【ゼロから分かる「神戸山口組」分裂騒動】ヤクザの名門「山健組」の内紛はなぜ起きたのか?

文春オンライン / 2020年7月25日 17時0分

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山健組を率いた5代目山口組の渡辺芳則組長(左)。右は宅見勝若頭(1989年11月) ©️共同通信社

 6代目山口組から離脱し、対立関係が続いている「神戸山口組」で内紛が起きている。神戸山口組の中でも最大勢力の「山健組」が分裂の動きを見せているためだ。

 不穏な動きは7月上旬から情報が漏れだして表面化した。7月に入って山健組の最高幹部らが兵庫県内で断続的に会合を開いているという。

 神戸山口組は2015年8月、6代目山口組を離脱した山健組や宅見組など13組織で結成されたが、山健組はその中でも名実ともに中核組織。神戸山口組組長、井上邦雄の出身団体でもある。それだけに、今回の内紛が「神戸山口組の大幅な弱体化に繋がるのではないか」との憶測も飛び交っている。

 山健組の動向次第では、神戸山口組の弱体化どころか存続が危ぶまれる事態を招く。2019年10月に6代目山口組若頭の高山清司が刑務所を出所以降、激化した対立抗争の行方にも大きな影響を及ぼすことになりそうだ。(全2回の1回目/ 後編 に続く)

暴力団業界のブランド「山健組」

「山健組にあらずんば、山口組にあらず」

 そんな表現をされていた山健組は5代目山口組組長の渡辺芳則を輩出するなど、かつては組織内の最大派閥として権勢を誇り、現在の山口組を事実上支配する弘道会をしのぐ“保守本流”だった。当時は、山口組内だけでなく暴力団業界全体のトップブランドとも言えた。

 当時を知る指定暴力団幹部が振り返る。

「5代目のころは、まさに山健の時代。まさに『山健にあらずんば……』と言われたように大きな存在だった。当時から弘道会も大きな勢力だったが、5代目(組長の渡辺)が山健出身だったから、シノギ(資金獲得活動)が(山口組傘下組織の間で)ぶつかっても、全て山健に有利になるようになった」

 それほど権勢をふるった山健組とは、どんな組織なのか。

 そもそも山健組は、田岡一雄が3代目組長だった当時、山口組のナンバー2・若頭を務めた山本健一が創設した老舗組織だ。田岡と言えば、神戸の地方組織に過ぎなかった山口組を全国組織にしたカリスマ的な存在だ。

 山本は、その田岡後継の有力候補だったが、4代目を継ぐことが出来なかった。1981年7月に田岡が死去するのだが、その前から山本は病気で入退院を繰り返し、1982年2月に死去してしまったからだ。

 山健組から山口組組長が出るのは、4代目組長の竹中正久が「山一抗争」で射殺され、混乱後の「組長空席」という異常事態を経た後のこと。1989年7月、5代目山口組組長に山健組組長だった渡辺芳則が就くことになる。

 集団指導体制のもと、山健組という最大派閥を率いて5代目に就いた渡辺。当時は日本中が好景気に沸いたバブル経済の真っただ中で、表経済の好調ぶりは裏社会である暴力団業界も潤し、地上げなどで巨額の利益を手にした「経済ヤクザ」という存在もクローズアップされた。こうして山口組の事実上の山健組支配が確立していた。

 警察庁幹部が当時の状況について解説する。

「5代目組長の渡辺が山健組出身だから、内部で依怙贔屓のように何でも山健組が最優先とする『5代目裁定』が行われていた。弘道会出身の6代目組長司忍体制となって、弘道会が事実上山口組を支配するようになり『何でも弘道会優先』になったのは、この5代目裁定への怨念からだろう」

揺れる「山健」ブランド

 山健組というブランドの威光が全国に行き届いていた山口組の5代目体制だが、次第に陰りを見せ始める。

 カリスマ性で組織を率いた田岡らと違い渡辺は、リーダーシップを発揮していくというより、ナンバー2の若頭だった宅見組組長の宅見勝、総本部長に岸本組組長の岸本才三、若頭補佐には弘道会会長の司忍、さらには渡辺の後継者として山健組組長に就任した若頭補佐の桑田兼吉らを中心とするニューリーダーたちとともに集団指導体制を取っていた。

 順調な組織運営が行われていたと思われていたが、1997年8月に若頭の宅見が神戸市内で射殺される事件が発生。事件を引き起こしたのは、渡辺の親衛隊を自認する中野会を率いていた若頭補佐の中野太郎だった。

 原因は渡辺と宅見の間の不和だったとされる。しかし、この事件をきっかけに最高幹部との間に決定的な溝が生まれ、渡辺の指導力も事実上失われる事態となった。

 引退に追い込まれた渡辺の後を引き継いで、2005年8月、6代目山口組組長に就任したのが、弘道会出身の司忍だった。これまでナンバー2の若頭には組長とは別組織の幹部が登用されてきたが、6代目体制では若頭に弘道会会長の高山清司が就任。ツートップが弘道会出身者となった。

 山口組の権力の中心が「山健組」から「弘道会」へと動いたのだ。

 弘道会支配がスタートすると、傘下組織の上納金と呼ばれる会費の値上げなど厳しいカネの徴収が行われた。さらに、人事の不満なども募った。

 そして2015年8月に、山健組を最大勢力として13組織が6代目山口組から離脱して、神戸山口組が結成されることになる。

 興味深いのは、カネを主たる理由に6代目山口組を離脱した神戸山口組だったが、同じ理由で、神戸山口組から山健組の一部が離脱しようとしていることだ。

 繁華街の飲食店などからみかじめ料(用心棒代)などを徴収することを禁じた暴力団対策法は1992年に施行されていたが、暴力団業界は2011年10月までに全国で整備された暴力団排除条例も追い打ちをかけ、その後はどこの組織もシノギが厳しく、脱落者が相次いでいる背景がある。

 神戸山口組でも、2015年の結成当初は上納金の減額などが行われたが、次第に弘道会同様の厳しい上納金の問題が浮上していったという。

組長の出身団体のはずが……

 それにしても、神戸山口組の組長である井上は山健組の出身のはずだ。にもかかわらず、井上の後継で山健組組長となった中田浩司も現在、逮捕され勾留中で離脱などの明確な意思は示していないが、警察当局によると、山健組を独立させる意思だという。

 神戸山口組をめぐる動きと井上の人物評について、警察庁幹部が指摘する。

「山口組の5代目体制時代に、井上は対立抗争事件で長期間の懲役に行っている。この点を渡辺が大きく評価していた。このため、渡辺は刑務所から帰ってきた井上を山健の後釜に据えた。懲役に行くことはヤクザの社会では評価されることだろうが、組織運営でリーダーシップを発揮できる資質を備えていることとはまた別問題だ」

 井上の人物評について語った警察庁幹部が、双方の幹部の心境を推測する。

「6代目山口組側もそうだが、神戸山口組側の最高幹部はかなり高齢となっている。対立抗争事件で狙われるようなことをするよりも、今となっては命の保証、生活を維持できる資金の確保の方が優先事項ではないか。神戸山口組側の最高幹部はヤクザというよりはビジネスマン的だ。報復しないというのは良いことだが……」

 迷走を続ける山健組。動向次第では暴力団業界に大きな地殻変動を起こす可能性が高い。

 関東を拠点に活動しているある指定暴力団幹部がつぶやいた。

「山健には親しい知人がいた。最近というか、少し前から連絡が取れない。山口組が分裂して神戸山口組となり、その後も動きが色々とある。あいつは今、どうしているだろうか」(敬称略)

「ヤクザにとって最も重要な『親子の盃』をないがしろ」神戸山口組から6代目山口組系に大量移籍の動きが出始めた へ続く

(尾島 正洋/Webオリジナル(特集班))

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