『白い巨塔』の変遷にみる 日本の希薄化【後編】

文春オンライン / 2017年8月30日 7時0分

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(前編よりつづく)

狂気の田宮二郎

『白い巨塔』は映画化の後も繰り返しテレビドラマ化されている。なんといっても圧巻は1978年の田宮二郎主演のバージョンである。DVD化されてすぐに大喜びで一気に観た。全31回の連続テレビドラマである。立て続けに観るとさすがに長く、映画のような緊張感はない。しかし、その分小説に忠実な筋運びが映像で楽しめる。

 ドラマ版もキャスティングが冴えている。オリジナルキャストの田宮二郎、小沢栄太郎、加藤嘉は言うに及ばず、里見役の山本學、又一役の曾我廼家明蝶らの堂に入った演技は素晴らしい。里見助教授は山本學がベストである。とりわけ異彩を放つのが、花森ケイ子を演じる太地喜和子だ。映画版の小川真由美も今の水準でいえばとんでもないアクの強さだが、太地はそれこそ全身女優、小川が原爆級とすれば、水爆というかICBM級の威力があった。

 映画のときは31歳だった田宮もこのときは43歳。原作の財前の年齢設定は42歳だから、映画以上のはまり役ぶりである。とくに終盤の死に向かって転げ落ちていく演技には鬼気迫るものがある。死のシーンに際して、田宮は3日間絶食して癌患者になりきり、財前の遺書も自ら手書きでしたため撮影に臨んだという。で、撮影の翌月に田宮二郎は猟銃自殺してしまう。田宮が財前なのか、財前が田宮なのか、映画の中と現実世界が混沌としてきて、いよいよ虚実が分からない。

 その後、1990年には村上弘明主演でドラマ化されている。これを覚えている人はそう多くないかもしれないが、2003年の唐沢寿明のバージョンなら記憶に残っているだろう。これは大ヒットしたらしい。らしい、というのは、僕はテレビを観ないので、つい先日まで存在を知らなかったからだ。調べてみると、最終回の視聴率は田宮主演の78年版を凌駕しており、連続ドラマの歴史に名を残す名作ということになっている。

薄味のリメイク版

 話を時代に合わせるためにディテールをいじってはいるものの、ストーリーは基本的に原作小説や映画版と同じである。話は安心の面白さなので最後まで観るには観たが、どうにも納得がいかないのはキャスティングである。とにかく出てくる人のキャラクターと演技があっさりと薄口になっている。

 新旧を対比するとこうなる(旧は66年の映画版。左側が旧作のキャスト)。

財前五郎:田宮二郎→唐沢寿明
里見脩二:田村高廣→江口洋介
東教授:東野英治郎→石坂浩二
鵜飼医学部長:小沢栄太郎→伊武雅刀
船尾教授:滝沢修→中原丈雄
東佐枝子:藤村志保→矢田亜希子
大河内教授:加藤嘉→品川徹
財前又一:石山健二郎→西田敏行
花森ケイ子:小川真由美→黒木瞳

 東教授以下の助演陣をみると、面白いことにほぼ同じ割合で濃度が低減している。上の表の左右の濃度比は、どの登場人物でもだいたい2:1。つまり、東野英治郎の演技濃度は石坂浩二の倍であり、伊武雅刀の演じる鵜飼医学部長は小沢栄太郎の半分ぐらいに希釈されている。

 この濃度比は、滝沢修と中原丈雄、藤村志保と矢田亜希子(この人の演技は清楚で真面目なお嬢さまの感じがよく出ていて、里見への秘められた愛情を小出しにするところなどはわりと上手い。ところが、実生活では里見どころか、財前よりもずっとワルい男に引っかかってしまい苦労したそうで、気の毒なことだ)、加藤嘉と品川徹、石山健二郎と西田敏行、小川真由美と黒木瞳、それぞれの間でも成り立つことに注目されたい。

 黒木瞳の花森ケイ子も適役といえば適役なのだが、前任者の小川真由美のインパクト(序盤の「ハー、ゴロスケちゃんやないのー」の台詞回しと表情一発でもう降参)と比べてしまうといかにも食い足りない。

 さすがに西田敏行は現代日本の基準では相当に高濃度の演技を披露してくれている。又一がカネを利害関係者に配るところなど独自の工夫が凝らされていて嬉しくなる。が、いかんせん前任は石山健二郎というバケモノ。石山が濃すぎるだけなのだが、旧作と比較するともの足りなさが残る。

 例外は主役の2人である。まず財前五郎の超絶希薄化。田宮二郎と比較したときの唐沢寿明の薄さ・軽さは半減では済まない。田宮濃度を10としたらせいぜい1.4ぐらいしかない。旧作であれば、せいぜい財前の部下の佃医局長か安西助手ぐらいしか務まらない濃度である。あっさりすっきりの薄口財前には最後まで入れ込めなかった。

 これに輪をかけてよろしくないのは、江口洋介の里見助教授だ。旧作と比べてこの役だけが濃度が上がっているのである。田村高廣の訥々とした重厚さは江口にはない。その意味で江口の方が軽いのだが、濃度の点では明らかに田村の倍は濃くなっている。濃厚ギラギラ豚骨スープのような財前と淡麗辛口の里見のコントラストがストーリーの生命線であるにもかかわらず、財前が濃度を大幅に下げ、逆に里見が濃度を上げる。二重に味が落ちる。もったいないというか、改めて旧作の凄さを再確認した次第である。

昭和日本の濃度低減

 ただし、である。一歩引いてみれば、旧作への思い入れが異様に強い僕が勝手に物足りながっているだけというのが実際のところだろう。視聴率30%超の大ヒットという結果から判断して、これはこれで2003年の視聴者のニーズを真芯でとらえた優れたキャスティングだったといわざるを得ない。

 21世紀日本の基準でいえば、唐沢財前も十分に濃くエグいわけで、西田又一もまた平成の世からすれば石山レベルのとんでもなく濃いおっさんに見えるのだろう。ようするに、映画化当時から40年ほどを経て、日本人のテイストがどんどん薄味になったということである。逆に言えば、それだけミッド昭和は高濃度社会だったということだ。

「新作」といっても今は昔、唐沢版からもう15年近くのときが経過している。今日の日本で最新版の『白い巨塔』をリメイクするとどうなるだろうか。間違いなく、キャストは全員さらに薄くなるだろう。というか、そもそもこのプロットが成り立たないおそれがある。実業界であればいざ知らず、苦学して医者になり、末は教授、さらには学部長、学士院会員に……という世俗的野心むき出しのハングリーな人は今の医学界にはほとんどいないのではないだろうか。

 やれ国立大学医学部教授の地位だ、教授選だといっても、今の視聴者、とくに若い人々にとっては、そんな大騒ぎをしてまで、なんで地位や権力、立身出世にこだわるのか意味不明かもしれない。ということで、少なくともマス・マーケットを相手にしたテレビドラマとしては、『白い巨塔』はもう二度と再演されないというのが僕の予想だ。

「偉い人がエライ」のは二流の組織

 そう考えるとさびしい限りだが、これはあくまでも映画やドラマについての話であって、現実社会についていえば、僕の意見は反対になる。ミッド昭和のように濃い連中ががむしゃらに名誉栄達を求めて跳梁跋扈する世の中はよろしくない。この数十年かけての日本と日本人の濃度低減は歓迎すべき傾向だと思う。

「偉い人がエライ」、これは二流の組織の特徴である。大学病院に限らず、あらゆる組織の一義的な存在理由は顧客(大学病院の場合は患者さん)に対する価値提供にある。偉い人がエライ組織では、この原理原則がしばしば歪められる。組織外部の顧客の利益を度外視して、組織上位者の利害やメンツという内部の論理が優先する。その結果、組織がヘンな方向に暴走する。

 極端な例でいえば、帝国陸軍参謀本部がその典型である。最近の話題で言えば、東芝という会社には大いにそのフシがある。浪速大学医学部もまた、偉い人が必要以上にエライという意味で二流かそれ以下の組織であった。

 映画『白い巨塔』を観て大いに驚いたのは、映画の中での当時の大学教授が実にエラかったということだ。周囲の扱いがすごい。例えば、東教授のところに助手の女性が書類を持ってくるシーン。研究室に入ってきてまず一礼、東教授のデスクに書類を置いて一礼、で部屋を出るときにまた一礼。ほんの数十秒の間に助手が教授に3回も深々とおじぎをするのである。神様じゃあるまいし、まるで神社の「二礼二拍手一礼」である。

 東教授や鵜飼教授が部下に指示するときの語尾は「○○したまえ……」。そのたびに助教授や講師や助手は「かしこまりました」と答える。会話の中で「伝統と名誉ある国立浪速大学の……」というフレーズが枕詞として頻繁に出てくる。

 僕も大学教授なのだが、こんなことは今の大学ではあり得ない。僕自身を例に取れば、まずもって、助手が僕の部屋に来るということはない。用事があれば僕のほうから助手の部屋に出向く。用件はだいたいがこちらからの頼みごとなので、まずは助手のデスクの前で直立不動の姿勢をとる。で、「恐れ入りますが、この手紙をお手すきのときに出してくださいますか。いえ、まったく急ぎません。何かのついでで結構ですので、よろしくお願いいたします」「わかりました」「お忙しいところ、恐れ入ります……」という会話になる。いきなり「この手紙を出してきたまえ」などと言ったら、助手は「……は?」となるだろう。僕の職場も国立大学なのだが「伝統と名誉ある国立一橋大学の……」というフレーズはついぞ聞いたことがない(今度試しに教授会で使ってみようかな)。

 僕の所属は経営大学院なので、医学部や大学病院とは組織の成り立ちが大きく異なる。そもそも教授-助教授(准教授)-講師-助手(助教)というヒエラルキーがない(もちろん付属病院もない)。部外者の僕には医学部の現状はよく分からないが、『白い巨塔』を地でいく医学部などもはや絶無だろう。

元をただせば東が悪い

 原作や映画の財前は悪人として描かれているが、僕に言わせればこの人は明らかに被害者である。元をただせば、東教授がいちばん悪い。

 財前は圧倒的な才能と技量の持ち主である。その余人をもって代えがたい診断のセンスと手術の腕は、対立することになった里見や大河内教授も含めて、全員が認めるところだった。もともと財前と里見は大学時代からの同期生で、その関係は良好だった。性格や力量の方向性がまるで違うだけに、お互いがお互いを認め、頼りにするような間柄だったのである。教授選や誤診裁判が起きなければ、敵対することはなかったはずだ。

 東が自分のプライドやその裏返しとしての財前への嫉妬、引退後の影響力の確保、はたまた未婚の娘の婿探しなどといった個人的で矮小な利害にとらわれず、能力第一で財前助教授をさっさと後任教授にしておけばそもそもこんな大騒ぎにはならなかった。それどころか、臨床医としては東よりも明らかに優秀な財前は「伝統と名誉ある国立浪速大学医学部の第一外科」の看板教授として、思う存分腕を振るい、ますます後続の医師や患者に頼りにされ、世の中に貢献できたのである。

 後半の主題となる誤診問題についていえば、確かに財前には責任がある。一審の証言台に立った東都大学の船尾教授が「財前教授にも医師としての重大な手落ちと責任がある!」と喝破したように、財前の行動は不誠実としか言いようがない。

 しかし、財前はそれまでにも食道噴門癌の専門家としてこの種の手術を何十何百と成功させてきた実績がある。告訴されたのは財前が手がけた多くの手術のうちのたったひとつ。しかも、財前が独善的で自信過剰だったということがあるにせよ、やるべき検査をやらなかった最大の理由は、教授選での東派との抗争で多忙を極め、そっちのことでアタマが一杯だったことにある。順当に教授になっていれば、財前は(それまでそうだったように)万全の診断と手術と治療をしたのではないか。東の罪は大きい。

ビバ! 希薄化

 話を現実に戻す。親が年老いて病院とかかわる機会がめっきりと増えてきたこのごろである。病院の医師や看護師に何かとお世話になるのだが、彼らと接していると、日本の医療の現場が実に真面目で誠実な人々によって支えられていることに感動する。

 組織としての効率や生産性にはさまざまな問題があろうが、僕のこれまでの経験からして、医療のフロントラインに立つ人の質に限っていえば、日本は文句なしのナンバーワンだと思う。東や鵜飼、財前のような昭和濃度のエライ人はほとんど見かけない。大変に忙しくてしんどい仕事だと思うが、きっちりと一人ひとりの患者に手数を惜しまず、真摯に対応してくれる人が実に多い。全員が里見先生に見えてくる。組織内部のギトギト成分がなくなり、その分エネルギーを本来の顧客に向けるようになっているのではないか。これは現代日本のよい意味での成熟の表れだと思う。

 医療だけではない。飲食店や小売店や宿泊施設の「おもてなし」に光が当たるが、介護や警察や宅配などのよりシリアスな対人サービスに従事する人の真面目と誠実は他国に比べてさらに抜きん出ていると思う。これはいくら金を積んでもすぐには手に入らない日本の強固なインフラであり、絶対の美点である。

 成熟した日本の希薄化をともに喜びたい。

(楠木 建)

文春オンライン

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