「ヤバい。俺プロ野球なんて絶対無理だって」――“ドラフト最下位”三輪正義の生き方 #1

文春オンライン / 2019年10月16日 19時30分

写真

三輪正義

 プロ野球ドラフト会議は10月17日に行われる。上位指名選手にスポットが当たりがちだが、下位指名も興味深い。なかでもその年、最後に名前を呼ばれた“最下位指名選手”は、プロ野球選手に“なれた人”と“なれなかった人”の境界線にいる、特別な存在だ。
 今季で現役引退を決めたヤクルトの三輪正義。彼もそんなひとりである。「できるわけがない」から始まったプロ野球人生を、本人の言葉で辿った。

※ 『ドラフト最下位』 (KADOKAWA)から抜粋

◆◆◆

 神宮球場。試合前、誰よりも早く球場に入った背番号60の1日は、全ポジションで入念なノックを受けるところからはじまる。室内練習場に移動してマシンを相手に黙々と打ち込み、仕上げにバントをチェックする。ゲームがはじまればムードメーカーとしてベンチを盛り上げ、終盤になると展開を読みながら出番に備え、ベンチ裏でダッシュを繰り返す。

 三輪正義はいわゆる便利屋だ。

 身長168センチ、体重70キロ。細身で小さな体躯は50メートル5秒7の快足を誇り、守備の本職は内野手ながら時には外野、非常時には捕手まで務める。ベンチでは誰よりも声を出し、サヨナラヒットを放てば飛び蹴げりされたり、チームメートに華麗にスルーされたりと、あらゆる面でユーティリティープレーヤーと呼ばれる彼は、いまやチームには欠かすことのできない存在となっている。

「プロの世界で今も自分がやれていることが奇跡みたいなものです。いつも思うんですよ。プロ野球といえども、慣れれば誰でもヒットを打てるようになる。だって、僕がヒットを打てるんです。高校や社会人の僕を知っている人は、みんな驚くんじゃないですか。恩師も、僕ですら打てると思わなかった。そんな選手ですよ。僕は下手くそなんです。だから、万全の準備をするしかなかった」

 “できるわけがない”

 それが三輪のプロ野球人生の、そもそものはじまりだった。

大学・社会人からも声が掛からなかった男

 2007年11月19日。15年ぶりに逆指名制度が撤廃され、2005年からはじまった高校生と大学生/社会人の「分離ドラフト」が最後になったドラフト会議。この年は高校、大・社ともに「BIG3」が指名の目玉となり、すでに行われた高校生ドラフトでは中田翔が日本ハム、佐藤由規が東京ヤクルト、唐川侑己が千葉ロッテと、それぞれが交渉権を獲得。この日行われた大学生/社会人ドラフトでは大場翔太、長谷部康平、加藤幹典の3人で12球団の1巡目入札を占めた。大場は6球団から指名を受けソフトバンクに決定。同じく5球団の長谷部は楽天。残った加藤は東京ヤクルトスワローズが一本釣りするという幸運に恵まれた。

 それから、数時間後。このドラフト最後の指名となる34人目。東京ヤクルトスワローズの6巡目に名前を呼ばれたのが、四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズの三輪正義だった。

「指名を受けた瞬間は、ハッキリと覚えています。一応、会見のためにスーツを着て待っていたんですけど、指名される確約なんてありませんでしたからね。呼ばれなくて当然だと思っていましたし、僕が指名されるとしてもヤクルトの最後しかなかったんです。他球団がどんどん選択を終了していく中、ロッテが選択終了して、ヤクルトだけになった。ああ、呼ばれなかったなと諦めかけていたら、その時『第6巡』って声が聞こえてきて……。その瞬間は嬉しかったですよ、ええ。一応、1年間プロを目指してやってきましたからね。ただ、よろこんだ0・2秒後くらいには『ヤバい。俺プロ野球なんて絶対無理だって。どうしよう』となっていました。『よし、やってやろう!』なんて気持ちは1ミリも芽生えない。“できるわけがない”。それが最初の心境です」

 先日、とある有名プロ野球解説者に、ルーキーが活躍するための条件について話を聞く機会があったのだが、その解説者は、プロ野球界の真理を語るような口ぶりでこんなことを話していた。

