運命の“第8局” 恐怖心を克服したボクサーのように、豊島将之のストレートが伸びる

文春オンライン / 2020年9月20日 6時0分

写真

対局室へ向かう豊島将之竜王

「いやぁ、料理とお酒が素晴らしいので昨夜は少し飲みすぎてしまいまして」

 立会人の先崎学九段が、頭を掻きながら控え室に現れた。叡王戦第8局の対局場は、神奈川県秦野市の老舗旅館「陣屋」。将棋や囲碁のタイトル戦会場としても有名な陣屋には、食事のときに出されるオリジナルの銘酒「初陣の誉」がある。モーツアルトの曲を聴かせながら醸造することで、酵母の働きが活発になり独特の風味が出るという。

対局室に向かう長い回り廊下を着物姿の棋士が歩む

 今期の叡王戦は6局目を終えた時点で、永瀬拓矢叡王と挑戦者の豊島将之竜王が、2勝2敗2持将棋で並んだ。どちらかが4勝するまで決着がつかないため、七番勝負で31年ぶりの第8局が行われることになった。第7局は永瀬拓矢叡王が勝ち、本局に初防衛をかける。

 陣屋には取材で何度か訪れているが、カメラマン的に魅力的な場所だ。対局室に向かう長い回り廊下を着物姿の棋士が歩む。ガラス戸から差し込む光を受けて、着物姿と日本家屋が見事に調和する。

 対局は午前10時から始まる。持ち時間は各6時間。開始15分ほど前に、挑戦者の豊島将之竜王が姿を現した。鳥の子色の羽織が瑞々しい。5分後に入室した永瀬拓矢叡王は、威容を漂わせる錫色の羽織を纏う。若きタイトルホルダー二人の姿が美しい。

 初手からの数手を撮影して控え室に戻ると、すでに手数が15手まで伸びていた。

「早いですね。ポンポン進んでます」

 モニターを観ながら先崎がいう。開始から20分ほど過ぎたとき、先崎が「よしっ」と言って、盤に駒を並べだした。

考慮時間わずかに30秒。迷いなく踏み込む

 ニコ生中継には広瀬章人八段と飯野愛女流初段が出演している。飯野女流はショートカットにした髪型がとても愛らしい。序盤の和やかなトークが続いていたが、突然飯野が声をあげた。

「あっ、仕掛けました」

 開始30分過ぎ、早くも豊島が動く。3筋の歩を突き捨てた。

豊島「あの形になったら仕掛けていくつもりでした。上手くいけば快勝できるし、下手をすれば逆にボロボロになる可能性もある将棋でした」

 豊島が1筋の歩も突き捨てた。激しい変化に突入するといわれていた手だ。考慮時間わずかに30秒。迷いなく踏み込む。恐怖心を克服したボクサーのように、ストレートが伸びる。永瀬が考慮に沈む。

「名人を失冠してから少し時間が経って……」

 対局には、陣屋所蔵の名盤が使われている。桐蓋の裏には“昭和28年大山康晴王将”の揮毫。陣屋事件の翌年、第2期王将戦で升田幸三から大山がタイトルを奪取したときのものだ。以来、数多くの名棋士がこの盤の前に座ってきた。

 モニターに映る対局室の光景を観ながら、先崎が言う。

「脚付きの榧盤の値打ちが、大暴落しちゃったんだよね……。今は畳の部屋が少ないから、家で指すのに向かない。昔は生活に即していたんだけどね。私も5年ほど前から、研究は机の上に板盤を置いてやっていますよ」

 昭和の頃までは将棋・碁盤の製作・販売をする店は、東京都内だけでも20店舗以上あったといわれる。現在は5~6店舗を残すのみになった。

 豊島の積極的な指し手が続く。開始から31手を過ぎて、まだ持ち時間を14分しか使っていない。対して永瀬の消費時間は70分を超えた。

豊島「名人を失冠してから少し時間が経って、割とスッキリした気持ちで臨めました。事前に決めていた展開だったので、研究範囲外に入るまでは早く進めるつもりでした」

 豊島が名人を失ったとき、その立ち居振る舞いの立派さを報道陣は賞賛した。失意や悔しさを表すことなく、関係者への礼節を尽くした。だが失冠から次の対局に臨むまでには、余人には計り知れない心の過程があっただろう。

雨音が響く中、永瀬が長考に沈む

 日差しが出てきたので、庭園を撮影するために外に出た。樹齢170年の楠木や300年の椎木がある。朝方降った雨で、木立の中は湿度が高い。カメラのレンズが白く曇った。

 陣屋の玄関から庭園を抜ける小径の先に、来客の時に鳴らす陣太鼓が下げられている。丁度、着物姿のスタッフが宿泊客の見送りに出ていた。凛とした立ち姿のまま、客の背を見つめている。

 受け継がれてきた伝統の中で、育まれた“もてなしの心”。将棋のタイトル戦は、そうした文化との融合なのだと感じた。

 この日は天気が移ろいやすく、正午近くに雨が降り出した。豊島の攻めは止まない。長時間のタイトル戦で、午前中にここまで激しい戦いになることは少ない。雨音が響く中、永瀬が長考に沈む。

「このまま豊島君の攻めが決まれば、打ち上げが早くなる(笑)」

 本シリーズで長手数の将棋が続いたのを指して、先崎がジョークを飛ばす。ただ、今はコロナウイルス対策で終局後の宴席はない。

スタッフにも名物の「陣屋カレー」が出された

 永瀬が考慮中のまま昼食休憩に入る。午前中で35手。豊島の消費時間はわずか24分。対して永瀬はすでに2時間を超えた。評価値はわずかに豊島有利に触れている。だが勝負の行方はまだ全くわからない。

 昼食はスタッフにも名物の「陣屋カレー」が出された。70畳の宴会場にテーブルが3列に並べられている。1つのテーブルにつき1名、向かい合うことなく食事できるように配慮されていた。サラダ、小鉢とともに、味わい深いカレーをいただく。

 休憩後、永瀬は着物からスーツに着替えて現れるのだろうか。多くの棋士はタイトル戦では着物姿で通す。永瀬は本人のこだわりから、途中で着替える。ニコ生の視聴者からは、そのタイミングが注目されるようになった。

 果たして、叡王はスーツ姿で現れた。豊島より先に対局室に入り、盤の前に座ると腕を組み考える。眉間に深いシワを寄せる。間もなくマスクを外した。

 棋士が着物姿でタイトル戦に臨む姿を、期待しているファンは多い。以前中堅の棋士と話していたときに、永瀬に対して「タイトル戦の品格を落とさないためにも、着物姿で通すべきだ」という意見も聞かれた。こうした声を本人が感じていないはずはない。

定刻になったが、永瀬は指さない

 永瀬の普段の言動は、謙虚で礼儀正しく、人に対する敬意を感じさせる。彼が棋界の意見に反しても対局スタイルを変えないのは、何よりも将棋と真摯に向き合っているからだと思う。対局に悔いを残さないために、必要以外のパフォーマンスはとらない。

 一流のスタイルだと思う。

 周りが自分をどうみようと、信じた方法をとり続ける。ブレない強さ。

 昼食休憩後は撮影が許される。豊島が入室して座った。定刻になったが、永瀬は指さない。体を前後に揺らしながら考える。腕を組み、背筋を伸ばして静止する。まだ指さない。豊島はその間にうなだれるような姿勢をとっていた。相手の指し手を待つ間、己の力を温存しているようだ。

 控え室に戻ってモニターを見ると、永瀬はすでに上着も脱いでいた。先崎が頬を緩める。

「彼はスーツの方が好きなんだろうねえ。私はタイトル戦をスーツでやることに抵抗はないです。ただスポンサーから要望があれば、それを尊重するのは棋士として当然だと思います。ファンの人が贔屓の棋士の格好いい姿を見たいというなら、そうした声も反映されたものになるべきでしょうね」

 永瀬は考え続ける。豊島が盤上に残した1三歩から、昼食休憩を挟んで2時間が過ぎた。

写真=野澤亘伸

「簡単には投げない印象ですね」永瀬拓矢は前を向く、永瀬拓矢は振り向かない へ続く

(野澤 亘伸)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング