最近のベイスターズの選手たちが羨ましい……「大洋ホエールズOB」としての長崎慶一さんに会いに行く(前編)

文春オンライン / 2019年11月10日 11時0分

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現在はコンサルティング業を営む長崎さん ©鈴木七絵/文藝春秋

「最近の横浜スタジアムを見ていると選手たちが本当に羨ましいですよ。僕らの時代は夏を過ぎると閑古鳥が鳴いていましたから……。阪神に移籍して4万、5万の大観衆の中でプレーしましたが、いつも大勢のお客さんに見られていると自然と後押しされるんです。ベイスターズもずっと満員御礼が続いていますが、それは間違いなく選手の力になっているはずです」

 長崎慶一さんの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。あの1985年、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ阪神タイガースの21年ぶりリーグ優勝、初の日本一の立役者の一人で、引退後は『ズームイン!!朝!』の『プロ野球いれコミ情報』に阪神担当解説者として出演。のちに阪神の打撃コーチも務め、東京都荒川区の区議選に出馬した際は「元阪神」を前面に押し出した。世間的にはとにかく阪神のイメージの強い方だ。

 でも、大洋ファンにとっての長崎慶一(81~87年の登録名は啓二)は球団史上過去9人しかいない首位打者のタイトルを獲得し、2人目となる逆転満塁サヨナラホームランを放った偉大なプレーヤー。だから長崎さんが阪神OBとしてメディアなどに登場する度に、どこか複雑な思いを抱いていたオールドファンは多いはずだ。70周年を迎えた今こそ、「ホエールズOB」としての長崎慶一さんに話を聞いてみたい。長崎さんは、昔と変わらない柔和な笑顔で取材場所に現れた。

自分のバッティングを見失ったルーキーイヤー

 長崎さんは大阪の北陽高校から法政大学に進学し、4年時に東京六大学リーグで春秋連続首位打者を獲得。1972年のドラフト1位で大洋ホエールズに入団している。入ってまず驚いたのが、大洋キャンプの尋常じゃない練習量。なかでも60年代に陸上の短距離で鳴らした当時のトレーニングコーチ、田村武雄さんには徹底的にしごかれたという。

「毎日練習開始早々、競争で1時間走らされるんです。田村先生のおかげでプロでやっていく体力はつきましたね。でも、打つ方が全然ダメだった。同じく六大学リーグで首位打者になった、3学年上の谷沢健一さんが中日で1年目から活躍していたので、自分もそれなりにやれると思っていたんです。なのにプロの球の速さ、キレ、コントロールすべてについていけない。当時の大洋外野陣は江藤慎一さん、中塚政幸さん、江尻亮さんという布陣で、控えにベテランの長田幸雄さん、重松省三さんもいる。今のままではとても割って入れないと」

 ルーキーイヤーの73年の成績、45安打2本塁打、打率.222。六大学野球の首位打者としては不本意な数字である。長崎さんは1年目に活躍できなかった要因をもうひとつ挙げる。

「当時は1、2軍を行き来していたのですが、1軍打撃コーチの沖山光利さんはポイントを前に置いて打ってみろと言う。でも2軍に行くと別のコーチが球を懐に呼び込めと真逆の指導をされるんです。当然それも僕を思ってのことなのですが、昼に2軍の試合に出て1軍のナイターに合流するケースが多かったから、双方の指導に対応しているうちに頭が混乱してしまう。自分には沖山さんの言う打ち方が合っていたけど、上で結果が残せていないので2軍のコーチの言う事も聞かないといけない。苦しかったですよ」

 複数の指導者に従ううちに自分のバッティングを見失う。期待される打者ほど陥るパターンだ。そんな長崎さんを見かねた沖山コーチは、73年のオフに入ると長崎さんと、同じく伸び悩んでいた2年目の高木由一さんを呼び出した。