「プロ野球に入ってくる人間はね、実力の優劣は関係なく、共通して自分の技術に絶対的な自信を持っている。プロとはそんな人間だけが通用する世界ですからね」

 いた。

 まるで自信を持たないままプロ野球の世界に入り、12年も現役を続けている選手が。

 三輪正義。ちょっと変わっているのはその独自の経歴だけじゃない。

「まさか三輪がプロに指名されるとは……」

「まさか三輪がプロに指名されるとは、まったく思いませんでした」

 三輪の母校である山口県下関中央工の恩師、山崎康浩監督(現南陽工監督)は、当時の三輪を振り返る。

「はじめて見たのは中学3年の秋ですね。足は今まで見たことがないぐらい速かったのですが……『小さいな』というのが第一印象。下関商や宇部商などの地元の名門校にも体が小さいから声が掛からず、うちに来たんですけど、守備をやらせてもグラブ捌さばきが上手く、足が速いので1年生から試合に起用していました。ただね……バッティングは非力で前に飛ばないんですよ。足の速さをプレーに生かすこともできず、時間をかけて少しずつ野球を覚えていった感じ。吸収力があり頭のいい子ではありましたが、とてもプロに入るような選手じゃない。大学、社会人の監督さんに見てもらうことすら厳しいと思っていましたからね……」

 下関中央工では守備と足を買われて1年生からショートのレギュラーとして活躍するも、甲子園出場はなし。2001年、高校最後の夏となる山口大会には決勝に進出はしているものの、その晴れの舞台で三輪はスタメンから外れている。

 それは準々決勝の南陽工戦だった。1点を争う緊迫した展開のなか、三輪が送りバントを試みると、バットとボールの間に左手人差し指が挟まれ、潰れた。

 病院に担ぎ込まれた三輪に医師がとんでもない|喩《たと》えを言う。

「力士がリンゴを握り潰したのと同じ状態」

 指はおどろくほど腫れあがり、グローブにも手は入らなくなってしまった。

「そのケガの影響で宇部商との決勝戦にも先発できなかったんです。敗色濃厚だった7回に守備から出場するんですが、指が上手く入らなくてエラーをしてしまって。そのまま3対9で敗退。そういう不完全燃焼で高校野球が終わってしまったことが、もしかしたら後悔としてあったのかもしれないですね」

「僕は硬式野球ができますか?」

 高校野球を引退した三輪は、卒業後も野球を続けたいと思っていた。だが、三輪の実力では野球で取ってくれる大学も社会人もない。

 三輪は“野球をするため”の就職活動に奔走する。社会人野球の名門企業の入社試験も最終面接まで順調に進み、入社に向けて好感触を得ていた。が、最後の最後にやらかしてしまう。

「最後に質問はありますか?」

「もしも採用して頂けたなら、僕が硬式野球部に入ることはできますか」

「それは、わからないですね」

「野球部に入れないのであれば、ここで落としてください」

 三輪のこの発言は会社内で大問題となったらしく、結局不採用となってしまった。

「本気で野球がやりたい」ゆえに、どこにも属することができなかった三輪は、その後、他校に異動していた山崎監督の伝手で、なんとか野球部がある地元企業の「山口産業」への就職が決まった。

「山口産業は地元のガソリンスタンドなんですけどね。面接に行くと今の会長さんが出て来て『仕事と野球、頑張れるか?』って言うので、『できます!』と答えたら、『おう、入れ』って。それだけで決まりました。ガソリンスタンド出身といえば、城石さん(憲之/日本ハムコーチ)も働いていた経歴があるみたいですが、城石さんはバイト。僕は正社員ですからね。一緒にしないでください(笑)」

ガソリンスタンド3カ所に勤務した社会人時代

 入社した山口産業は今日まで全国大会に5回出場した経験を持つ強豪である。しかし残念なことに、そこの野球部は軟式野球部だった。

「実は僕はじめての軟式だったんですよ。小学校はソフトボールで中学から硬式だったので、最初は戸惑いました。……なかなか点が入らないし、守備でもありえないイレギュラーがきますからね。難しかったですけど、ちょうど僕が入社する少し前から会社も野球部に力を入れ始めて、同期には甲子園に出た如水館のショートとライトがいたりと、メンバーも揃っていました。だから野球自体は面白かったですよ」

 練習は1週間のうち月、水、金の3日間。朝7時に早出をして15時半までが仕事。17~19時までが練習。土、日は試合にあてられた。

 三輪は宇部市内のガソリンスタンド3カ所に勤務した。業務内容はオイル交換、タイヤ交換、バッテリー交換など。愛想の良さで営業成績は全社員中2位。仕事も野球も充実した毎日を送るが、この時点でも三輪の将来設計に“プロ野球”という選択肢は、まったく出てこない。

「危険物取扱者の資格も持っていますし、『整備士の資格も取れ』と言われていたぐらいです。だから、アルバイトの城石さんとは一緒にしないでください。まぁ、それはさておき、僕、元々はものすごく人見知りだったんですよ。GSは毎日50人ほどお客さんが来るんです。毎回違う人と話をして、オイルを換えてもらうんですが、押し売りせず、上手に買ってもらうにはどうするか。考えました。そして、その人の表情や車の細部などをくまなく観察して“この人は何を考えているんだろう?”“時間はあるのか? どうすれば買ってくれる?”なんてことをしゃべりながら探り、あとは交渉ですね。『もうずいぶん走られていますし、オイル交換どうですか? あと冷却水もあまりよくないですね。これ通常なら2つで4500円ですけど、3000円でいいです。時間も30分で終わります』って。そういう人間観察なりしゃべりの経験はプロ野球選手になった今にも生きています。人生、無駄なことは何一つないなとつくづく感じますね」

 入社2年目の2003年に、山口産業は県代表として国体に出場。三輪は野球でも仕事でも大きな信頼を得て、会社からは将来の幹部候補として大きな期待も受けていた。

 しかし、三輪は入社3年目になって、急に会社を辞めてしまう。

「なんで辞めたんでしょうね。バカなんですかね。硬式野球への未練が捨てきれなかったのか、あるいはちょうど監督が辞めたというタイミングだったのか。うーん……いまだに考えても謎というか。確か、その時父親に『もう一度硬式をやらないのか?』と聞かれているんですが、『いや、いいよ』と断っていますし、理由なんて特にないんですよ。ただ、辞めるなら今だなと思って、0・1秒も迷うことはなかったことだけは覚えています。入社に尽力してくれた恩師には言えなかったですけどね……」

球界再編が三輪の野球人生に微かな影響を与える

 2004年8月。三輪は山崎監督にも相談することなく山口産業を退社した。そして、何故か硬式用野球用具を買い揃え、ウキウキで母校・下関中央工で練習を始めている。

 9月。隣県でプロテストがあることを知った三輪は、福岡ダイエーホークスの入団テストを受験する。遊び半分の気持ちだった。

「運よく最終試験まで残り、練習に参加させていただいたんですけど、合格できるとは少しも思いませんでした。その当時、僕はフリーターですし、時間だけはあるので自分の力がどんなものかを確認する意味で受けたようなものです。練習参加は3日間だったんですけど、最後の夜に当時のルーキーだった城所くんや明石くんなんかと合宿所のミラールームで話をしたのを覚えていますよ。その時に聞いたんです。『明日、ストだから練習も休みらしいですよ』って」

 時は折しも近鉄とオリックスの合併問題に揺れる球界再編騒動の真っ只ただ中である。その日の夜、宿泊先のテレビを点つけると、スポーツニュースに選手会の古田敦也会長が出演していた。涙を流しながらストの決行を謝罪する古田の姿を、三輪は遠い世界のことのように見つめていた。

 2004年。野球界は合併問題により大揺れに揺れていた。そして、そのことは一見まったく影響のなさそうな三輪の野球人生にも、微かな影響を与えることとなる。

 ホークスのテスト最終日となる9月18日。日本プロ野球選手会はストライキを決行した。予定されていた1軍戦6試合、2軍戦3試合がすべて中止になったほか、各チームの練習も一部取りやめとなる。そして、三輪が参加していた、福岡ダイエーホークスの入団テストも、中止されることになった。

「まぁ、万が一その日、練習があっても僕が合格することは絶対になかったですよ。それぐらい僕の実力とプロ野球の力の差は感じていました。やっぱりプロ野球なんて別格。雲の上の存在ですよ。練習をしている中でも、やっぱり打てないし、ああこれはダメダメって感じでしたから」

※その後、三輪はどのようしてプロの世界に入ったのだろうか。 #2につづく

「僕は野球が下手くそだったことがよかった」――“ドラフト最下位”三輪正義の生き方 #2 へ続く

(村瀬 秀信)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング