《志村けん写真館》東村山の大親友が語るドリフのコントみたいな高校生活「ハンサムで学園のマドンナとも…」

文春オンライン / 2020年4月1日 15時35分

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3月29日に逝去した志村けん ©文藝春秋

「志村、若い頃は酒が飲めなかったんですよ。卒業後に2人で話し込んだとき、下積み時代に飲まなきゃやってられないようなことがあって、カウンターに座ってウイスキーをぐっと一杯やったら記憶が飛んで、気づいたら道路に横たわっていたんだと聞きました。仕事をしているうちに飲まなきゃいけなくなって、だんだんと飲むようになったんじゃないかな……」

 新型コロナウイルスによる肺炎で逝去した志村けん(享年70)。酒豪のイメージがある志村だが、高校の同級生で、大親友だったという今野純二さん(70)は懐かしそうにそう語った。

「志村けんの木」の下で悼む人々

 志村けんのふるさとである東村山市の東村山駅前には、1977年に彼の功績をたたえて植えられた「志村けんの木」と親しまれる3本のケヤキがある。訃報が伝えられた3月30日からはかたわらに献花台が設けられ、多くの人々が花を手向けていた。

 日本中から、そして地元からも愛された志村。東村山で取材を進めていくうちにわかったのは、同級生からも愛されたその素顔だった。

バスの窓からコショウを振りまいた志村

「志村は、初対面の誰とでも打ち解けられる、人懐っこいやつでした。あの頃は高校の近くも畑ばかりで、駅前に商店街があるだけ。コンビニもありませんから、放課後の小金井街道を、志村と2人、よく地元のパン屋に寄って買い食いをして帰りました。当時の僕らにはカツサンドなんて上等なものは買えなくて、せいぜいあんパン。でも、そのときも志村は、店のおばちゃんとすぐ仲良くなってオマケをもらうこともありました」(今野さん)

 今野さんと志村は都立久留米高等学校の同級生。2人が入学した当時は新設校で、校舎の建設が間に合わず、最初の1年をプレハブで過ごしたという。

「クーラーなんてない時代ですよ。僕らのクラスはプレハブの2階だったから、真夏のカンカン照りの日は暑くて暑くて……。『暑いなぁ、涼しくなる方法ないかなぁ……』と志村と2人で言い合って、バケツに水を張って机の下にいれ、足を突っ込んで授業を受けたこともありました。生き返ったような心地で涼んでいたら、そんなときに限って志村は先生に当てられるんですよ。とっさに立てずに苦労していました(笑)」

 志村と過ごした高校時代は、毎日がドリフの「学園コント」のような日々だったと振り返る。「志村はいたずらばかりしていたんですよ」と、当時を思い返して楽しそうに笑った。

「高校1年のとき、高原学校で妙高高原の山小屋にバスで向かうことになりました。昔のバスですから、夏でもエアコンもなく、窓をあけて走ります。出発前に、開いた窓から肉屋を見つけた志村が突然、『おい、コショウ買っていかない?』と言い始めたんですよ。そのままバスを飛び降りてコショウを買って、窓際に座った。何をするかと思えば、バスが走り出すと後ろに向かって隠し持ったコショウを振る。窓から入ってくる風に乗って、コショウが後ろの席に広がるんです。するとたくさんのくしゃみが聞こえてきてね。あのときは笑いかみ殺すのに苦労しました」

 高校時代から、誰にでも好かれる人懐っこさがあったという志村。当時のプレイボーイぶりを、今野さんはよく覚えているという。

「僕が知っているだけでも、マドンナみたいな綺麗な子と手をつないでいたかと思えば、下級生のかわいい子と一緒にいることもあった。この野郎と思いましたが、志村だとまたそれが憎めないんですよ」

「志村くんは凄くシャイな男の子でした」

 高校時代を過ごした別の同級生女性Aさんも、当時の志村の人気者ぶりを語った。

「志村くんが赤点とったことは聞いたことないですよ。結構秀才なんです。それでいて面白いから、みんなから人気がありました」

 一方で、女性の目には志村の違った一面も映っていたという。

「高校のとき、志村くんにはおっとりしたガールフレンドがいました。でも、隠れていろんな女の子とデートに行ってたんじゃないかな(笑)。実は私も1回だけデートしました。志村くんの家と私の家を西武池袋線で行ったり来たりして、結局私の家でおしゃべりした。でも何を喋ったか覚えてないくらい、すごくシャイな男の子でしたよ」

 モテ男ぶりは高校になってからだったと語るのは、中学校までの同級生Bさんだ。

「中学生の頃、廊下で志村に会うと決まって、『あの子いいよな』と気になる子の話を情報交換していました。好きな子が被らないように騙し合うこともありましたよ。

 体操部だった志村は、ハンサムだしスポーツ万能で勉強もできた。でも、モテていたかといわれると……。同じ中学の子に振られて、『お互い勉強頑張ろう』と語り合ったりもしましたから(笑)」

 志村がいかりや長介のもとに弟子入りを志願したのは高校3年生の2月のこと。その前後のことを、前出のAさんは次のように語った。

「卒業間近にドリフターズの付き人をすることになって、担任の先生に進路の相談を熱心にしていました。先生は『好きなことをやれ』ってタイプだったから、志村くんの背を押したんじゃないかな。だから卒業アルバムにも、実はあまり写ってないんです」

卒業式の帰り道、別れ際の一言

 今野さんは、卒業式の帰り道でのやりとりが忘れられないと回想する。

「3年間、彼と一緒に歩いた帰り道をこの日も2人で辿っていました。いつも駅への分かれ道で解散していたのですが、卒業式の日は別れ際に感慨深くなって、『頑張れよな』って声をかけたんです。そしたら彼は、『5年たったらな!』って返事をしたんですよ。それから5年後、本当にマックボンボンというコンビでテレビに出てきたときには、ビックリすると同時に『あいつやったんだな』と胸が熱くなりました」

 卒業後、活躍を続けて志村がスターへの階段を駆け上がっていくなかで、「志村くんには会いたいけど別の世界の人になっちゃった気がした」(Aさん)と、少しずつ疎遠になっていく同級生もいたという。今野さんも「最後に語り合った日はもう30年以上前です」という。今野氏は志村との“最後の夜”についてこう語った。

「卒業して数年後、少し落ち着いた頃から、『これからちょっと実家寄っていくから、お前もどうか』といった具合で志村がポツポツと電話をかけてくるようになりました。地方ロケなんかから帰るとき、電車やバスで遠回りすれば立ち寄れるんだと言っていました。

 彼と話した最後の日は、もう30年以上前。いつものように電話がかかってきて、今度は向こうは車だというから、道がわからないだろうなと道路で待っていたんです。すると向こうの方から、厳ついスモークが入った窓の、でっかいアメ車がやってきた。思わず、”そのスジの人”かと思って目を合わさないようにしていたら、窓が下がって『おい、おい!』と、聞き覚えのある声がする。目を向けると志村がいました。思わず『なんて車乗ってるんだ!』と笑ってしまいました。本人は、こういうガッチリした車じゃないと防犯上危ないんだ、と言っていましたけどね。運転手付きの車でしたが酒も飲まず、そのまま20時から深夜2時まで、話し込みました」

 高校時代の思い出話に花を咲かせる中、志村は芸能界の第一線で活躍する苦労も漏らしていた。

最後の夜に志村が漏らした弱音

「『しんどい』っていう話、愚痴が多かったですね。ボーヤ(付き人)のときには稼げなくて、ドリフターズのメンバーが食べ残したラーメンを集めてすすったんだとか、毎週必ずギャグを仕込まないといけないからそれが本当に大変なんだとか。そういえば、高校卒業後しばらくして、巡業帰りででっかいズタ袋を背負って、眉間にしわを寄せてヘトヘトになった志村とばったり街で会ったことがあるんです。当時は相当な苦労があったんだと思います。

 ちゃんと話し込んだのは、あの夜が最後でした。その後もテレビ番組のドッキリや、同級生を出す番組で関わることもありましたが、もうあのとおりの大御所ですから、二言三言、会話するだけでしたね」

 携帯電話もない時代。志村が気になってはいても、「最近どうだ」と手紙を書くのも気恥ずかしかったという今野さん。しかし「どうにか理由をつけてせめてもう一度でも会っていればよかった」と後悔を口にした。

「志村けんという人間は、高校のときから変わっていない」

「こうやって話しているとついつい、あの頃のことを思い出して、『せめてもうちょっといて欲しかった』と思ってしまいます。テレビの中でギャグを披露している志村を見ていても、僕にとっては志村はあの頃の、高校生のままなんです。

 彼は人を笑わせることが本当に好きで、だからこそ辛いことも乗り越えて有名になっていった。自分の好きなことで日本中に知ってもらうなんて、誰にでも出来ることではありません。年齢を重ねるとますますそれを感じるようになって、尊敬していました。ちょっと女癖は悪いかも知れないけど(笑)、でも、みんなに慕われる。それはずっと変わっていません。

 だからこそ、いま”向こう”で彼にあったら『もう、なにやってんだよ』って、昔みたいにいってやりたいですね……」

 延期になった東京オリンピック。本来は、志村けんが聖火ランナーとして東村山を走る予定だった。スタート地点候補として考えられていたのは、あの「志村けんの木」。取材したこの日、「志村けんの木」の隣にある献花台には、人の列が絶えることはなかった。

(「文春オンライン」編集部特集班/「文春オンライン」編集部特集班)

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