に限り乗車を認めている」

 京浜線は現在の京浜東北線のこと。運転本数は極めて少なく、折り返し運転を行うなど運転区間も短くなっていた。さらに乗車券を事前に持っていない人は乗ることができないなど、乗車にも制限があったことがわかる。

 他の路線の情報もある。

「東京急行品川線下り青物横丁で折返し、同駅以遠不通」

 東京急行品川線は現在の京急本線で、青物横丁駅以遠は運転されていなかった。おそらく空襲などで運転できる状況ではなかったのだろうと思われる。“帝都”の鉄道とて、けっして万事順調に運転されていたわけではないのだ。

すでに全国の路線はほぼ完成……でも軍事輸送が最優先

 そもそも、日本の鉄道は大正から昭和のはじめにかけて“黄金時代”を迎えていた。主要な路線はほぼ完全に整備され、長距離を走る優等列車も次々に登場。特急「富士」「櫻」「燕」「鴎」が走り始めたのもこの頃である。ところが戦争の時代に入ると鉄道も戦時体制に突入。輸送需要は軍事輸送の活発化もあって大幅に増えていたので輸送力増強も求められていたが、戦争が激しくなるにつれて充分な輸送量を確保することが難しくなって特に通勤電車の混雑は激化。さらに不要不急の旅行を忌避する傾向も強まり、貨物輸送優先という軍事上の要請もあって旅客列車は大幅に削減される。

 1944年以降は米軍の空襲も本格化して鉄道施設が被害を受けることも多くなり、反面疎開輸送の重要性も高まった。最低限の輸送の安定を図るために緊急及び公務旅行以外では乗車券の購入がほぼ不可能に。先の特急や急行などは次々に廃止され、本土決戦の準備が叫ばれるようになっていた1945年3月20日には長距離列車が東京~下関間の急行1往復以外すべて姿を消している。

 と、戦争末期の鉄道網は貨物を中心とした軍事輸送を最優先に、短距離の通勤輸送と疎開などの緊急輸送だけがかろうじて続けられる状況になっていたのである。もちろん、今のように一般人が気軽に旅行するなど、とうてい叶わぬ時代であった。

「日本初の女性車掌」も誕生していた

 ちなみに鉄道においては職員の確保も深刻な問題で、主要労働力となりうる若い男性が戦地に送り込まれていたために代替として女性を盛んに採用していた。女性の車掌など今では当たり前になったが、日本で初めての女性車掌はこの時代に“窮余の策”として誕生したのである。

 さて、そうした戦争末期の鉄道界、とうぜん空襲の被害も受けている。東京では特に大きな被害を受けたのが5月25日の山の手空襲。この空襲では東京駅や新宿駅などの駅舎をはじめ、山手線のほぼ全線が完全に破壊されるほどの状況に陥った。それでも当時の鉄道マンたちはただちに復旧に立ち上がり、空襲翌日から順次復旧を進めて5月30日までには都心部の鉄道はおおむね運転再開にこぎつけている。

 この空襲被害を新宿駅長が振り返っている記事が国鉄機関誌「国鉄線」に載っていた。

「私は十九年の暮から終戦まで駅長室に籠城し、遂に官舎に寝たことはなかったですよ。首席や日勤助役も交代に宿直して不時に備えていたので、二十年五月二十五日夜の大爆撃にも犠牲者は千八百人もいた旅客中婦人只一人、この婦人も一旦退避したのに、ホームに置いた行李が惜しさに線路を横断して煙にまかれたものでした」(交通協力会『国鉄線』1951年11月「新旧現場長紙上対談」より)

 駅舎が焼失するほどの大空襲だったのに死者1人。それだけ当時の鉄道は“空襲”への備えをしていたということだろう。ただ、残念ながら運行中の列車が狙われて多くの死者がでたこともあった。例えば終戦間際の8月5日、満員の乗客を乗せて浅川駅(現・高尾駅)を出発した直後の中央線が機銃掃射を受けた。こうした事例はほかにもあって、鶴見線国道駅のように今も機銃掃射の跡が残る駅が残っている。

「大丈夫ですよ、汽車だけは」ある新米車掌が振り返る“8月15日”

 ただ、こうした厳しい中でも鉄道は空襲被害を受けては復旧、また空襲を受けては復旧、を繰り返して走り続けていた。駅や線路などに限らず、車両も被害を受けていたから、ダイヤ通りの運行などはおよそ不可能だったようだ。もともと大きく減便されていた旅客列車だったが、細い糸をたぐるようにかろうじて運転を続けていた。そして8月15日、終戦を迎える。水戸車掌区に配属されて間もない新米車掌がその当日を振り返った手記がある(中央書院『運輸界』1969年7月号)。その一部を引用しよう。

「『戦争に負けたんだ』。
 区長と助役が、青ざめた顔で私達にこう言った。
『信じられない』
 焼跡を車掌事務室の車に戻る途中区長はそう言って涙を拭った。
 みんな茫然として仕事が手につかなかった。
『戦争に負けたなら、汽車に乗務してもしょうがねえや』
 そう言ってさっさと家に帰る者もあった。
 それでなくとも乱れていたダイヤは、終戦とあって乱れに乱れていた」

 ところが、そんなときに上役である車掌区の区長から乗務の指示が下る。渋っていると、区長は言った。

「『もうすでに三一五列車の発車時間が一時間も遅れている。見たまえ、お客が屋根まで乗って発車を今か今かと待っている。この通り、お願いだ、郡山まで乗って来て呉れないか』」

 この言葉に若き車掌は乗務することを決意、終戦直後の列車に乗り込んだ。そして乗客とも戦争に負けたことを話す。

「『信じられないですね』
『汽車も止まって走らなくなるんじゃないでしょうか』
 人々に不安の色が浮ぶ。
『大丈夫ですよ汽車だけは……』
 私はそう言って、窓から顔を出し、信号確認の大声をはりあげた」

 そうして、いつもと同じとはいかずとも、乱れきったダイヤの中で戦争が終わっても鉄道は走ったのである。終戦直後、鉄道が変わらずに動いていることに安堵したという声は多く聞かれたという。激化する戦争の中で、そして戦後の混沌の中で、ほうほうのていであったとしても鉄道が走り続けたことには大きな意味があった。そして少しずつ、また日常を取り戻していったのである。

 鉄道は究極の“日常”である。もちろん観光列車のように非日常を提供してくれるものもあるが、こと通勤電車に限れば、毎日当たり前のように走っている鉄道ほど日常的なものはない。人身事故などで1時間ばかり山手線が止まっただけでもニュースになる。それは裏を返せば、走り続けていることが“日常”で“当たり前”であるということ。それが脅かされつつも、なんとか命運をつないで日常であり続けようとした歴史があった。そうしたことにも少しだけ思いを馳せながら、8月15日の鉄道に乗ってみてはいかがだろうか。

(鼠入 昌史)

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