女医が“裏切り夫”を殺そうとした「チフス菌饅頭事件」が国民の同情をさらった、あまりに悲しい理由

文春オンライン / 2020年7月5日 17時0分

写真

事件当時の広瀬菊子(「婦人倶楽部」1939年12月号より)

大金を貢いだ“年下夫”に裏切られ……絶望の女医が1年で実行した恐ろしすぎる復讐劇「チフス菌饅頭事件」とは から続く

 約80年前の日本・兵庫県で起こった「チフス菌饅頭事件」。女医・広瀬菊子が「夫」に裏切られたことを理由に及んだ犯行に世論からは同情の声が集まった。1939年10月5日から3日間、神戸地裁で行われた一審公判にて、裁判官から菊子への尋問は女医としての経歴と被害男性との関わりへ――。< 大金を貢いだ年下夫に裏切られ……絶望の女医が1年で実行した恐ろしすぎる復讐劇「チフス菌饅頭事件」とは  より続く>

◆◆◆

一度は結婚を断った夫との慎ましい結婚生活

裁判長 佐藤と最初に知り合ったのはいつか?

菊子 昭和4年7月です。(神戸)市民病院に勤務当時、京大医学部学生として見学に来た時に知り合いになりました。その後文通を始め、それから1年後の昭和5年8月に再び佐藤が学生として見学に来まして、この時相当親しくなりました

裁判長 佐藤から結婚の申し込みのあったのはいつか?

菊子 昭和5年8月22日ですが、その際は断りました。それは相手が学生であり、1つ下であったからですが、なお性格の相違という点もありました

裁判長 佐藤の性格はどういうふうであったか?

菊子 一見したところ、おとなしい人と見えましたが、陰気な性質のように見受けられました。(結婚を)一度拒絶しましたが、佐藤から手紙がきて、佐藤の両親が結婚を承諾したことを通知してきました。で、9月中旬、佐藤が訪ねてきて、いろいろ身の上のことを初めて話し合いました

裁判長 結婚式はいつ挙げたか?

菊子 佐藤が京大医学部を卒業した年、昭和6年4月10日、神戸湊区千鳥町2丁目の佐藤が新しく借りた家で式を挙げました

裁判長 当時はどういう生活であったのか?

菊子 佐藤は千鳥町の家から学校の研究室へ通おうとせず、京都で下宿し、私は(神戸市平野)神田町で自炊という、寂しく短い新婚生活でした

学費だけで約867万円……自分の生活を削って“貢いだ”

裁判長 結婚後どれだけ学費を送っていたのか?

菊子 最初の1年間は毎月60円平均、後は70円平均になり、高知で開業している私の細腕では精いっぱいのところでした。4月10日に結婚し、5月10日には既に高知で開業という、あわただしさ。当時世間は不況で本当に苦しい生活でした

 昭和6(1931)年の60円は2017年の貨幣価値に換算すると約13万円、70円は同約15万円。かなり高額といえそうだ。

◆◆◆

裁判長 どんな苦労をしたか?

菊子 車の通らない山道をいくたび走り回ったことか。東西3里(約12キロ)南北4里(約16キロ)の山道を私は夢中で往診に回りました。いま当時のことを考えてみますと、よくもあんなことができたものかと夢のように思います。しかし、当時はあまりつらいとは思いませんでした。夜中でも自転車でいくたび山道を走ったことか。ある時は薬局の見習い小使いに給金を待ってもらい、50銭の小遣いも満足に使いませんでした

裁判長 佐藤が学位を得たのはいつか?

菊子 昭和11年5月、医学博士の学位を得ました。その通知が私の方へ届いたので、私は大喜びで京都へ駆けつけました

裁判長 佐藤へ貢いだ学費は全部でいくらぐらいになるか? 学費として3420円、衣類その他で565円、合計して5年間で3985円、約4000円に間違いはないか?

