米津玄師29歳に 嵐もパプリカも菅田将暉も 謎すぎるヒットメーカーの“素顔”とは?

文春オンライン / 2020年3月10日 11時0分

写真

米津玄師の作詞・作曲、プロデュースによる小中学生の音楽ユニットFoorinの「パプリカ」。昨年のレコード大賞を受賞

 昨年の大晦日のNHK紅白歌合戦で歌われた曲のうち、Foorinの「パプリカ」、菅田将暉の「まちがいさがし」、それから「NHK2020ソング」としてこの日初めて披露された嵐の「カイト」には共通点がある。それはいずれもシンガーソングライターの米津玄師が作詞・作曲した作品だということだ。米津は前年の紅白には歌手として出場し、大ヒット曲「Lemon」を歌っている。昨年も「馬と鹿」などのヒットがあったが、結局出場はしなかった。それでも「カイト」を初披露する企画コーナーでは、制作風景が紹介されるとともに、米津が嵐のメンバーと対話する模様がVTRで流された。こうして昨年の紅白は、前出のアーティストへの提供曲もあわせ、本人は歌わないにもかかわらず、現在の日本の音楽シーンにおける米津の存在感を強く示す結果となった。きょう3月10日は、その米津の29歳の誕生日である。

BUMP、スピッツ、アジカンとの出会い

 米津玄師は1991年、徳島県に生まれた。子供のころはマンガ家になりたかったという。松本大洋や五十嵐大介のような、白黒の線が濃密に重なった絵が好きで、自分でもシャープペンシルやボールペンで描くようになった。その画力は、現在もアルバムのアートワークなどで発揮されている。2016年には『かいじゅうずかん』という絵本も刊行した。

 音楽との出会いは小学5年のとき。自宅にインターネットが開通したのがきっかけだった。当時、フラッシュアニメが流行っていて、そこに乗せる音楽としてBUMP OF CHICKENなどの楽曲が使われていた。ここから、BUMPのほか、スピッツ、ASIAN KUNG-FU GENERATIONといった邦楽ロックにのめり込んでいく。《俺にとっての音楽って、最初から画面の中で流れてるものだったんです。パソコンの向こう、インターネットの向こう側からやってくるものだった》(※1)というのが、デジタルネイティブ世代ならではといえる。

中学の文化祭でオリジナル曲披露

 そのうちに聴くだけでなく、自分でも曲をつくりたい気持ちがどんどん強くなっていった。中学2年のときには友人たちとバンドを組む。文化祭ではオリジナル曲を披露した。演奏はひどかったが、曲はあとから振り返ってもよかったという(※2)。

 バンドはその後、メンバーが別々の高校に進んだこともあり、自然消滅する。そもそも米津は、単純に曲をつくるフォーマットとしてそれ以外の選択肢がなかったので、バンドを組んだだけで、ステージに立ってライブをしたいといった欲求はなかったという。替わって彼が出会ったのが、ニコニコ動画だった。自分が1人でつくったものでも、ここにアップすれば人に聴かせられると知ると、元バンド仲間の幼馴染(その後、米津のサポートメンバーも務めるギタリストの中島宏士)の協力も得ながら、どんどん曲をつくっては公開していく。

高校卒業後の“ボーカロイド時代”

 高校卒業後、大阪の美術系の専門学校に進学し、そこでもバンドを組んだがうまくいかなかった。インターネットの記事で知ってボーカロイドを始めたのは、このころだ。「ハチ」という名前で曲を初音ミクなどのボーカロイドに歌わせて、ニコニコ動画に投稿するようになる。のちに彼は次のようにこの時期を振り返っている。

《ボカロ時代に関しては、楽しかったなって記憶しか残ってないんです。今思うと、最初の頃の曲とかは、ボーカロイドっていうものを通しただけで、昔、自分で歌っていた頃とやってることはそんなに変わってないんですけど。でも、初音ミクっていうフィルターを通しただけですごくいろんな人に聴いてもらえるようになったし、その界隈に足を踏み入れたことによって、いろんな人やいろんなジャンルの音楽を知ることができた。ボーカロイドがなければ出会ってなかっただろうなっていう人と出会えたりもして、すごく刺激的な空間でしたね》(※3)

 当時のボーカロイド界隈はまだ混沌としており、多種多様な音楽性を持った人がたくさんいたという。そのなかでハチの作品は人気を集め、「マトリョシカ」「パンダヒーロー」といった曲は公開されると一気に100万回再生を超えた。

ツイッターだけが心の支えだった1年

 しかし始めて2~3年ほどしてボカロを一旦やめてしまう。それから1年くらいは、ほとんど外にも出ず、毎日パソコンの前でボーっとしているような時期を送ったという。自分が生きる価値を見出せず、唯一残った心の支えはツイッターだった。鍵をかけて誰にも見られない状態にしたアカウントに、自分が思っていることなどをずっと書く日々。それでも彼のことを好きでいてくれる人たちがおり、言葉を発すれば好意的な返事をくれた。《何度も何度も消そうと思ったんですけど、やっぱそれは消さずに残ってて、それに救われたこともありましたね》(※2)。

 そんな状況のなか、実名の米津玄師で、自ら歌い、個人で制作したアルバム『diorama』(2012年)をリリースする。同作はインディーズ盤ながらオリコンのランキングで6位に入った。これを機に『ROCKIN'ON JAPAN』が「10年に1度の才能」と彼を大々的にとりあげるなど、ロックメディアで一躍注目される。

「野望? ジブリみたいになりたいんですよね」

 長いトンネルから抜け出せたのは、翌2013年、メジャーデビュー作となったシングル「サンタマリア」をつくったのが契機だという。このとき、中学以来となるバンドでの共同作業に挑んだ。リリースに際し、これまでは他人と意思疎通する必要がなく、楽だから1人でつくってきたが、《この先、音楽と向き合う上で楽な方法を続けるのは健全じゃないし、卑屈な所に閉じこもらず前を向きたいと思った》と決意を表明している(※4)。

 彼のなかには自分が「普通ではない」という思いも強くあった。そのために学校では常に居心地の悪さを覚えていたが、学校に行かなくてよくなったら、普通ではない自分もそのまま受け入れられた。しかし気づけば、自分のまわりには誰もおらず、生きる意味がまったく見いだせない状況に陥ってしまった。だから《自分が普通になって、幸せに暮らすためには、“サンタマリア”を作って、普遍的な音で、普遍的な言葉で、何かを表現するっていうものしか残ってなかったんですね》という(※2)。このときだけでなく、米津は「普通になりたい」「普遍的なものをつくりたい」とことあるごとに口にしてきた。そこでよく例にあげたのが、宮崎駿監督の作品をはじめとするスタジオジブリのアニメ映画だ。インディーズデビューした時点のインタビューでも、将来への野望を訊かれ、次のように答えていた。

《野望? ジブリみたいになりたいんですよね。ジブリ作品って本当に間口がものすごく広くて、それこそ小学生とかでも楽しめる映画だと思うんですけど。それでいてすごい掘り下げていくことができると思ってて。そういうのが作りたいんですよね。入り口がものすごく広いんだけど、気が付いたら入った時には全然持ってなかったようなものをいろいろ持っていたみたいな。(中略)ものすごく難しいことだと思うんですけど。それがでも世界一美しいと僕は思うんですね。だからそういうふうなものを作りたいですね》(※5)

5億回再生「Lemon」の曲名が決まった瞬間

「Lemon」が大ヒットとなったのは、それから6年後の2018年のことである。テレビドラマ『アンナチュラル』の主題歌として依頼された同曲は、ドラマのテーマに合わせ、当初、「人の死を思う」という意味で「メメント」という仮タイトルにしていたという。

 だが、つくっているあいだに、それではすごく押しつけがましい気がしてきた。そのうちに《胸に残り離れない 苦いレモンの匂い》というフレーズが浮かび、なぜレモンなのかはわからないが、はまりがいいのでタイトルも「Lemon」に変えた。そこからどんどん歌詞を書いていき、歌録りの前日まで修正していたのだが、最後の行がなかなか出てこない。どうしようかと考えながら深夜まで作業していたところ、《切り分けた果実の片方の様に/今でもあなたはわたしの光》というフレーズが浮かんだ。《それが出た瞬間に、『ああ、そういう意味か』って納得がいったんですね。いろんなことをこの曲に教えてもらうというか、なるほどなあっていう。自分でも全然わかってなかったけど、でも『これは絶対“Lemon”だな』って、そこでようやく納得いった感じがありました》(※6)。

 曲をつくっている途中には祖父を亡くし、そのことも大きな影響をおよぼしたという。大切な人との別れを「苦いレモンの匂い」「切り分けた果実の片方」と、レモンになぞらえて表現したことは多くの人の共感を呼んだのだろう、ビルボードジャパンの年間ランキングで2018年、2019年と2年連続で1位を獲得するなどロングセラーとなった。YouTubeで公開された「Lemon」のミュージックビデオの再生回数はすでに5億回を超えている。

初めて「音源よりライブのほうが美しい」と思った瞬間

 米津はこの大ヒットを受け、《ボーカロイドから始まって、日本の邦楽ロックに行って、そこからJ-POPに直進していく道の中で『普通になりたい』っていうのがひとつ大きな指針としてあったんですけど、“Lemon”でいわゆる自分と真逆のところの人にまで届くようなものが作れたのは、自分の目標を1個達成できた瞬間だったんですよね》と感慨深げに語った(※7)。これと前後して、DAOKOとの「打上花火」、菅田将暉との「灰色と青」(いずれも2017年)など、ほかのアーティストとのコラボレーションや楽曲提供も盛んに行なうようになった。

「灰色と青」は、2017年の全国ツアーの追加公演となる翌年1月の日本武道館でのコンサートで、スペシャルゲストとして出演した菅田とともにデュエットされた。米津はこのときのことを、《ああやって一緒に歌う時間があって、初めて完成したような気持ちに自然となれたんで。もしかしたら、初めて自分が『音源よりライブのほうが美しい』と思った瞬間なのかも》と振り返っている(※8)。もともとライブが苦手だった米津だが、徐々に人前でも歌うようになり、アリーナクラスの会場でも堂々とパフォーマンスを見せるまでになった。

 テクノロジーの発達により、1人でもレベルの高い楽曲がつくれるようになった。米津はその方法を極めつつも、途中で省みて、他人との共同作業により作品をつくるスタイルに転じた。そのうえで普遍性を追求しながら、ポップアーティストとして大勢の人から支持を集めている。しかし一方では、オルタナティブな部分を残しているのも、彼の魅力だろう。音楽だけでなく、絵やダンスなど、ほかの表現でも才能を発揮する彼は、これから私たちにどんなものを聴かせ、観せてくれるのだろうか。

※高校卒業後の進路に一部誤りがありました。お詫びして訂正いたします。(3/10 17:10)

※1 『ダ・ヴィンチ』2017年12月号
※2 『ROCKIN'ON JAPAN』2015年11月号
※3 『CUT』2017年9月号
※4 『日経エンタテインメント』2013年7月号
※5 『ROCKIN'ON JAPAN』2012年7月号
※6 『ROCKIN'ON JAPAN』2018年4月号
※7 『CUT』2018年11月号
※8 『ROCKIN'ON JAPAN』2018年5月号

(近藤 正高)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング