しまおまほ、「家」を語る。「私を作った豪徳寺のアパート、変わらない世田谷の実家……」

文春オンライン / 2020年6月8日 17時0分

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しまおまほさん

「自分」をモチーフにした、初の本格長編恋愛小説『 スーベニア 』を上梓したばかりのしまおまほさんが、自己形成に影響を及ぼした家のこと、小説『死の棘』で知られる祖父・島尾敏雄とその妻ミホの死、家族の話……を語ります。

◆ ◆ ◆

 実家の景色はほとんど変わりません。テレビが薄型になったくらい(笑)。

 母が一人暮らししていた御茶ノ水のマンションに父が転がり込んで、その3カ月後に妊娠がわかり、入籍の4日後の1978年10月14日に私が生まれました。

〈両親は写真家で、父方の祖父は『死の棘』で知られる作家の島尾敏雄というしまおまほさんは、執筆活動のみならず、ラジオの世界でも活躍している。〉

私を作った場所、豪徳寺の「旧尾崎邸」

 私が生後2カ月のときに世田谷区豪徳寺のアパートの2階に引っ越して、8畳1間に親子3人で暮らすことになりました。政治家の尾崎行雄が住んでいた渋谷の洋館を移築した「旧尾崎邸」と呼ばれるアパートで、今まで住んできた家の中で一番印象深く、「私を作った場所」だと思います。

 高い天井はペンキが所々剥げていて、大きな窓にはカーテンの代わりに父がアメリカンスクールのバザーで買ってきた巨大な世界地図を掛けていました。テレビがなかったので、廊下の窓から隣家のテレビを双眼鏡で眺めていました。

 部屋にはガス台のみ。炊事場も洗面台もなかったので、水を使うときは1階にある共同の水場に行かないといけませんでした。もちろん風呂なしで、トイレも1階に共同のものがあるだけです。

 当時の父は、お酒を飲んでよく吐いていたんですが、1階のトイレに行くのが間に合わないから洗面器を抱えて吐くんです。用を足すのも私の「おまる」でしていました。

 私の服はバザーで買ったものか、お下がり、あとは祖父のステテコ(笑)。髪形は前髪ぱっつんの坊ちゃん刈りで、小学校に上がってもしばらくは父に散髪されていました。

 幼稚園は、室内に温水プールがある世田谷線上町駅の青葉学園。近くのモダンバレエ教室にも通い、小3まで続けました。

母の実家に転居。その年、祖父・島尾敏雄の訃報が届いた

〈85年、世田谷区立城山小学校に入学。翌年、母の実家を二世帯用に改装して引っ越すことに。〉

 母の実家は旧尾崎邸の近所だったので、もともとお風呂を借りによく通っていたんです。母の実家のほうが小学校に近かったこともあり、引っ越しました。両親は今もこの家で暮らしています。

 1階にはリビングと両親の寝室と台所とお風呂とトイレと、両親が写真の現像に使う暗室。中2階に小さな父の仕事部屋と私の部屋。2階には祖父母の部屋と台所とトイレ。そんな間取りでした。

 小2の夏休みに初めて1人で飛行機に乗り、父方の祖父母と父の妹である叔母のマヤが住む鹿児島へ行きました。その3カ月後の11月、両親が香港に旅行中で不在のときに祖父・島尾敏雄の死の知らせが届いたんです。再び1人で鹿児島に飛び、香港から駆けつけてきた両親と落ち合いました。

 両親が香港に行っていたのは、知人の香港人の結婚式に出席するためでした。小学生の頃、父が保証人になっていた関係で、香港からの留学生がよく家に来ていたんです。

 両親は旅行が多く、リビングの棚には海外で買ってきた思い出の品がたくさん並んでいます。玄関の表札は、私が小4のときに書いたものを今も使っています。「なんでも教えちゃう本」という雑誌を手書きで作って、学級文庫に置いていたのも小4だったかな。漫画を描いたり、クラスの子に「好きな給食は?」「一番面白い子は?」みたいなアンケートをとって掲載したり。

 テレビやラジオの番組も作って遊びました。「光GENJIのコンサート会場から中継です」と言ったあとに小豆でザーッザーッと音を立ててファンの歓声を表現するなど、結構凝っていたんです。

 当時、庭でアヒルも飼っていました。店の人に「成鳥になったら羽根が白くなる」と言われて茶色いヒナを買ってきたのに、成長してもそのまま。アヒルじゃなくてカモだったのかも(笑)。

 アヒルの世話は大変だったけど面白かったですね。八百屋さんからクズ野菜をもらってきて、包丁で細かく切って、糠と混ぜて餌にするんです。アヒル小屋の掃除も張り切ってやっていました。アヒルを見た香港の留学生たちは「食べないのに飼ってるの?」と不思議がっていました。

 家には小3のとき私が拾ってきたネコのミケもいたんですが、ネコよりアヒルのほうが強くて威張っていました。ミケは長寿で23歳まで生きたんですよ。ミケの死後、植木屋さんが保護ネコをくれて、父がケミと名付けました。ケミは今も元気です。

 ペットの名前をひっくり返して次の代に引き継ぐのは父方の祖母のミホからの伝統です。ミホはインコに「クマ」、犬に「マク」という名前をつけていました。

中学になると書きたいことが出てきて日記をつけるように

 中学の頃、母の弟である叔父さんの元奥さんが亡くなって、ヘコんだ叔父さんが家に居候していたこともありました。この叔父さんは、南原四郎というペンネームで「月光」「牧歌メロン」などのカルト系雑誌の編集長をしていました。叔父さんの雑誌で、私は「サブカル」を知りました。

 中学時代の夏休みは、イギリスの学生寮に留学していました。英会話はあまり上達しなかったけれど、外国人の男の子はみんなカッコいいし、着飾ってディスコに行ったりして、すごく楽しかったです。

 同居していた祖父が、階段の上り下りがつらくなり、私の中2階の部屋と2階の祖父の部屋を交換したのも中学時代でした。部屋が広くなり、中野ブロードウェイで『トレインスポッティング』や『パルプ・フィクション』のポスターを買ってきて、砂壁に貼って悦に入ってましたね。

 祖父は中2階の部屋で寝たきりになってしまい、私が高2のときに亡くなりました。おしゃれな祖父で、家でもループタイをして髪にポマードをつけているような人でした。

 人生初のデートは中2のとき。クラスの男子に紹介されて初対面の他校の男子と新宿武蔵野館へ『紅の豚』を見に行きました。でも早々に帰りたくなってしまい、「デートって、好きな者同士で行かないとつまらないんだ」と中2にして知りました。このデートのことを卒業文集に書いたんですが、「恥ずかしいことをあえて書く」という行為が思いの外、筆が乗って面白く書けたんです。それまで作文が苦手だったし、国語の成績も悪かったんですけどね。

 小学生のときから父に「日記をつけなさい。あとで絶対何かになるから」と言われていたんですが、全然書いていませんでした。でも、中学になると書きたいことが出てきて日記をつけるようになりました。大好きだった米米CLUBへの思いや、学校であった出来事を吐露する場所が欲しかったんです。今も日記は全部残してあります。

 中学の卒業式の1週間前に、父同伴で病院に行ってピアスの穴を開けました。ピアスが見つかった瞬間、体育の先生に「なんで卒業まで待てなかったんだ!」と怒られたんですが、側にいた英語の先生が「1週間前というのに意味があったんだよね」と言ってくれたんです。学校へのちょっとした反抗心で卒業前にピアスを開けたことを理解してもらえて、すごく嬉しかった。4年ほど前にこの話をエッセイにして新聞に書いたら、その英語の先生から連絡をいただき、ご飯をおごってもらいました。

〈94年、目黒区八雲の都立大附属高校に進学。〉

 私服という点が気に入ってこの高校を選んだのに、世間はコギャルブームで、ブレザーにミニスカートにルーズソックスという制服風ファッションで通う子が多かったんです。私は自転車通学だったし、服装なんてどうでもよくなってしまい、ジャージで通っていました。

一人暮らし(?)を試みるも何かと理由をつけて、実家に居付いた

 私は雑誌の「オリーブ」や「キューティ」、岡崎京子や朝倉世界一の漫画、渋谷系の音楽にハマっていましたが、ほかの子たちはサーファーの雑誌を読んで、プリクラを撮って、パラパラ踊って……という感じでした。そのうち自分とは違うタイプの女子高生に興味が湧いてきて、彼女たちの生態を観察してコギャルを主人公にした漫画『女子高生ゴリコ』をプリントの裏に描くようになりました。

 高2のとき、代ゼミの美術系の予備校に通い始めました。予備校には、サブカルの話が通じる友達が多くて高校よりも楽しくなりました。高校では話題にならなかった『ゴリコ』も予備校ではウケたんです。『ゴリコ』のコピーをいろんな出版社に送ってみたら、高3のとき、河出書房新社の雑誌「文藝」からインタビューの依頼がきました。新宿のパーラーで取材を受けたんですが、緊張ですごい汗をかいて、終わって立ったらソファにお尻の形に汗じみができていました。

〈97年、多摩美術大学の2部に合格。〉

「文藝」のインタビューを読んだコラムニストの中森明夫さんから連絡をいただき、大学1年のとき「SPA!」で紹介され、97年10月に『女子高生ゴリコ』の単行本が出ました。小泉今日子さんと永瀬正敏さんに帯文を書いていただきました。

『ゴリコ』が出てからは、本当にいろんな仕事をやりました。T.M.レボリューションやIZAMと対談したり、「女子高生果汁100%」という番組で司会をやったり、お笑い芸人とイベントに出たり、いくつものニュース番組にも出ました。両親は「業界人になっちゃって」という感じで引いて見ていましたね。

