「余命半年の宣告から3年、“楽観的”が何より大事」――大林宣彦が語る「理想の死のかたち」

文春オンライン / 2019年9月2日 5時30分

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大林宣彦監督 ©山元茂樹/文藝春秋

 孤独死、ポックリ、七転八倒!? 理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『 私の大往生 』(文春新書)が発売中。その中から映画監督・大林宣彦さんのインタビューを特別公開。

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大林宣彦 おおばやし・のぶひこ 1938年広島県生まれ。1977年、『HOUSE/ハウス』で劇場映画デビュー。故郷・尾道を舞台にした作品などで数多くの映画賞を受賞。2016年、肺がんで余命半年を宣告されたが、その後も映画を作り続けている。

クランクイン前日に余命半年の宣告

――映画監督の大林宣彦さんが、肺がんの第4期で余命半年の宣告を受けたのは、2016年8月のこと。檀一雄の原作『花筐』(はながたみ)の映画化が決まり、撮影に入る直前のことだった。しかしその後、抗がん剤治療が効いて奇跡的に回復し、宣告から3年が過ぎた。

大林 余命半年だと告知されたのは、クランクイン前日のことでした。僕は肺がんだと知り、ああ、これで映画を撮る資格が貰えた、ありがたいな、と思いました。

 僕は『花筐』をデビュー作にするつもりで、40年以上前に、代表作『火宅の人』を口述筆記していた晩年の檀一雄さんに会いに行って、映画化の許可を頂いていました。

『花筐』は、空想の街を舞台にした作品です。なので映画を撮る時にどこを舞台にすればいいか檀さんに聞くと、「唐津へ行ってご覧なさい」と言われました。

 でもその後、僕は映画化することができなかった。『花筐』は戦争世代の断念と覚悟が描かれています。平和ボケの戦後世代の僕に果たして作れるのか? と悩んでしまいましたし、戦争を忘れ経済成長に邁進している中で撮っても、何も伝わらないことも分かっていました。しかし、がんになってようやく、この映画が撮れると思いました。檀さんと同じ肺がんになり、映画を撮る資格を貰えたと思った。だから、がんを宣告されても落ち込みませんでした。

3日後に、余命は3カ月になったが……

 余命半年の宣告を受けた3日後に、余命は3カ月になりました。がん細胞は、倍々ゲームで増えていく。しかし、その後抗がん剤治療が効いて、今は“ 余命未定 ”。

 こんな話があります。

 アメリカで、楽観的な人を数百人、悲観的な人を数百人集め、長期に渡って調査しました。その結果、楽観的な人には薬がよく効いて、悲観的な人にはあまり効かないことがデータに表れたのです。

 余命宣告から回復した僕には、がん仲間を励ます役目があると思っていますが、みんな落ち込まず、楽観的でいることが何よりも大事なのだと伝えたいですね。

「大往生」という言葉は面白い。大往生とは、何の苦もなく、安らかに大満足して死ぬこと。でも「大」を外して「人を往生させる」と言うと、迷惑をかけるという意味になりますよね。自分は大往生して、周りを往生させないのが一番です。

 大往生した後、生まれ変われるとすれば、また映画作家になりたい。勉強し直して一から始めるのではなく、これまでの自分の続きをやりたい。

 映画には、内容でも、技術的にも、未開発のことがまだまだあります。

 たとえば「フェードアウト」は、光が段々消えて最後は真っ暗になる手法です。これは、映画がモノクロフィルムから始まったから生まれたもの。では、映画が最初からカラーだったらどうだったでしょうか。もし、最初からカラーフィルムで映画が作られていれば、フェードアウトは黒になって終るのではなく、赤とか青になっていたかもしれません。

 いま編集を終えたばかりの新作では、白と黒を一切使わない作品を作りました。どんなふうになるか? それは観てのお愉しみですが、映画にできること、やるべきことは、まだまだあるのです。

戦死したタカ兄さんが僕の家の廊下の隅に立っていた

――大林さんは、1977年、ファンタジー・ホラー『HOUSE/ハウス』で商業映画デビューを果たした。その後、『転校生』『時をかける少女』『漂流教室』など多くの作品を撮って来たが、幻想的な手法は、“映像の魔術師”と呼ばれた。

大林 僕にとって、生と死の間には「狭間」がないんです。

 戦時中は、名前や顔を知っている人が戦死したと毎日知らせがあり、ある時、満州へ出征した隣のタカ兄さんの戦死が伝わってきました。毎日、鶏屋のタカ兄さんのところへ行き、卵を貰ってくるのが僕の仕事でしたから、よく知っている人です。戦死を聞いた後、ふと見ると、タカ兄さんが鶏屋の格好のままで、僕の家の廊下の隅に立っていました。

 タカ兄さんだけではありません。肺病になり、戦争に行けないから非国民だと恥じていたご近所のおじさんは、鉄道自殺しました。自殺した後、やはり家の廊下の隅に立っていました。死んだ人が、廊下に立っているのです。

 僕は、僕が覚えている限り、彼らは生きている、僕が覚えてなければ死んじゃう、と学びました。そしてそれは、僕にとってすごく勇気になった。

 世の中には「本当」と「嘘」がある。タカ兄さんが死んだのは本当で、廊下に立っていたのは嘘ですが、僕の心の中では、タカ兄さんが生きているという真がある。僕が映画で描きたいのは、この「真」です。

 子供の頃の体験は、今も映画に影響していますね。

 敗戦直前の7歳の時、「母ちゃんと一緒にお風呂に入らん?」と母が言いました。当時は男尊女卑が当たり前で、風呂に入るのも男女別と決められ、母とお風呂に入ったことはありませんでした。お風呂で母の裸を初めて見た時、女の人の裸は、こんなに美しく、柔らかく、温かいものかと感じました。

 僕の映画には、少女の裸が必ず出てきます。“脱がせ屋”と言われたりもしましたが、「着せてないだけ」と答えています。赤ん坊は服を着て生まれて来ません。命の象徴としての、裸を撮る。そこには、母親の裸を初めて見た時の影響がある。

僕を殺した後で、母ちゃんは自殺するんだと思った

 その夜、母は腰まであった髪をバッサリ切り、男性用の国民服を着てました。母の覚悟だったかもしれません。寝間には布団がなく、座布団が2枚置かれ、その間に小刀が置かれていました。

 僕は、母ちゃんがこの小刀で僕を殺してくれる。母ちゃんだったら、きっと優しく殺してくれる。僕を殺した後で、母ちゃんは自殺するんだと思いながら、座布団に頭を乗せたまま寝てしまいました。固い座布団の布が頬に当たる心地は、今も覚えています。

 翌朝目を覚ますと、僕は死んでなかった。母も、隣で眠っていました。

 その時、閉めた雨戸の隙間から、庭の景色が逆さまに見えました。牛乳配達のお兄さんが来た姿も、逆さまに見えた。僕は、座布団に頭を乗せたままだから、風景が現実とは逆さに見えるのだと思いました。

 僕は、戦争で死んだ子供が逆さに出て来るなど、逆さまの映像を撮ることがあります。それは、あの時の体験があり、僕の映画の原点にもなっているからです。

他人のようにうまくやるな、自分らしく失敗しろ

 商業主義の映画では、お客さんが分からないという理由で実験的なことがあまりできません。それに、大勢が集まれば、映画監督は集団の権力者になってしまいます。どちらも嫌なので、僕は個人で映画を撮っています。僕とキャメラマンと助監督は、人間として対等だし、むしろ新しく入った人の話を聞いてみたい。

 僕は新人に「学ぶなよ」と言うんです。商業主義の映画であれば、学んでうまくなることも必要でしょう。しかし学んでしまえば、発想力が弱くなる。本当に必要なことは、誰にも真似できない冒険をすること。それが新たな成功への源泉になる。「他人のようにうまくやるな、自分らしく失敗しろ」と自分にも課しています。

大往生アンケート

■理想の最期とは?

 撮影現場で「スタート」と言った瞬間に息絶えたいと思っていましたが、映画を撮っている間は死ねません。(前文参照)

■心に残っている死に方をした人は?

 人は、亡くなる時に正体が出ると思います。いい人は大往生する。悪い人は、迷惑三昧をかけて死んでいく。僕は、人柄だけはよくしようと自分では心掛けています。結局無理であっても、僕は僕でしかあり得ないのですから。

■最後の晩餐で食べたいものは?

 映画プロデューサーであり、62年のパートナーである妻の恭子さんが作ってくれる日常の食事を、暖かい陽ざしの中で「美味しいね」と言って食べたい。

 僕は、日本中の故郷で映画を撮って来ました。その時お世話になった方々が今も応援団で、旬の食材を送ってくださるんです。

 恭子さんがそれを嬉しそうに料理する。我が家には、朝から晩まで、全国の旬の命が一緒に並んでいます。

 僕は商売のために映画を撮ったことはなく、今もお金はありませんが、「世界で1番の旬のものを頂いているね」と言っています。ありがたいことです。

■もし生まれ変われるとしたら?

 再び、映画作家になります。映画作家として、まだまだ出来ることがある。生まれ変わって一から映画作家になるのではなく、平和づくりに繋がる自由な表現を僕なりに見据えつつ、僕らしい映画作家振りを、若い人と共にいつまでも続けたいと思います。どうか、宜しくお願いします。

最新作『LABYRINTH OF CINEMA 海辺の映画館  キネマの玉手箱』は、本年10月にTIFF(東京国際映画祭)上映後、11月HIFF(広島国際映画祭)上映、その後戦後75周年にあたる来年春以降に劇場公開です。

佐藤愛子(作家)・渡邉恒雄(読売新聞主筆)・中村仁一(医師)・外山滋比古(英文学者)・酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)・やなせたかし(漫画家)・小野田寛郎(小野田自然塾理事長)・内海桂子(芸人・漫才師)・金子兜太(俳人)・橋田寿賀子(脚本家)・出口治明(大学学長)・高田明(ジャパネットたかた創業者)・大林宣彦(映画監督)・柳田邦男(ノンフィクション作家)生を達観した14人へのインタビューは『 私の大往生 』(文春新書)に収録されています。

「がんになって初めて学んだのは“優しくする“こと」――大林宣彦が語る「理想の死のかたち」 へ続く

(「週刊文春」編集部)

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