菊子 間違いありません

 同様に約4000円は約867万円。まさに自分の生活を削って“貢いだ”生活だった。

「学位を獲得してから徐々に彼の態度が冷たくなっていった」

裁判長 京都で佐藤はどういう態度をとったか? 同棲を拒んだのか? その時、300円を佐藤に手渡したそうだが

菊子 300円(2017年換算約60万円)は学位取得の印刷費、恩師への謝礼のため、佐藤が要求したので持って行きました。私は同棲を強要した覚えはなく、将来の方針を立ててくださいと頼みました

裁判長 その際、佐藤が訪問を喜ばない態度をとらなかったか? そちらの下駄を隠したり、佐藤宛に女性から手紙が来ていたことを知ったそうだが

菊子 他の女性と文通や交際をしていることは、その時までに知っていましたが、大して気に留めませんでした。しかし、独身を装い、私の下駄を隠したり、他の女と写真を撮ったりしている佐藤の姿を見ると、不愉快に思いました

「佐藤が学位を獲得してから徐々に彼の態度が冷たくなっていった経緯を述べ、菊子が雨の降る日、神戸の菊水旅館の付近で、佐藤から『貢いでくれた金は倍にして返すから』と思いがけぬ絶望的な言葉を聞かされ、『絶望のあまり、その場に泣き伏しました』と語り……」と記事にはある。その後、実兄が「せめて1日、3日でも5日でも家へ入れてくれ、悪いところがあれば私が引き取ります」と懇願して(この時、傍聴席からはすすり泣きが聞こえたという)、ようやく菊子は神戸市・垂水の佐藤家に入った。しかし……。

◆◆◆

散々貢がせた挙句に「自分は博士になりたくはなかった」

裁判長 同居してその後どんなふうだったか?

菊子 第一、私が荷物を解こうとしたところ、あなたはいつ帰らねばならなくなるかも分からないから解かない方がいいと言い、また幹男さんは私に、なるべく2階の方におるよう言いました。6月、7月と暑くなるのでしたが、カーテン、すだれで閉め切り、下駄が脱いであるとそれを隠し、洗濯物もまた洗濯屋に出さずに、女中にこっそり洗濯させるのでした

裁判長 邪魔者扱いされたというのだな?

菊子 ハイ

裁判長 その間、佐藤の生活は?

菊子 早く帰っても、女中と二人で三味線を弾いたり、父と3人で花カルタをし、私をはね者にしました。私はどんなことがあっても、女中の下敷きにされる理由がないと思います。しかも、別れ話にまで女中がくちばしを入れるようになりました

裁判長 幾日いたか?

菊子 2カ月いました。その間、幾度か出て行こうと思いましたが、じっと辛抱していました

裁判長 別れる時の佐藤の言葉はどうか?

菊子 自分は博士になりたくはなかった。地位や名誉は要らない。これは決してうれしいことではない、と佐藤は言いました

裁判長 佐藤との間に昭和6年6月に妊娠したことがあるか? 高熱が続くというので人工流産をし、生まれなかったというのだね?

菊子 ハイ。佐藤の了解の下に

 裁判長は予審での調べの内容を踏まえて聞いているが、菊子に同情的すぎるように思える。

 そして、2日目、10月6日午前の公判では、“離婚”の際のやりとりが取り上げられた。大毎10月7日付(6日発行)夕刊によれば、交渉では間に入った弁護士の強い助言で佐藤に1万円を要求。結局7000円(2017年換算約1190万円)を1938年中に3回分割で支払うことで決着した。ここで菊子は「離婚は解決しましたが、私を踏み台にして学位を得た幹男が、何ら恥じることなく、独身者として新しい妻を迎えようとしているので、幹男への愛は一転して憎しみを帯びるようになりました」と犯行につながる心情を述べている。それにしても“貢いでもらっていた”のがそれだけ短期間に大金を支払えるのはどういうことか……。そして、いよいよ裁判はチフス菌の入手方法に及ぶ――。

◆◆◆

「長く苦しめば、悔悟することもあろうと思った」

裁判長 昨年(1938年)4月中旬に木村細菌研究所から腸チフス菌とパラチブスA、B菌の培養基を入手しているね?