 本の発売から1年近く経ち、『ゴリコ』を描き続けることに不安を感じていた頃、憧れの雑誌「オリーブ」からお声が掛かり、98年7月号から「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」が始まりました。この連載のおかげで、小学生の頃に作っていた手書き雑誌の感覚を思い出して楽しく仕事ができるようになりました。

〈1年留年して2002年に卒業。04年、一人暮らし(?)をスタート。〉

 一人暮らしがしてみたくて、経堂の駅の上にあった古い1Kのアパートを勝手に決めてきて、父に保証人になってもらいました。このアパートには以前、植草甚一さんも住んでいたそうです。

 実家から近かったので、部屋の荷物を少しずつ移動させて引っ越しました。実家の服をダルマみたいに着込んでアパートに帰ったり(笑)。でも結局、「ご飯作るのが面倒臭い」とか理由をつけてほぼ実家にいました。

 家具はテレビとベッドだけで男の子も呼べないくらい荒んだ部屋でしたね。料金未納で水道は止められるし、家賃も度々滞納していました。

 結局、そのアパートの取り壊しが決まり、2年くらいで完全に実家に戻りました。

優しい言葉が沁みた、祖母との別れ

〈05年、実家で同居していた祖母が在宅療養の末、帰らぬ人に。〉

 20歳すぎても祖母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたし、本当に悲しかったです。でも、父方の祖母が「一緒にいた時間が長いぶん辛かったでしょう」と電話をくれたことが、すごく嬉しかった。祖母同士はほとんど会ったことがなかったし、父方の祖母は、プライドの高い人だったぶん、優しい言葉が余計に沁みました。

 当時父方の祖母は同居していた娘のマヤが2002年に52歳で亡くなっていたので、故郷の奄美大島で一人暮らしをしていました。

 2007年に「もう祖母も米寿だし、心配だから交代で様子を見に行くことにしよう」と父が提案し、3月末に私が奄美に行くことになりました。

 奄美に着いて祖母の家の呼び鈴を押しても、何度電話しても出てくれない。その日は宿に泊まって翌日警察に同行をお願いし、苦労してカギを壊して中に入ったら、祖母は亡くなっていたんです。

 葬儀や家の整理などで2週間ほど家族で島に滞在し、その後、私と母は先に東京に戻りました。父は「奄美の親戚にマクをあげてから東京に戻るね」と言っていたんですが、お骨とマクと一緒に東京に帰ってきました。マクはうちの犬になり、庭の犬小屋で元気に暮らして、2018年に亡くなりました。

〈15年4月、長男が誕生。〉

 生まれる少し前から、子供の父親と世田谷の弦巻にある古いマンションの1階を借りて、一緒に暮らし始めました。入籍はせず、“事実婚”状態でした。息子は無事に生まれたんですが、部屋のオーナーの事情で、1年も経たないうちに引っ越すことになりました。

 立ち退き料の交渉をしつつ慌てて部屋を探して、近所のマンションの6階に越しました。15畳ほどのリビングに畳の小上がりがあって、洋室2部屋にキッチン、トイレ、風呂。南向きで日当たりもよくて、住人で集まって夏祭りをやるようなアットホームなマンションでした。

 1年半くらいここで暮らしたんですが、別居することに。私と息子は実家近くのマンションに引っ越しました。昔友達が住んでいたマンションで、遊びに行ったときにいい部屋だなと思っていたんです。今もそこに住んでいますが、とても気に入っています。子供の父親は朝バイクで家に来て、息子を保育園まで送ってくれます。

 子供が生まれたとき、「育児エッセイを書きませんか?」というお話をいくつかいただきました。でも、自分の本来すべき仕事とはちょっと違うな、とお断りしました。今後の自分の在り方を考えて「やっぱり踏み込んだ創作をしたほうがいいのかな」とも思いました。それで「小説を書きたい」と伝えて、「文學界」で連載できることになりました。先日出た『スーベニア』は、その連載を加筆修正した、私にとって初めての長編小説です。

 小説のモチーフは「自分」です。子供を産んでも入籍できなかった「はっきりしない自分」を描きたかったし、うまくいかないこと、正解がなかなか出せないこと、人生のそんな部分を描きたいと思ったんです。

 息子も5歳になり、この何年かで気分も環境も変わりました。現在も豪徳寺にある「旧尾崎邸」は近々取り壊しの話が出ていると聞きました。両親はいつかまたあの部屋で暮らしたいと思っていたようなのですが……。でも実家の景色は、子供の頃からほとんど変わっていません。庭の梅の木が去年の大型台風で倒れたのと、テレビが薄型になったくらいです(笑)。

(取材・構成:臼井良子 写真:鈴木七絵/文藝春秋)

(しまお まほ/週刊文春 2020年6月4日号)

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