「沖山さんにお前はどっちの打ち方でやりたいんだ?と問われて、“球を前でさばく方です”と答えました。じゃあ徹底的にやろうと。それから毎日3人でひたすら練習しましたよ。来る日も来る日も、1日1000回はバットを振ったでしょうか。最後の方になると手が固まってしまいバットを離そうとしても手が開かないんです。あれは高木さんと一緒じゃなければ乗り越えられなかった。役所勤めからテスト生で入った高木さんもあの時は必死だったと思います」

 厳しい練習の中で、長崎さんはひとつの答えを見出す。元々バットを垂直気味に立てて構えていたのだが、グリップの位置を顔の高さから胸の高さに下げるようになったのだ。

「大学生の球ならバットを高く構えていても内角球を捌けたけど、プロの投手、特に右投手にキレのあるスライダーを内角に放られると手が出ない。でもグリップの位置を下げてみると内角の球にも対応できるし、自然と肩の力が抜けて変化球にもついていけるようになったんです」

2年目に才能を開花させた要因

 長崎さんにとってもうひとつ大きかったのが、入団早々沖山コーチの指令で毎日配球ノートをつけ始めたこと。

「日付、球場、天気、風向き、バッテリーを書き、9つのマス目にすべての配球と投手のクセを記していく。最初は言われるがままに書いていたところ、わずか1か月で相手の配球が読めるようになりました。この一件で沖山さんについていこうと思いましたね。沖山さんは押し付けではなく、選手のいい部分を引き出そうとする。ひとつの形に嵌めようとするコーチが多かった時代に、とても珍しい教え方をされていたんです」

 2年目の1974年、長崎さんは80安打13本塁打、打率.356をマークし、シーズン3本ものサヨナラ弾を放つなど一気に才能を開花させる。そして、この活躍にはもうひとつ大きな出会いが関係していた。その年に稀代の大打者、大下弘さんがコーチに就任したのだ。

「大下さんも細々と教えるのではなく、自分で打って見せていい所を真似しなさいと言うタイプの指導者です。大下さんは当時50歳を過ぎてましたが、構えからバットの出方など実に柔らかく力が抜けた理想的なフォームで、僕はそのイメージ通りに打席で振ろうとしていました。だから僕のフォームは基礎を沖山さんが作り、大下さんが進化させてくれたと思っています」

 長崎さんは外野の定位置を獲得し、横浜移転初年度の78年は打率.288、21本塁打、72打点をマークする。そして高木由一さんも打率.326、23本塁打、80打点。数年前に「沖山道場」でもがいていた2人は真新しいスタジアムで躍動し、松原誠、田代富雄らと強力打線を形成する。さらにスタメンには中塚政幸、翌79年に首位打者を獲得するF・ミヤーンもいた。なのに、大洋はなかなか優勝できない。

「普通の外野フライがホームランになるような川崎球場がずっと本拠地で、野球が雑になっていた部分はあるでしょうね。今思うと当時の大洋は縛りのない自由な野球をやっていたし、チーム内もみんな仲が良かった。でもその分、勝ちに対する貪欲さや、ここ一番でのつながりは希薄だった。38年も優勝できなかったのはそういうところだったと思います。あとはやはり監督が頻繁に交代するので、チームの方針がコロコロ変わってしまう。77年から別当薫さんが3年間指揮を執りましたが、横浜に移転して球場が広くなり、別当さんの持ち味である緻密な野球が機能した78、79年が僕の在籍中は唯一優勝を狙える雰囲気があった。他の年は“さあ今年はやるぞ”と開幕しても1~2か月で下位に沈んでいましたから」

 チームが早々に低迷すれば選手は自然と個人成績に走り、進塁打が求められる場面でもヒットやホームランを狙って打線がつながらない。それは大洋というチームの業のようなものだった。そんな中で長崎さんは、82年に打率.351をマークし首位打者を獲得するのである。

(後編に続く)

(黒田 創)

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