菊子 木村研究所を訪ね「どうしているか」と問われ、「吉村病院にいます」と答えた瞬間、細菌培養基がたくさん並んでいるのを見、佐藤がチブスにでもなって苦しめばよいが、と思っていた矢先ですから、細菌の誘惑といったものに魅せられ、チブス菌をもらってきました

裁判長 チブス菌を菓子に塗って送れば、幹男ばかりでなく、その家族もチブスにかかるだろうと思ったのだね?

菊子 そうです。病気にかかれば、物質的にも精神的にも、さらに肉体的にも苦しみ、そして長く苦しめば、悔悟することもあろうと思った

◆◆◆

証人として出廷した佐藤は「いまもなお感謝している」と言い放った

 その後の尋問と供述が10月7日付大毎朝刊に載っているが、その中で菊子は、佐藤がチフスにかかったと聞いた時の心境を「言葉で言い表すことができぬ複雑な感に打たれた。報復の快感は少しも起きなかった」と、事件発覚直後に同紙が書いた供述内容と逆の感想を述べている。

 また、この日の午後は佐藤幹男が証人として出廷するので、「数名の名士、その他多数で公判廷はギッシリの大入り」(醫海時報10月28日号)。「『チブスのため5貫(約19キロ)もやせたが、やっと回復して、いまは18貫500匁(約69キロ)くらいでしょう』と巨躯を揺すぶって現れると『佐藤だ佐藤だ』と、女たちの視線が後を追う」(大毎10月7日付朝刊)。「いまではすっかり健康を取り戻し、つやつやした血色のよい顔、きれいに剃り上げた口ひげ、茶色の三つ揃えにがっちり肥えた体を包んだ姿、どうしても煩悶に悩む当の佐藤博士とは受け取れない」「裁判長の尋問に入るや、後方の席にはほとんど聴き取れぬくらいの小声で早口に答え始める博士、額に汗がにじむのを抑えるようにして『問』へ一心にこたえていく。廷内の空気は極度に緊張していた」と醫海時報は書いている。

 大毎によれば、菊子を退廷させて行われた裁判長とのやりとりは次のようだった。

裁判長 (昭和)5年8月下旬、菊子に結婚を申し込んだ際、経済上の援助を申し出たことはないか?

佐藤 苦境を訴えたら、菊子の方から自分が働いて学資を送ると申し出たのだ

裁判長 女の厄介になって勉強するより、男らしく女の援助を断って一本立ちになり、勉強すべきではなかったか?

佐藤 それまで考えなかった。夫婦愛の現れだと思う

裁判長 菊子の並々ならぬ苦労をどう思うか

佐藤 いまもなお感謝している

裁判長 学位を得たころから菊子を避けているが、どうか

佐藤 何とも申し訳ありませんが、学位を得る以前から多少嫌気がさしていた

裁判長 どこが気に入らないのか?

佐藤 行儀が悪く、親たちを侮辱した

◆◆◆

 滝川幸辰弁護人から「あなたから菊子宛ての手紙に、一度も主婦としての修養をしてくれとのことがなく、いつも金のことばかり言っているが、どうしたことか」と問われると、「どうも、そう言われると困ります」と答えた。その後、菊子が再び被告席に呼び出され、元「夫」と対面。質問を求められたが、「菊子は初めて身を震わせて『いまさら聞くことはありません』の一言に全てを諦めた心境を吐露し……」と大毎の記事は書いている。

 10月7日の3日目は菊子の実兄・尊興や菊子の勤務先である吉村病院の病院長夫人ら多数の証人が証言。最後に菊子が「金を送ったことを恩に着せたことはないばかりか、私の口から幹男に送金していることを誰にも言いませんでした」と述べた(10月8日付大毎)。

「法律的には本件は被告が加害者であるが、実質的には被告が被害者である」

 10月14日、検察側は無期懲役を求刑した。担当の坂井丈七郎検事は、佐藤幹男を「身勝手であり利己主義」などと決めつけて菊子に同情的な論告を展開したが、「“苦闘に同情すれど他戒を忘れえず”」(10月15日付大毎夕刊見出し)として求刑は無期に。「ことの意外に傍聴席はどっとざわめいた」(同紙)。

 滝川幸辰弁護人が戦後出版した回顧録「激流」によれば、坂井検事は彼の京都大教授時代の教え子だった。事件後だいぶたってから、滝川は坂井検事にこう言ったという。「君の論告はひどく被告人に同情していたので、これでは弁護人が弁護する必要なし――と思っていたところ、求刑の場になって、被告人には無期懲役が相当であるときたから、私はびっくりした」。10月15日付大毎朝刊は「各方面の冷静な感想」を集めている。「検事さん無情」(代議士夫人)、「(佐藤博士の)博士号を褫奪(ちだつ=剥奪)せよ」(女医)といった同情論のほか、弁護士が「及ぼす社会的影響の深刻なだけ、個人的同情は別として、社会的立場から厳正な批判を加えられなければならない」と主張した。

 大毎の別面では、求刑後に行われた滝川弁護人の弁論内容が詳しく報じられている。弁論は約3時間にわたり、その中では「被告は医師なるがゆえにチブス菌を摂取すれば罹病をすることも知り、その死亡率も知っているが、一方、医師なるがゆえにチブスで死ぬ人が少ないことも知っているはずだ。すなわち20%の死亡率にすぎない。チブス菌をもってして殺意がありと判断することはあまりに飛躍だ」などと主張。「未必の故意による殺人ではなく傷害致死だ」と述べた。さらに「法律的には本件は被告が加害者であるが、実質的には被告が被害者である」と情状酌量を訴え「佐藤と被告の事情をご賢察のうえ、執行猶予の恩典にあずかりたい」とした。

「菊子に三年の判決 傷害致死と傷害未遂を適用 傍聴席から拍手の嵐」。新聞統合で兵庫県唯一の地元紙となった神戸新聞1939年11月5日付(6月4日発行)夕刊はこう報じた。同日付大毎夕刊は「雨中にもめげず、傍聴者の列は長々と続き、開扉10分にして大法廷は立錐の余地なく『押すな』『苦しい』『つぶれる』とひしめき合い……」と記述。神戸新聞も「裁判所開庁以来の大盛況を呈した」と書いた。

 判決は被告・弁護側の主張通りの「寛刑」だった。「(青木裁判長が)『分かったか』と念を押せば、満廷は破れるばかりの大喝采。婦人連はいずれも情の判決にハンカチを目に当て、うれし泣きの感激シーンを演出」と神戸新聞の記事。手を額に当て「ほっと一息の広瀬菊子」の説明が付いた写真も載っている。滝川弁護人は「誠に申し分のない判決」と最大限の評価。しかし、そのまますんなりとはいかなかった。

 検察側は即日控訴。年が明けた1940年3月4日、大阪控訴院での控訴審判決は「死の転機を生ずるかもしれぬことを予見しながら」と未必の故意を認定し、殺人と殺人未遂を適用して懲役8年の刑を言い渡した。そして同年6月27日の上告審で大審院は控訴審判断を支持して上告を棄却。刑が確定した。

「戦争の時代」は菊子の罪を許さなかった

 一審では、たぶん裁判長(京都大で滝川弁護人の1期下だった)の個性もあって予想外の寛刑となったが、流れは決まっていた。無期求刑の反響を取り上げた大毎の記事で、経済学者の河田嗣郎・大阪商大(現大阪市大)学長は「自分さえ目的を果たせばそれでよいというような彼女のものの考え方は、今日の時代にどうかと思います」と述べた。一審判決時の神戸新聞の記事でも、生島廣治郎・神戸商大教授(経済学)が「国民精神総動員の建前からいって、3年の判決は軽きにすぎると思う」と語っている。

