「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁

文春オンライン / 2020年3月3日 11時0分

写真

©iStock.com

3月3日未明、黒々とそそり立った波が村落を襲った――死者911名を出した田老の津波 から続く

 明治29年、昭和8年、昭和35年、そして平成23年……青森・岩手・宮城の三県わたる三陸沿岸は大津波に襲われ、人々に被害をもたらしてきた。

 2011年の東日本大震災がおこる40年以上前に書かれた『 三陸海岸大津波 』は、過去3度の津波の前兆、被害、救援の様子を体験者の証言を元に再現した吉村昭氏のノンフィクション小説である。その中から「津波との戦い」を公開し、田老の歴史を振り返り “礎”  としたい。
※『三陸海岸大津波』は1970年に刊行された本で、記述は当時のものになります。

 ◆◆◆

津波の被害度は減少傾向だった

 津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。

 海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない。

 しかし、明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。

 死者数を比較してみても、

 明治29年の大津波……26360名

 昭和八年の大津波……2995名

 昭和35年のチリ地震津波……105名 と、激減している。

 流失家屋にしても、

 明治29年の大津波……9879戸

 昭和八年の大津波……4885戸

 昭和35年のチリ地震津波……1474戸 と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろんできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられてきたことも、その一因であることはたしかだろう。

「津波太郎(田老)」という名称

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられていたことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮していたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町にみられる。

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、潰滅的打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所と言われたほどだった。

 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。

全長1350メートル、高さ最大7.7メートルの防潮堤

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ10.65メートル)という類をみない大防潮堤を完成した。またその後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業として施行されている。

 この防潮堤の存在もあって、チリ津波の折には死者もなく家屋の被害もなかったのである。

海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみた

 私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみた。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。

 そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波来襲時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、防潮林、警報器などの設備も完備している。

寒さの厳しい深夜に行う、町をあげての津波避難訓練

 ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波来襲を記念して、毎年3月3日におこなわれている。それも、昭和8年の地震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡測候所記録)に津波襲来を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したものである。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。

 このような津波対策に積極的な田老町に、昭和43年5月16日、十勝沖地震による津波が襲来した。

 その地震は、北海道襟裳岬の南々東120キロ、北緯40.7度、東経143.6度の海底を震源地とし、マグニチュード7・9という大規模なものだった。関東大震災の7・9をわずかに下廻り、昭和39年6月の新潟地震をしのぐ強烈な地震であった。

 この地震は、三陸沿岸地方にも伝わり、その後津波の来襲を受けた。その折の田老町の住民は、訓練の成果を十分に発揮した。

 午前9時49分、地震発生と同時に全町に対して避難命令が発せられた。津波は地震後襲来する可能性が高いので、早くも住民の避難が開始されたのである。また命令系統を一本化するため、あらかじめ定められた通り災害対策本部が設置された。

 それから15分後、津波襲来の予想がたかまったので、本部は、津波警報を発令。それを告げるサイレンが、全町にひびきわたり、またスピーカーでその旨が放送された。

「海水が干きはじめたので、当所員も避難する」

 さらに20分後の午前10時25分、海面の観測に便利な見張所から、

「水が干けないで海面が上昇しはじめた」

 という第一報が入った。それは、津波の最初の前兆ともいえるものであった。これも赤沼山高台に立つ高い鉄塔の上に据えられた6個のスピーカーで全町に放送された。

 その頃警察から津波警報発令の連絡が入ったが、すでに田老町は万全の態勢をとっていたのだ。

 午前10時28分、見張所から、

「海水が干きはじめたので、当所員も避難する」

 という第二報が入った。

 いよいよ津波襲来は確実となり、対策本部は緊張して一層厳重な監視をつづけた。そのうちに、沖合で海水が盛り上った。

「津波、津波、津波」2分後、電話は不通に

 対策本部は、午前10時30分津波来襲と断定、全町内に対しサイレンを吹鳴するとともに、

「津波、津波、津波」

 と、スピーカーで連呼した。

 2分後、電話不通となる。

 津波は、2メートルの波高で海岸に押し寄せたが、防潮堤はかたくそれを阻止、対策本部は岩手県知事に対し、

「午前11時現在、人的被害なし、その他の被害は目下調査中」

 と、第一報をつたえた。

 そのうちに被害状況が各所から入り、午前11時50分、港内外で漁船が漂流、うち1隻が転覆したことが判明し、県知事にその旨を報告した。

 また津波の高さは、午前10時に2.25メートル、港外流失船大型船1、小型船5、港内流失船小型船4を確認した。

 その後、海面の状況を注意していたが、次第におだやかとなり、午後5時宮古測候所と協議の結果、津波は終ったと判断し、全町民に対し「津波警報解除」を放送した。

 このように田老町の津波対策は秩序正しいものだが、他の市町村でもこれに準じた同じような対策が立てられている。

自然が人間の想像をはるかに越えた姿をみせるとき

 しかし、自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。

 防潮堤を例にあげれば、田老町の壮大な防潮堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録した場所が多い。

 私は、田野畑村羅賀の高所に建つ中村丹蔵氏の家の庭先に立った折のことを忘れられない。海面は、はるか下方にあった。その家が明治二十九年の大津波の折に被害を受けたことを考えると、海水が50メートル近くもはい上ってきたことになる。

 そのような大津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことはまちがいない。

 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させることはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいない。

「三陸沿岸の人々は、津波に鋭敏な神経をもっている」

 十勝沖地震津波の1カ月ほど後、私は、三陸沿岸を旅した。

 或る夜明けに、かすかな地震があった。

 私はとび起きて、宿屋のガラス越しに海をながめ、海岸を見渡した。夜の漁をした漁船が浜にもどって来ていて、村人が漁獲物を整理している。その人々に、異様な動きはみられなかった。

 私は安心して再びふとんにもぐりこんだ。三陸沿岸の人々は、津波に鋭敏な神経をもっている。もし海に異常があれば、その人々は事前にそれを察知するにちがいない。

 明治29年の大津波以来、昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震津波等を経験した岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(87歳)の言葉は、私に印象深いものとして残っている。

すさまじい幾つかの津波を体験してきた人の言葉

 早野氏は、言った。

「津波は、時世が変ってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」

 この言葉は、すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のものだけに重みがある。

 私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集落、それらは、度重なる津波の激浪に堪えて毅然とした姿で海と対している。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてきた人々を見るのだ。

 私は、今年も三陸沿岸を歩いてみたいと思っている。

「吉村氏は徹頭徹尾『記録する』ことに徹している。(中略)圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまざまなことを考えさせ、想像させる喚起力である」(解説・高山文彦)

 

 

(吉村 昭)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング