一人称は「ぼく」、キャッチコピーは「半分少年・半分少女」……野宮真貴が語る、売れなかったあの頃

文春オンライン / 2020年1月16日 11時0分

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©Wataru Sato

存在感のない少女が、転校先でファッション・リーダーに。それが、渋谷系の女王・「野宮真貴」のルーツだった から続く

 エイジレスでエレガンスなファッショニスタ野宮真貴さんが、2020年3月で還暦を迎える。「歌とおしゃれが大好き」な彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろう。内気な少女がロックに目覚め、「渋谷系の女王」と呼ばれるまでの半生を振り返ってもらった。『週刊文春WOMAN』創刊1周年記念号のインタビューに未収録トークを加え、3倍以上に拡大した完全版。(全3回の2回目/ #1 、 #3 も公開中)

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デビューを目指したハタチの頃

 高校を卒業すると専門学校に進学しました。時代は70年代後半。音楽シーンにはパンクやニューウェイヴ、テクノポップとよばれる音楽が登場し、シャウトができない私でも歌える音楽にやっと出会えたと感じました。

 中でも憧れたのは、日本のニューウェイヴバンド、プラスチックス。おしゃれでパンクなボーカルの佐藤チカさんが大好きで、「チカちゃんみたいに歌いたい!」と本格的なガールズバンドを組みました。私と妹と従姉妹と専門学校で知り合った女の子たちと5人で結成したテクノポップバンド「パズル」。デビューを目指し、オリジナル曲もたくさん作るようになりました。

 その頃の千葉では、糸井重里さんが言うところの「チャイバウェイヴ」(笑)が盛り上がっていました。「千葉のニューウェイヴ」という意味なんですが、サエキけんぞうさんや上野耕路さんのハルメンズ、久保田慎吾さんの8 1/2など、当時のアンダーグラウンドシーンの中心的存在だったバンドが千葉に集中してたんです。千葉が日本のニューウェイヴの震源地だったというか。

 で、私たちも、彼らとは練習スタジオが一緒だったので知り合いになって仲良くなって。音楽だけじゃなく、その周辺にはイラストレーターやグラフィックデザイナーなど、流行に敏感なカッコいい人たちがたくさんいたのもすごく刺激になったし、面白かった。

 そして、私たちパズルはヤマハが主催するバンドコンテスト「イーストウェスト」のレディース部門に出場して準優勝、テレビのコンテストでも優勝。レコード会社からも声がかかりました。でも、デモテープを作ったものの、デビューする話になかなかならなくて。

 そんなとき、ハルメンズの方が先にデビューすることが決まって、私はレコーディングでコーラスをやってほしいと言われてやったんですね。すると、ハルメンズのディレクターから電話がかかってきたんです。「君、ソロでデビューする気はないの?」って。私は「はい、やります」と即答しました(笑)。もちろん、パズルで、5人組のバンドとしてデビューしたかったんです。でも、なかなかうまくいかなかった。みんなを裏切るカタチにはなるけれど、なんとしてもデビューしたいという気持ちが強かったんです。

 当時は、専門学校も卒業してOLをやりながらの音楽活動でした。5時ちょうどにタイムカードを押して、スタジオへ行っては毎日リハをして。勤めていたのはコンピューターのプログラマーを派遣する会社で、神保町にある小さな会社でした。仕事は主に電話番。仕事をするふりをしながら、いつも歌詞を書いていましたね。

 でもあるとき、社内報を頼まれて1人で作ったことがあるんです。社員にインタビューしたり、イラストを描いたり、誌面を構成したり。「○○課の××さんが結婚しました」みたいな記事を書くわけです(笑)。それは結構、面白かったかも。1年ちょっとのOL経験。デビューが決まって円満退職しました。

シンガーとしてデビュー! したのはいいけれど……

 1981年、21歳のときにムーンライダースの鈴木慶一さんのプロデュースでデビューしました。デビューシングルの「女ともだち」は、曲は慶一さんで、詞は伊藤アキラさん。資生堂のシャワーコロンのCMタイアップがついて、すごく力を入れてもらいました。デビューアルバムの『ピンクの心』もムーンライダースが全面的にバックアップしてくれましたし、鈴木さえ子さんや松尾清憲さんも曲を書いてくれました。

 そして、後にピチカート・ファイヴがカバーして有名になった「ツイッギー・ツイッギー」はこのアルバムの収録曲。SPYの佐藤奈々子さんが作詞・作曲してくれたんです。奈々子さんは楽器をやらないので、脳内だけで曲を作るんです。それをプロデューサーの慶一さんに歌い、コードをつけてもらいながらカタチにする、その現場に私も立ち会ったんです。すごく面白かった。

 いいアルバムだったし、いまでも大好きなアルバムです。でも結果が残せなかった。単純に「売れなかった」ということなんです。結果、1年で契約が終わってしまいました。

 もともと、「ロック少女」じゃなく「ロック少年」になりたかった私は、当時、自分のことを「ぼく」と言ってたんですよね(笑)。そういうキャラクターとしてレコード会社も売り出そうとして、確かキャッチコピーは「半分少年・半分少女」だったかな(笑)。松田聖子さんが大ブレイクしてアイドル全盛の時代だったから、不思議キャラはわかりにくかったというのもあるのかもしれない。

 実は、「ぼく」は、パズルで一緒にやってたベースの子の影響なんです。彼女は本当に少年のような子で、出会った頃から自分のことを「ぼく」と言っていて、影響を受けたんですね。いまでこそアイドルで「ぼく」っていう子はわりといるし、「ぼく」という人称でみんな歌を歌ってる。AKBも欅坂もそうでしょ。私の「ぼく」は先取りし過ぎた「ぼく」だったのかも(笑)。

 デビューコンサートは青山のベルコモンズでやりました。当時としてはかなりおしゃれなアプローチ。そのときのサポートメンバーにギターの鈴木智文君とベースの中原信雄君がいて、1年で契約が終わってどうしようと相談したら、「じゃあ、一緒にバンドをやる?」って。それがバンド「ポータブル・ロック」の始まりでした。

 毎日3人で曲作りをしました。その頃、慶一さんの弟の鈴木博文さんが、羽田の実家に作ったスタジオで私たちのデモテープを録ってくれることになって、毎日のように羽田まで通いました。そして83年、慶一さんが「水族館レーベル」という音楽レーベルを立ち上げたので、そこからポータブル・ロックとして再びデビュー。その後、アルバムも2枚出すこともできました。

 ただ、当時はホントにお金がなくて(笑)。ソロデビュー後に千葉の家を出て、東京で1人暮らしを始めたんですが、事務所から月々出ていたお給料が10万円で、家賃は5万円。日々の生活がカツカツでした。羽田へ行っては、慶一さん&博文さんのお母さまによくご飯を作っていただきました。慶一さんは、そんな私たちに会えばいつもご飯をおごってくれましたし。鈴木家には本当にすごくお世話になりました。

 お金がなくていちばんつらかったのは、食べられないことより、お洋服が買えなかったこと(笑)。でも、ないならないで自分なりに考えるものなんですよね。母のおさがりや、救世軍バザーで買った服をリフォームしたり、ボタンをつけかえたり、後ろ前逆に着てみたり。いろんな工夫をしてなんとかおしゃれ心を満たしてました。DCブランドブームの世の中を横目で見ながらね(笑)。

CMソングの仕事で本領発揮

 そんな窮状を救ったのは、慶一さんからのCMソングのお仕事でした。新人なのでギャラも高くないし、いろいろ対応ができるCM向きの声だったのか仕事が入るようになって。バンド活動の傍らそれで暮らしてました(笑)。

 CMソングはトータルで100曲ぐらいはやってると思います。有名なものでいうと、プチダノンのシリーズ。「あったまばっかりでも かっらだばっかりでも だめよね♪」。あれは私の声なんです。実はデビュー前にもCMソングはやっていたことがあって、初のお仕事は、牛丼の吉野家のCMでした。四人囃子やプラスチックスのメンバーだったプロデューサーの佐久間正英さんからの依頼で、「チカちゃんみたいに歌って」と言われたので張り切りました(笑)。吉野家が大幅リニューアルをした後だったので、「リフレッシュ!吉野家」というフレーズだったことをよく覚えています。

 ただ、私は音楽の勉強をしていないので、楽譜が読めない。お仕事で呼ばれて譜面を渡されても初見で歌えないんです。なので、作曲家の方に、「1回だけピアノで弾いてもらえますか?」と頼んで弾いてもらって覚えて歌う。だから、覚えるのはすごく早い。というか、早くなった。鍛えられました。だって、必死ですから。仕事がなくなっちゃうから(笑)。

 あと、その頃のお仕事で面白かったのは、ジュリーこと沢田研二さんとのデュエット。当時沢田さんは、女性作家や女優さんなど、著名な女性たちが詞を書き、それに曲をつけるという企画をご自身のラジオ番組でやっていらっしゃったんです。で、私は、落合恵子さんが詞を書いた「ウィークエンド・サンバ」という曲をデュエットさせていただいて。とってもいい思い出になりました。

小西康陽さんは「君をスターにする」と言った

 売れない時代はそうやってCMの歌唱をやったり、様々なアーティストのバックボーカルをやったりしていましたが、その中のひとつにピチカート・ファイヴのコーラスのお仕事もありました。

 小西康陽さんと出会ったのは、89年の『女王陛下のピチカート・ファイヴ』のレコーディングのとき。ピチカートは、小西さん、高浪慶太郎さん、鴨宮諒さん、佐々木麻美子さんの4人で85年にデビューしたバンドで、佐々木さんが初代ボーカリスト。その後、2枚目のアルバムから田島貴男君がヴォーカリストになった。そして、3枚目の「女王陛下」では、ポータブル・ロックの鈴木君と中原君が、ギターとベースでレコーディングに参加するというので、私も見学に行ったんですね。そこで初めて小西さんとお会いするんですが、会うなり、「田島君と一緒に歌ってくれませんか?」って(笑)。「衛星中継」という曲をデュエットしました。

 実は、私たちがポータブル・ロックでデビューしたとき、慶一さんがMVを撮ってくれて、その上映会を兼ねたライブイベントを渋谷のパルコやったんです。それを小西さんがたまたま通りかかって観たらしいんです。ライブといっても、音響設備が整っていない会場なので、演奏はトラックを流して、私の歌だけ生、あとの楽器は当て振り、そういうライブ。まさに「ポータブル」な「ロック」だったんです。小西さんはそれに衝撃を受けたそうで、「こういうバンド形態もありかな」って。そこからピチカート・ファイヴというバンドの構想ができたと後に聞きました。

 ピチカートは、その翌年、90年に出たアルバム『月面軟着陸』でも何曲か参加しています。その年の全国ツアーでは、ライブのコーラスも担当しました。そうこうするうちに、田島君が自身のバンド、オリジナル・ラヴの活動に専念したいという話になり、小西さんから「これからはメインで歌ってほしい」と電話がかかってきたんです。「君をスターにする自信はあるから」って(笑)。

 振り返れば、私の人生って10年おきに変化が起きているんですね。30歳になったことだし、ここでまた新しいことにチャレンジするべきなんだろうなという思いもあって、ピチカートに加わることにしました。ポータブル・ロックのメンバーには「ちょっと行ってくるね」と言って。だからバンドは解散していない。いまもまだ続いているんです。お暇が長くなっちゃってますけれど(笑)。

 そして、私はピチカート・ファイヴの3代目ヴォーカリストになりました。

「渋谷系」ムーブメントの震源地となる

 私が加入したことで、小西さんは新しい曲やヴィジュアルを次々に生み出していきました。とにかく、男性ボーカルから女性ボーカルになったことだし、レコード会社も日本コロムビアに移籍したので、最新の音を追求するのはもちろんだけど、徹底的にヴィジュアルにもこだわろうと。アートディレクターの信藤三雄さんももう1人のメンバーのようになり、ファッション雑誌のように、新しいイメージをどんどん出していくことになりました。サントラやアルバムなどを5ヵ月連続でリリースしたりもしました。

 小西さんの頭の中には音もヴィジュアルもアイデアがたくさんあって、それが次々に出てくるんです。それを信藤さんに投げると、信藤さんがそれに答える、そのやりとりでピチカート・ファイヴの世界が作られていくんです。私は、それに対して意見をほとんど言わないことにしていました。彼らを信頼していましたから。

 でも、メンバーなので会議には出るんだけど、それがなかなか大変。小西さんと信藤さんにアイデアが「降りて」来るまで、ひたすら待つんです。その沈黙に耐えられる人だけがスタッフとして残るっていうか(笑)。

 小西さんとは好きな世界観が近かったし、話も通じる。センス的にはすごく似たものを持っているので、小西さんがやりたいことを、歌とヴィジュアルで表現するのが私の役割だと思っていました。映画で言うなら、「監督と女優」に関係に近いかもしれない。小西さんはピチカート・ファイヴの世界観を作る監督、私は女優=ヴォーカリストに徹していました。だから、私はどんな無理難題も「できない」と言ったことはないんです。でも一度だけ言ったかな? それは「シャネルスーツにスキンヘッドがカッコいいと思うんだけど」って言われて、さすがに「スキンヘッドはイヤです」と(笑)。

 やがてピチカートは「渋谷系」と言われる音楽の中心となっていったわけですが、それが面白かったのは、音楽だけじゃないところだったと思うんです。ヴィジュアルも含めた世界観。60年代の音楽はもちろん、映画やファッションも「ネタ元」があるわけですけど、そういうアートを伝えるカルチャー・ムーブメントが「渋谷系」だったんじゃないかなって。

 でもいま、ジャケットを見返してみると、奇をてらったファッションは意外とないんですよね。ヘアメイクやスタイリングと私のポーズや表情を絶妙なバランスで撮影するセンスが大切なんです。当時一番センスのあるスタッフが私たちの周りに集まっていたと思います。ライブはショーですから相当盛ってましたけどね(笑)。

野宮真貴

ピチカート・ファイヴ3代目ボーカリスト。ピチカート・ファイヴの名曲を収録した「THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001」が7inch BOXとCDアルバムで発売中。20年3月12、13日にライブ「野宮真貴、還暦に歌う。」を開催。彼女が敬愛する鈴木雅之と横山剣がゲストボーカリストとして登場する。

http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11864&shop=1

text:Izumi Karashima
photographs:Wataru Sato
hair&make-up:Noboru Tomizawa

92年、NYで日本語の歌が支持された……野宮真貴が語る、ピチカート・ファイヴが世界に羽ばたくまで へ続く

(「週刊文春WOMAN」編集部/週刊文春WOMAN)

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