 国民精神総動員とは、1937年に発足した第1次近衛内閣が、同年の日中全面戦争開始後、「挙国一致、尽忠報国、堅忍不抜を3目標として始めた戦争協力の教化運動」(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。日中戦争が泥沼化する中で、事件の年の1939年2月には、平沼内閣が国民精神総動員の強化方策を決定している。「戦場の後方」の意味で戦時の一般国民社会を示す「銃後」という言葉が広がっていた。そうした銃後では家族は仲良く、妻は夫を支えなくてはならない。まかり間違っても、夫の殺害を図る妻など存在してはならなかった。一審を担当した坂井検事は滝川弁護人に「(菊子に同情的な)論告と(無期懲役の)求刑が食い違っていたことは私にも分かっています。それには訳があるのです」と答えたという。心情的には理解できても、戦争の時代がそれを許さない状況にさせていたということだろう。

「兵庫県警察史 昭和編」は、菊子について「昭和18(1943)年に仮釈放となり、大陸へ渡って終戦を迎えているが、その後の消息については省略する」と書いている。判決の刑期よりかなり短いが、「婦人倶楽部」1949年4月号に掲載された「恋愛―離婚―毒殺―服罪 チフス菌事件の主人公 女医広瀬菊子さん新生の記」という記事によると、京都府宮津の女囚刑務所で服役。模範囚で約2年8カ月後、1943年4月29日の天皇誕生日に帰宅を許されたという。恩赦でもあったのだろうか。チフス菌饅頭事件を取り上げた澤地久枝「チフス饅頭を贈った女医」(「昭和史のおんな」所収)によれば、「外地へ行くこと」が仮釈放の条件だったという。

 その後、中国大陸に渡ったことは間違いないが、具体的な事実関係は、婦人倶楽部の記事と「チフス饅頭を贈った女医」で異なっている。日本製鉄(当時)が出資した竜烟鉄山の付属病院に勤務。医師業務もしたというが、その場所を婦人倶楽部は「蒙彊の宣化」とし、「チフス饅頭を贈った女医」は張家口(河北省)としている。現地で偶然、路上で佐藤幹男と遭遇したとされるが、その場所も「チフス饅頭を贈った女医」は張家口、婦人倶楽部では引き揚げる途中の天津で、となっている。

「何か悩める女性のために力になりたい」高知市議会議員に

 敗戦で1946年、郷里の高知・戸波村に引き揚げた菊子は予想外の行動で再び世間の注目を集める。1947年4月30日施行の高知市議会議員選挙に立候補したのだ。「定員36名に対して立候補者127名」で「婦人議員として広瀬菊子が最高点で当選したことが注目された」(「高知市議会史・中巻」)。党派は「中立」で、職業は「無職」だったが、2位の倍以上の2868票を獲得。婦人倶楽部の記事によれば、国内では医師免許が剥奪されていたが、「何か悩める女性のために力になりたい」と考えていたところ、地元紙に取り上げられ、離婚や財産問題などで相談を持ち込まれるようになった。そして、周囲から推されて市議選に出馬することになったという。チフス菌饅頭事件で集めた同情と共感がまだ地元では生きていたのだろう。

 また、市議と兼ねて高知軍政部保健衛生課に勤務している、と記事にある。当時日本を占領していた連合国軍総司令部の地方機関で、高知県内を巡回して生活保護受給世帯の実態調査をしていたという。市議は1期のみだったが、その後、医師免許が回復。勤務医として活躍したようだ。「チフス饅頭を贈った女医」には1979年の時点で「満78歳となった現在、週に3日、直接診療には携わらないが、病院へ出向き、あとの日々は、自宅横の小さな畑の草取りなどをして静かな余生を送っている」と書かれている。

【参考文献】
▽「兵庫県警察史 昭和編」 兵庫県警察本部 1975年
▽滝川幸辰「激流 昭和レジスタンスの断面」 河出書房新社 1963年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽澤地久枝「チフス饅頭を贈った女医」=「昭和史のおんな」(文藝春秋1980年)所収=
▽「高知市議会史・中巻」 高知市議会 1970年

(小池 新)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング