「がんになって初めて学んだのは“優しくする“こと」――大林宣彦が語る「理想の死のかたち」

文春オンライン / 2019年9月2日 5時30分

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©山元茂樹/文藝春秋

「余命半年の宣告から3年、“楽観的”が何より大事」――大林宣彦が語る「理想の死のかたち」 から続く

 孤独死、ポックリ、七転八倒!? 理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『 私の大往生 』(文春新書)が発売中。その中から映画監督・大林宣彦さんのインタビューを特別公開。(全2本中2本目)

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大林宣彦 おおばやし・のぶひこ 1938年広島県生まれ。1977年、『HOUSE/ハウス』で劇場映画デビュー。故郷・尾道を舞台にした作品などで数多くの映画賞を受賞。2016年、肺がんで余命半年を宣告されたが、その後も映画を作り続けている。

誰も殺してくれない。大人に騙された

――大林さんは、1938年の1月9日生まれ。父も母も代々医者の家系だった。医者の父親が出征した後は、広島県尾道市の母親の実家で過ごし、7歳の時に終戦を迎えた。

大林 大家族で暮らす時代で、尾道の屋敷は広く、夜な夜な町の長が集まりました。警察署長、税務署長、郵便局長……ヤクザの親分さんも集まって、芸者さんも呼んだ。男衆はみんなフンドシ1本になって酒を飲み、意気軒昂に天下国家を論じる。

 当時は子供部屋などはなく、10人ばかりの子供はその辺で遊んでいました。しかし、子供は大人の話は注意して聞いている。

 大人たちは、次第に背中を丸め、ヒソヒソ話をするようになった。大人たちは、戦争に負けていることを子供には話してくれません。でも、子供には分かっているんです。

 軍国少年だった僕も、負ければ死ぬぞって覚悟していました。憲兵のおじさんは、「負けた国は、皆、自決する。子供は、大人が殺してやるから安心しろ」と言っていました。

 しかし敗戦になった途端、大人たちがボロボロの服を着て、ヤミ米担いで「平和じゃ、平和じゃ」と言ってスキップしている。誰も死なないし、誰も殺してくれない。ふいに大人に騙されたという絶望感に襲われました。

「何のために生き延びたんだ?」僕を抱きしめて泣いた談志

 寺山修司が昭和10年生まれで、僕の3歳上。ミッキー・カーチスが昭和13年生まれで、同い年。阿久悠さん(昭和12年生まれ)も、和田誠さん(昭和11年生まれ)も、僕らは、敗戦時の記憶が人生に強く影響しているんです。

 落語家の立川談志(昭和11年生まれ)とは、晩年に仲良くなりました。

「大林さん、鬼畜米英をやっつけることが正義だと信じ、お国のために死んでやろうと思っていたのに、負けた途端に、アメリカの正義が正しいと言われ、何を信じられる? 正義なんて勝った国の都合じゃないか」

 談志は、よくそう言っていました。

 談志が古典落語を選んだのは、そこに、敗戦で失った日本の良さが生きていたからです。その一つが夫婦愛。だから彼は「芝浜」の名人になった。

 談志はがんになった後、「オレなりに努力して、ここまで来た。がんごときに殺されたくねえ。何のために生き延びたんだ? 大林さんなら分かるだろ?」と言って、僕を抱きしめながら泣きました。

マッカーサーの占領政策は“敗戦”を忘れさせた

 米国に負けたことを日本人が覚えていれば、将来、米国を憎むようになる。そう考えたマッカーサーの占領政策は、日本人の大人には敗戦を忘れさせ、子供には、戦争などなかったことにする、というものでした。日本人は、米国に負けたことをきちんと教えられなかったと、今も思っています。

 今の若い人も、写真を撮る時にピース・サインをします。あれは、戦争に勝った国が勝利を誇示するブイ・サインであり、本来は平和を意味するピース・サインではありません。なのに、負けた国の若者が、何も疑わず、ピース・サインをしている。

 この国の民は、戦争について教えられず、何も知らないんじゃないか。そう思うからこそ、僕は映画を撮るんです。

 そして、文章は理解するものだとすれば、映像は感じるもの。戦争を「理解する」より、戦争は嫌だと「感じて」欲しい。だから僕の映画は「反戦」ではなく、「厭戦」なのです。

がんになって虫1匹殺せなくなった理由

 新作は、3人の若者が、幕末や太平洋戦争にタイムスリップする『海辺の映画館―キネマの玉手箱』。20年振りに故郷の尾道で撮影した。

 僕は、がんで余命宣告された時から、虫一匹殺さなくなりました。

 ふと見ると、左腕に蚊がとまっていたことがありました。その蚊を見た時、何十万、何百万という蚊がこの宇宙にはいて、何十万、何百万人と人間がいる中、俺とお前は今が一期一会だなと思ったんです。僕はがん患者だから血は美味しくないかもしれないけれど、一所懸命吸って、元気で暮らしてくれって。虫だけではなく、歩いていて、草も踏めなくなりました。葉一枚を千切ることもなくなった。みんな同じ命です。

 体の中のがんにも言っています。ここに住み着いたからには、面倒を見てやる。だけど血を吸い尽くして、筋肉を食い尽くして僕が死ねば、お前も死ぬぞ、少しは我慢を学びなさいって。

 同時に、僕自身がこの宇宙にとってがんだったということにも気付きました。

 思いのままに好きなものを食べ、ジェット機に乗って外国へ行く。僕がジェット機に乗らなければ、地球の温暖化が少しは止まるだろうに。そのぶんだけ地球は長生きできる。

がんになって初めて、学んだこと

 僕はがんになって初めて、「優しくする」ということを学びました。だから地球にとっていい患者になり、周囲に優しくすることを実践していきたい。自分は人としてまだまだ青二才だと思っていますから。

 理想の最期は、撮影現場で「スタート」と言った瞬間に、息絶えること。僕はそう思っていました。しかし実際は、映画を撮り始めると、編集してエンドマークを付けるまでは、決して死ねないと思うんです。がんが分かった時も、この映画を完成させるまでは死ねない、とお医者の先生に申し上げました。

「そうすると、映画を撮っている限り、いつまでも死なないね」と妻の恭子さんと笑って言っています。

 定期的に血液検査を行っていますが、今の僕はがんよりも老化のほうが気になります。老いるということは経験のないことで、面白い。これまで出来ていたことが、1つ1つできなくなる。それでも、これまでと同じことをやろうと思えば、その誤差が新しい発見を生むから面白い。

 人間は、本来125歳まで生きることができると伝え聞きました。もし125歳まで生きるならば、僕は、あと30本は映画を撮らねば。

 若い俳優たちには、「君たちが爺さん婆さんになるまで見届ける」と言っています。彼らは冗談として受け止めているでしょうけど、まだ、僕に死ぬという発想はありません。

 ただ、命を失くした瞬間に、世の中からずばっと忘れ去られたい。その後は、僕の後を継いでくれる、まだ若い未来の表現者たちがいるからです。

大往生アンケート

■理想の最期とは?

 撮影現場で「スタート」と言った瞬間に息絶えたいと思っていましたが、映画を撮っている間は死ねません。(前文参照)

■心に残っている死に方をした人は?

 人は、亡くなる時に正体が出ると思います。いい人は大往生する。悪い人は、迷惑三昧をかけて死んでいく。僕は、人柄だけはよくしようと自分では心掛けています。結局無理であっても、僕は僕でしかあり得ないのですから。

■最後の晩餐で食べたいものは?

 映画プロデューサーであり、62年のパートナーである妻の恭子さんが作ってくれる日常の食事を、暖かい陽ざしの中で「美味しいね」と言って食べたい。

 僕は、日本中の故郷で映画を撮って来ました。その時お世話になった方々が今も応援団で、旬の食材を送ってくださるんです。

 恭子さんがそれを嬉しそうに料理する。我が家には、朝から晩まで、全国の旬の命が一緒に並んでいます。

 僕は商売のために映画を撮ったことはなく、今もお金はありませんが、「世界で1番の旬のものを頂いているね」と言っています。ありがたいことです。

■もし生まれ変われるとしたら?

 再び、映画作家になります。映画作家として、まだまだ出来ることがある。生まれ変わって一から映画作家になるのではなく、平和づくりに繋がる自由な表現を僕なりに見据えつつ、僕らしい映画作家振りを、若い人と共にいつまでも続けたいと思います。どうか、宜しくお願いします。

最新作『LABYRINTH OF CINEMA 海辺の映画館  キネマの玉手箱』は、本年10月にTIFF(東京国際映画祭)上映後、11月HIFF(広島国際映画祭)上映、その後戦後75周年にあたる来年春以降に劇場公開です。

佐藤愛子(作家)・渡邉恒雄(読売新聞主筆)・中村仁一(医師)・外山滋比古(英文学者)・酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)・やなせたかし(漫画家)・小野田寛郎(小野田自然塾理事長)・内海桂子(芸人・漫才師)・金子兜太(俳人)・橋田寿賀子(脚本家)・出口治明(大学学長)・高田明(ジャパネットたかた創業者)・大林宣彦(映画監督)・柳田邦男(ノンフィクション作家)生を達観した14人へのインタビューは『 私の大往生 』(文春新書)に収録されています。

(「週刊文春」編集部)

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