「忍び」を重用した武田信玄 創作と史実が入り交じる「忍び」の実態に迫る

文春オンライン / 2020年9月10日 11時0分

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「忍び」「忍者」といえば、小説やゲーム、マンガ、映画など、さまざまな作品で取り上げられているイメージが先行する。「忍び」の人気は日本だけにとどまらず、海外でも「Ninja」として「Samurai」と並ぶエキゾチックな魅力を放つ存在として、あこがれを持って受け入れられている。

 しかし実際の歴史において「忍び」がどのような存在であったのかは、あまり一般に知られていないように見える。戦国大名・武田信玄の研究者でもある平山優氏の新著『 戦国の忍び 』(角川新書)から「忍び」の実態を探る。

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虚構かそれとも実在か

 戦国時代の忍びといえば、巷間に膾炙されているのは、大名たちが召し抱え、諸国に放っていたとされる忍びたちが著名である。例えば、武田信玄の「三ツ者(みつもの)」「歩き巫女」、伊達政宗の「黒脛巾(くろはばき)」、上杉謙信の「軒猿(簷猿、のきざる)」、北条氏康の「風魔一党」、織田信長の「饗談(きょうだん)」、真田昌幸の出浦を始め、上野国吾妻谷(あがつまだに)の忍びなどが、よく忍者小説などに登場する。ところが、これらは、ごく一部を除き、同時代史料には一切登場しないばかりか、なかには出典不明のものすらある。

 例えば、上杉の「軒猿」は、上杉関係の軍記物にすら、管見の限りまったく見当たらず、そもそも誰がそれを言い出したのかすら判然としない。では、「軒猿」という忍びが、完全にフィクションかというと、それは誤りで、『北条記』(『続群書類従』)巻三の「高野台合戦之事」の一節に「小田原方の軒猿由井源蔵殿の内横江忠兵衛と大橋山城守とて、究竟一の忍ひの上手にて、敵陣へ忍入、此躰念比に見て帰り、申上けれは」と登場する。これは、永禄七年(1564)の国府台合戦の時、北条氏照(うじてる/由井源蔵)配下の「軒猿」と呼ばれていた屈強で有能な忍び二人が、敵陣に潜入して詳細な情報を掴んで帰ったというものだ(但し『北条史料集』所収の内閣文庫本には、「軒猿」という表記がない)。つまり、現段階で、文献を検索した限りでは、「軒猿」とは、上杉謙信配下の忍びではなく、北条氏康・氏政配下の忍びの呼称だったことになる。

真田十勇士は創作

 創作という点では、最も脚色が著しいのが真田氏であろう。真田昌幸・幸村(信繁)といえば、彼らを支えた忍者猿飛佐助をはじめとする真田十勇士で知られるが、これはいうまでもなく、大正から昭和初期にかけて人気を博した立川文庫の創作である。だが、真田氏が、忍者を駆使した武将というイメージは、江戸時代からあったらしい。

 その最たる人物が、真田重臣出浦対馬守昌相(まさすけ)である。彼は、真田の忍びの頭目であったと伝承されている。このことについて、『本藩名士小伝』(河原綱徳編、嘉永2年〈1849〉成立)の「出浦対馬守幸久」の項目に「天文年中、義清、武田晴信と上田原に戦ひ、敗軍して越後国へ没落の後、幸久武田家ニ属し、スツパを預り、他国の城へスツパを入けるに、其者より先に城中へ忍び入、様子を具に見届帰りける、スツパハ行ずして、偽て行たるよしを云ける時、幸久スツパの偽れるを叱り、其身行たる証拠を顕はし、見せけるとぞ、手柄の程を人々感しけるとなり」と記録されている。

出浦と忍びのつながりは誤読?

 出浦は、武田氏より透波を預かり、敵城に彼らを派遣して情報を探っていたといい、自らも潜入して諜報活動に従事しつつ、配下の透波の活動状況を監督していたという。しかしながら、出浦の史料を博捜しても、彼と透波を繋ぐ事実は窺われない。出浦が忍びの頭目と伝承されるようになったことについては、『真武内伝追加』『御家中系図』などで、小田原合戦時に、武蔵国忍城(おしじょう/埼玉県行田市)を攻め、大いに活躍したことを、「忍」と誤読・誤伝した可能性が指摘されている(丸島和洋・2016年)。

 また、『真田家御事蹟稿』『真武内伝』において、大坂の陣で真田信吉・信政兄弟に従い、後に真田家から離反した、馬場主水(角蔵とも)は著名である。彼は、夏の陣終結後、信之が大坂方の弟真田信繁に秘かに味方し、兵糧や玉薬などを横流ししていたことを幕府に訴えた人物として知られ、もと武田家の忍びで、その後は真田家に仕えていたという。馬場の訴えは、その後、幕府の詮議によって虚言であることが判明し、真田信之が罪に問われることはなかった。

山伏とのつながりが伝承の元か

 馬場が、真田家を讒訴(ざんそ)したのは、盗みの罪で成敗されそうになったのを、逆恨みしたからだという。幕府は、真田家からの馬場の身柄引き渡し要請を拒否し、彼を釈放して逃亡させたが、信之は家臣に追跡と成敗を命じ、3年かけて殺害されたといわれる。馬場の一件が、どこまで史実かは定かでないが、信繁との内通を疑われ、信之家臣宮下藤左衛門が成敗されたのは、どうやら事実らしい(丸島和洋・2015年、平山・2016年)。

