盆踊りの哲学――政治学者・栗原康インタビュー#2

文春オンライン / 2017年8月13日 17時0分

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©榎本麻美/文藝春秋

盆踊り大会でひと踊りしたあと、居酒屋で行った政治学者・栗原康さんのインタビュー。鎌倉時代の一遍が広めた「踊り念仏」は、頭をガクガク、体をグニャグニャにゆりうごかし、まちがった身体のつかいかたに徹していくことで、自由奔放に生きる身体感覚をつかむものでした。ビールがとまらない後編は、意外にも「長渕剛」論へ広がっていきます(#1より続く)。

◆◆◆

踊り念仏は、縦ノリのパンクロックに近い

―― 一遍の踊り念仏は、合唱団のような野外での念仏からはじまったのならば、音楽的な要素も強いですね。

栗原 音楽フェスっぽいんですよ。一遍がすごいと思うのが、江の島で最大120日間ぶっ通しで踊ったらしいんです。夜通し。その間に休んでいるひとはいると思うんですが、「貴賎あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集す」と『一遍聖絵』に記されています。数千人規模で集まったのではないでしょうか。もう踊りのお手本役なんてまったく見えないレベルだと思います。きっと最初は見よう見まねで、そして最後はもう好きなように、それぞれいろんな型で踊っていたんじゃないでしょうか。

―― 120日間、踊り続けるというのは人間の限界を超えちゃっています。

栗原 失神したり、踊りながら死んじゃうひとも出たらしいです。死してなお踊れですよね。夏の音楽フェスでも、みんなピョンピョン跳ねるじゃないですか。一番近いのがパンクロックかなと思っていて。あれは上下運動の縦ノリをずっと続けて、ハネてますよね。あの感覚がすごく近い気がします。

―― 栗原さんは、長渕剛さんの大ファンですよね。

栗原 はい。もちろん、長渕さんの曲はパンクロックではなくて、もうちょっとコブシが入るような感じですが、でも一遍に近いなって思うのは、毎回、マジで死ぬ気だというところ。オールナイトコンサートは、ほんとうにやばかったですね。もともと長渕さんって、一曲一曲、魂を叫びあげていくような感じで歌うんですけど、それが9時間。おととし、富士山(「10万人オールナイト・ライヴ2015 in 富士山麓」)があって、行ったんですけど、歌いながら死んでしまうんじゃないかと思いました。

―― アハハハハ。富士山の前には、桜島でもオールナイトコンサートがありました。

栗原 今から13年前、長渕さんは2004年8月に「桜島オールナイトコンサート」をやりました。僕はそれも行ったんですけど、これがまたすごかったですね。朝6時。観客はみんな全力をだしきってヘロヘロになっている。でも、長渕さんが「もう一曲やるぞ!」って(笑)。「チャ~チャラ~ラ~」って、「Captain of the Ship」が始まったんですけど、この曲がCDでも15分間あるんです。

―― とどめの一撃のように……。

栗原 朝日がのぼってカンカン照りになったところで、「いくぞー! いくぞー!」と叫びながら、すさまじい勢いで曲をやり始めたんです。およそ30分(笑)。「Captain of the Ship」はファンにとっては伝説の曲なので、約8万人の観客も死力を尽くして、拳をつきあげて頑張るんですけど、僕が後ろの方の席から見ていたら、「シャー! シャー!」と拳をあげながら、前の方がバタバタバタッて倒れていくんです。「あぁ昇天した……」と。

死してなお叫べ!

―― 成仏してしまっている。奇跡ですね。

栗原 そこには、踊り念仏と通じるものがある気がします。僕はなんとか耐えきって、「よーし、終わったぁ」と思って帰ろうとしたら、桜島はフェリーでしか帰れないので、フェリー乗り場にすごい行列ができていたんですよ。フェリーを待ちながら、さらにひとがバタバタと倒れていって。僕は友達と2人で参加したのですが、友達が一言、「こっ、これが難民状態か」って言って。その声を聞きながら、僕も倒れて気絶してしまいました。気がついたら岩場でおばちゃんに頭を氷で冷やされていた。

―― 栗原さんも倒れたんですか……。

栗原 岩場で起き上がったときは、蘇った感覚がありました。ものすっごく解放感に満ちていたんですよね。一度死んで、全く別の「生」が生まれた、みたいな。ナムアミダブツ、これがあの世から帰ってくるということなのかと。一遍の成仏のイメージって、それまで人間がとらわれてきた現世の価値観っていうんでしょうか、大人になれ、カネを稼げ、そのためには「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」っていうのから解き放たれて、スッカラカンになっていくっていうのがあるんです。ゼロになって、あたらしい生をいきなおす。再生です。長渕さんのライブにも、おなじようなものを感じるんですよね。死してなお叫べ、みたいな。

―― 長渕体験ってすごいんですね。

栗原 そうですね。完全に、生ける上人ですね。もちろん、長渕さんは「本当に死んじゃダメなんだ」って何度も言っていますけどね。

音楽や表現は、そもそも政治的行為なんだ

―― 昨年はフジロックに、安保法制反対の学生団体「SEALDs」の出演が決まったことで「音楽に政治を持ち込むな」論争がありました。栗原さんはどんな風にご覧になっていましたか?