 この他に、吾妻谷の割田下総、唐澤玄蕃(げんば)、富澤伊予、同伊賀、同豊前、横谷左近などが、真田に仕えた忍びとして伝承されているが(山口武夫編・1985年)、確実な史料では、残念ながら確認できない。真田と忍びの繋がりが、江戸時代から取り沙汰されているのは、昌幸や信之の領国が、山岳修験の盛んな信濃小県郡や上野国吾妻郡に及んでいたことと関係があるだろう。そこで活動する山伏などを保護し、真田家は諜報活動を彼らに行わせたといい、それが真田昌幸・信繁父子は忍びを多数召し抱え、巧みに敵を翻弄したと考えるようになったのではあるまいか。

 ただ、真田昌幸が、忍びを多数召し抱え、彼らを駆使して合戦を優位にしようとしていたことは史実である。このことについては、本書で詳しく紹介するが、天正壬午の乱を契機に、北条氏と上野国で激しい角逐を繰り広げていた際、真田昌幸は、北条方の城を乗っ取るべく、数百人規模の透波を派遣し、敵方を脅かしていた。また第二次上田合戦でも、「大かまり」(大人数の伏兵)を配置して、徳川秀忠軍を襲撃しようと試みていたことが、確実な史料から窺われる。このように、真田と忍びについては、それなりの根拠がありそうである。

 最後に、織田信長が秘蔵した忍びとされる「饗談」は、伊賀の忍術書として著名な『万川集海』巻一「忍術問答」が、その出典であり、その他にはほとんど管見されない。記して後考をまちたい。

武田信玄と忍び

 戦国大名の中で、古来武田信玄ほど、忍びとの深い関わりが取り沙汰される人物はいない。既述のように、『甲陽軍鑑』には、忍びを自在に操り、合戦を優位に導き、敵方を調略で切り崩す戦略を心得た大将として、信玄は描かれている。そして、江戸時代に成立した忍術書や、軍学などには、武田家に仕え、その時代の経験を活かして著述されたと伝わるものが極めて多いのも事実である。

 例えば、忍術書として著名な『正忍伝』は、延宝9年(1681)、紀州藩士藤一水正武(名取三十郎正澄[なとりさんじゅうろうまさずみ]、正武)が著したものであるが、彼は甲斐武田家に仕えた、武田遺臣の系統であり、甲州流軍学の開祖小幡勘兵衛景憲(『甲陽軍鑑』の編者)の流れを汲む。また、『軍法侍用集』の「窃盗の巻」は、信玄に仕えた服部氏信が持っていた秘伝を利用したものであることは、第1章で紹介したとおりである。

出典の明らかでない「三ツ者」

 そして、巷間流布する忍者本の多くに、武田信玄が大切に召し抱え、敵の情報を探るために放った忍びを「三ツ者(みつもの)」と呼んだと書かれている。ところが、確実な史料や記録に、武田の「三ツ者」はまったく登場せず、果たして事実かどうかは確認できない。そもそも、その出典すら、明らかではなかったが、精査してみると、やはり『甲陽軍鑑』と『万川集海』に行きつく。

信玄が強敵と戦っても不覚をとらなかった理由

『万川集海』巻第一「忍術問答」の一節に、次のような記事がある。

〈 昔、甲斐国の守護武田信玄晴信は名将なり、忠勇謀巧みに達したる者を三十人抱え置きて、禄を重くし賞を厚くして間見、見分、目付と三つに分け、その惣名を三者と名付けて、常々入魂ありて軍事の要に用い給い、隣国の強敵と戦いて一度も不覚を取らざること、全く三者の功なりと、もてなし玉いしなり、信玄詠歌に

  合戦に三者なくば大将の、石を抱いて淵に入るなり

  戦いに日取方さし除き、三者を遣兼(ついかね)て計へ〉

 この記事によると、信玄が忠義に厚く、武勇に優れ、謀略に巧みな30人を選抜して召し抱え、間見、見分、目付の三つに分け、その総称を三者と名付け、軍事作戦上、ここぞという時に用いたといい、そのため信玄は、強敵と戦っても不覚をとることがなかったのだとされる。そして、信玄が詠んだ歌にも、三者を駆使することの重要性が、織り込まれているというのだ。信玄は、合戦の吉凶をあらかじめ占う「日取・方取」と同じく、三者を戦いが始まる前から敵に放ち、あらかじめ敵を調略しておくことが重要だと強調していたという。ここに登場する「間見・見分・目付」を「三者」と呼ぶとあるのが、武田の忍びは「三ツ者」といったという話の出典であろう。そして、この部分は、第一章で紹介したように、『軍艦』末書下巻下一に登場する。ただ、注意すべきは、この「三者」を「みつもの」と訓む確実な根拠はなく、後世の付会の可能性が高い。

どこまでが事実なのか

 この他にも著名な忍びとして、信州国禰津(ねつ)郷(長野県東御市)で、歩き巫女を統括し、諸国の情報を探って、これを武田信玄に伝えたという望月千代女などもいる。だが、彼女もまた伝説の人物、いやほぼ架空の人物と断じてよかろう(吉丸雄哉・2017年)。そして、禰津氏や望月氏は、ともに滋野一族であり、真田氏と同族だったこともあって、こうした忍者伝説は、真田氏や武田氏と結びついて、江戸時代から近代にかけて、様々な形で語られ、造形されていったようだ。だが残念なことに、これらがどこまで事実なのかはまったく明らかにならない。

参考文献
丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』新人物文庫、KADOKAWA、2016年
丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015年
平山優『真田信之』PHP新書、2016年
吉丸雄哉「望月千代女伝の虚妄」(吉丸雄哉・山田雄司編『忍者の誕生』勉誠出版、2017年所収)
 

「忍び」は悪党の「再利用」? 大名と「忍び」の関係を史実から紐解く へ続く

(平山 優)

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