栗原 上から、政治で「音楽はこうあるべきだ」としばるのは絶対だめだと思うんですね。昔でいうプロレタリア芸術みたいな。愚かな大衆を教化するためだとか、動員するためだとかいって、そのための道具として音楽をつかったら、そんなのもう芸術でもなんでもないですよね。だからそういうことじゃなくて、そもそも芸術それ自体が、音楽やその表現自体が、政治的な行為なんだっていうことだと思います。

 踊り念仏や長渕さんの歌もそうですよね。ふだん仕事でもプライベートでも、自分を有用にみせるために、他人によくみられるために、「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」と決められていたことを、ぶっ壊す原動力になるわけですから。だから政治と音楽を分化すること自体おかしいし、逆に政治が必要だというひとの中に、表現がないことは問題だとも思う。デモだって本来は表現ですからね。

―― 「こうあるべき論」として文化は語るべきではないと。

栗原 それじゃ、ひとを軍隊みたいに組織化するだけですからね。ラッパを鳴らして、ドラムをたたいて、規則正しく行進しましょうみたいな。音楽を道具的につかうのはおかしいと思う。民衆ひとりひとりが持っている表現の力をどうやって爆発させていくのか。それを考えるのが、ほんとうの意味で政治的なことなんじゃないでしょうか。

民衆の力をバンバン爆発させるストライキは芸術

―― 歌を歌うことも、本来はそれ自体が政治的になっても、なんらおかしくはない。

栗原 はい、自然なことだと思うんです。100年前のアナキスト、大杉栄は「民衆芸術論」ってのを提唱していました。芸術のよしあしを一握りのプロがきめてしまうんじゃなくて、きょうの盆踊りみたいに、誰でも参加できるようにしていく。ひとりひとりが好き勝手にうごきまくる、なんにもしばられずに表現していく、そういう民衆の力をバンバン爆発させていくのが芸術ってもんでしょう、と訴えたんですね。

 大杉栄は、労働者のストライキも民衆芸術だと言っています。会社の経営者はもちろんのこと、労働組合でも指導者が、おまえらこの闘いで勝つためにこうやって動けと言ってしまうと、民衆の表現の力を黙らせてしまう。会社と労働組合のトップが交渉するから、おまえらおとなしくしていろと。大杉は、それじゃダメだと言うんですね。ひとりひとりの自発的な表現の力を大事にしようと。正しい闘いかたなんてない。ほんとうにクソみたいなあつかいをうけたなら、がまんしなくていい。ケンカだ、やっちまえと。で、ほんとうにやる。とつぜん経営者に殴りかかるとか、会社の機械をぶち壊すとか、火をつけちゃったりとか(笑)。そういうことをすると会社からも労働組合からも、おまえは無用だ、使えないと言われるんでしょうけど、そんなの関係ない。なんにもしばられずに、ひとが自由奔放にうごきまわる、踊りはじめる。そういうのを身体で表現するんですね。ストライキは芸術です。

―― 栗原さんは、どうして長渕剛を好きになったんですか?

栗原 小・中学生のころは「とんぼ」や「親子ジグザグ」などのドラマに出てる俳優のイメージしかなかったんです。でも高校生のときに、ずっと尾崎豊が好きだったんですけど、友達から「尾崎好きなら絶対長渕も好きになる」と言われて聴き始めたんです。「反社会」だからって(笑)。その頃出てた長渕さんの『いつかの少年』というベストアルバムを貸してくれたんです。

―― 今年の夏は、長渕さんの武道館公演が行われます。

栗原 今年は富士山と同日の8月22日の1日だけです。武道館では、いくら延びても2、3時間の公演ですから、その点、体力的には安心ですね(笑)。

―― 栗原さんも、もちろん……。

栗原 行きます! 「シャー! シャー!」と拳をつきあげて、生ける上人からエネルギーをもらってきます。

くりはら・やすし/1979年、埼玉県生まれ。専門はアナキズム研究。現在、東北芸術工科大学非常勤講師。著書に、『大杉栄伝―永遠のアナキズム』、『はたらかないで、たらふく食べたい―「生の負債」からの解放宣言』『村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝』『死してなお踊れ 一遍上人伝』。趣味はビール、ドラマ観賞、詩吟。

(「文春オンライン」編集部)

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