中学生名人戦優勝 期待のルーキー・野原未蘭を成長させた藤井聡太のアドバイスとは

文春オンライン / 2020年9月25日 11時0分

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野原未蘭女流2級

 9月に注目の女流棋士がデビューした。富山県在住、現役最年少の17歳、高校2年生の野原未蘭女流2級だ。男女混合の中学生名人戦で優勝、男性トップアマが集まる朝日アマ名人戦全国大会で勝ち星、もっとも伝統のある女性大会・女流アマ名人戦では3連覇と「女性初」「史上初」のアマチュア大会実績をいくつも持つ。大器と期待され、英春(えいしゅん)流という珍しい戦法を指しこなすことでも知られている。

 インタビュー前半では、将棋を始めた頃や、強くなりたいと思う原動力になった同じ歳の男の子の話、英春流を覚えたいきさつ、女流アマ名人になった「特典」の1つとして機会に恵まれた同世代の藤井聡太二冠との1対1の角落ち対局のことなどを聞いてみた。(全2回の1回目、 #2 へ続く)

◆ ◆ ◆

父がわざと負けていたことが分からず……「将棋って面白い」

――まずは、「未蘭」という華やかなお名前の由来について教えて下さい。

野原 由来はよく聞かれます。両親が新婚旅行に行ったイタリアのミラノから付けたそうです。小学校の頃は「珍しい」と言われ、もっと普通の名前が良かったと思ったこともあるのですが、覚えてもらいやすいし「みらん」という響きも良くて、今は気に入っています。私自身はまだミラノには行ったことがないのですが(笑)。

――将棋を始めたのはいつ頃ですか。お父様も叔父様も将棋が強いとうかがいました。将棋が身近にあったのでしょうか。

野原 私が年長の頃、アマ三段の父が将棋番組を見ていて、興味を持ったのが最初です。父がルールを教えてくれて早速対局しました。父はわざと負けてくれ、幼い私は「わざと」が分からずに、勝って嬉しい、将棋って面白いと思ってしまいました。

――しばらくはお父様と家で将棋を指す感じでしたか。

野原 父が公民館の将棋教室や、富山の支部長(日本将棋連盟には将棋愛好家で作る支部が全国にある)さんの自宅を週1回、子ども道場みたいにしているのを探してきて、すぐに通い始めました。父が家で棒銀とか戦法を教えてくれて、外で他の子と対局するときに、それを試す感じでした。

富山では有名な強豪兄弟にどうしても勝てず、晩成塾へ

――どんどん上達したのでしょうか。

野原 小2の時には倉敷王将戦(低学年、高学年別で行われる小学生大会、県代表を集めての全国大会が岡山県倉敷市で行われる)県大会で低学年2位でした。優勝して富山県代表になった男の子は同じ歳で、2つ年上のお兄さんとともに富山では有名な強豪兄弟でした。私は、その子に阻まれてなかなか代表になることができませんでした。棋力的には、低学年ではまだ級位者で、4年生で初段になったくらいです。

――強くなるにはライバルが大切と言われます。その子にライバル心は抱きましたか。

野原 なんとかして勝ちたいと思いました。1回でもいいから県代表になりたいけれど、その子を倒さない限りなれないわけです。それで、父と一緒にその子の将棋を研究して、作戦を練りました。いろいろと作戦を変え何回も挑みましたが、やっぱり勝てない。小4の7月に、隣県の金沢市で行われたJTプロ公式戦と同時開催の子ども大会に出て、そのときも予選を抜けてトーナメント2回戦くらいで、その子に負けてしまいました。

 父は「これは根本的に将棋を変えないと勝てるようにはならない」と言い、その日のうちに鈴木英春先生が主宰する晩成塾に電話して、次の日の教室体験の申し込みをしました。そして、みっちり将棋が指せる「(夜)9時までコース」に入会することになりました。

実は英春流を学べる教室というのを理解していませんでした

――晩成塾は、英春流で知られる将棋教室ですね。富山ではなく石川県の金沢市にあって遠くなかったでしょうか。未蘭先生自身も英春先生のことはご存じでしたか。

野原 車で1時間から1時間半でした。父か母が毎週送ってくれました。1日がかりというか、私が教室にいる間、父や母は金沢のどこかで時間をつぶしていたようです。今思うと、遠くまで送迎してくれて感謝しています。英春先生は石川県の方ですが、私は頻繁に石川県の大会にも出ていましたので、石川県の強い人がたくさん通っているという評判は聞いていました。

 英春流とは元奨励会三段のアマ強豪、鈴木英春さん(70)が考案した戦法の総称。2019年にはマイナビ出版から『 英春流 かまいたち&カメレオン戦法 』(鈴木英春)が出版された。相手を惑わせる個性的な序盤で、気づかれないうちに相手を切るという「かまいたち」と、変幻自在の「カメレオン」の2つの戦法からなる。初手から、先手なら9六歩、後手なら6二銀とあまりない手を指す。ユニークなネーミングも鈴木英春さん自身によるものだ。

――英春流は独特の感覚があり、覚えるのは大変ではなかったでしょうか。

野原 父は私に英春流を身に付けさせようと教室に入れたようですが、私は単に強くなれそうだから入った感じで、実は英春流を学べる教室というのを理解していませんでした。入ってすぐに英春先生と対局し、私は当時得意だった角交換四間飛車をしようとしたら、角道を開けずに交換させてもらえません。そのうちに一方的に切られていて「あれ、なんだこの戦法?」と思ったら「これが英春流なんだよ」と言われました(笑)。晩成塾には、英春流の優秀な使い手がたくさんいて、皆さん大会で活躍していたので、私も強くなるには英春流をやったほうがいいと思いました。とはいえ、それまで攻め将棋だったのに、英春流は受け身で、受けが強くないと指しこなせない戦法です。最初は、それまで勝てた人にも勝てなくなったりしました。

 人によって合う、合わないがあると思います。私の場合はやっていくうちに慣れてきて勝てるようになっていきました。柔軟に対応する能力は平均よりあるのかなと思っています。

「楽しくなければ将棋じゃない」が教えでした

――晩成塾は英春先生自ら大盤を使って「英春流とはこう指す」と説明していくような教室ではないのですか。

野原 全然違います(笑)。大盤解説はなくて、基本的にたくさん指して「体で覚えろ」という感じ。生徒同士も仲がよく、上が下に教えることがしっかりした教室でした。大学や高校の全国大会で上位に入る自分より強い人とたくさん指し、英春流で分からないことがあれば、親切に教えてもらうことができました。誰か大会で優勝すると報告して、みんなで拍手。人が努力したことを認め、他人の結果も喜ぶことを大切にしていました。勝つことだけを考えて手が伸びない将棋ではなく「楽しくなければ将棋じゃない」が教えでした。

――テレビで英春先生が野原家に出向いて家庭教師のように教えているシーンを見ました。ご自宅で教わることもあったのですか。

野原 英春先生から認められ、プロになりたい一部の生徒に英春先生が出向いて教える「直伝」という制度があって、私も小5の頃から教わりました。直伝だけで300局以上教えてもらいました。田中沙紀さん(元女流3級)も直伝で指導を受けた1人です。

対局相手が「何をされたか分からないうちに負けていた」

――今年の2月には英春先生と「激レアさんを連れてきた。」(テレビ朝日系)に出演されて、「謎のおじいさんが生み出した秘伝の将棋の技を教わったら、将棋界最強の女子中学生となってしまった女の子」と紹介されていましたね。

野原 地上波だけあって、反響はすごかったです。番組は面白くまとめられていて、学校で歩いていても「激レアさんだ!」と口々に言われ、恥ずかしかったです(笑)。

――勝てなかった男の子に英春流で勝ち「何をされたか分からないうちに負けていた」と言われたことも番組で紹介されていました。

野原 通い始めて10カ月後、小5の5月の倉敷王将戦県大会で、その子に勝って初めて代表になることができました。その子はとても強かったから、富山の小学生の間では、絶対に勝てないみたいな雰囲気がありました。でも、私が勝ったことで「もしかしてオレも勝てるんじゃね」とみんなが思ったみたいで、次の小学生名人戦の県大会では、その子は別の子に負けてしまい、決勝では私がその別の子を倒して代表になりました。

――未蘭先生が勝ったことで、富山の小学生のレベルが上がったんですね。

野原 そうかもしれません(笑)。みんなやる気がでたような気がします。

教室では1人の人間として認めてもらっている気がしました

――女子小学生大会の駒姫名人戦(東京や横浜のデパートの将棋まつりで行われる)にも、小2から参加されていましたね。

野原 小学生の頃は、自分から「この大会に出たい」という気持ちはなくて、父が調べて申し込む感じでした。駒姫名人戦は夏休みに行われるので、大会のあとは東京観光を計画して私が楽しめるようにしてくれました。富山では将棋を指す年齢の近い女の子はいなかったので、東京に来ると「これだけ将棋を指す女の子がいるんだ」、「小学生の女の子だけで大会が成立するんだ」と新鮮でした。小5、小6ではAクラスで優勝することができました。

――確かに女の子は少ないですね。富山では将棋仲間は男の子ばかりで、寂しい思いや嫌な思いはしませんでしたか。

野原 初めに通った教室では、将棋が終わったら男子も女子も関係なく一緒に遊んでいました。大会でも「野原に負けたくない」と言われることはあっても「女子に負けたくない」とは言われなくて、1人の人間として認めてもらっている気がしました。大人の方からは、めったにいない女子に将棋を続けてもらいたいと可愛がってもらったと思います。

――男子が圧倒的に多い将棋界で、女子が強くなる条件の1つとして「男子の輪の中に、女子とあまり意識されることなく溶け込める」があると考えています。未蘭先生は、その能力があったと思いますか。

野原 そうですね。あるほうだと思います。周りに恵まれていたかもしれません。

「早稲田の皆さんにはとても良くしていただきました」

――社団戦(東京アマチュア将棋連盟が主催する1000人規模の将棋大会で年5回ある。自由に作る7人チームの団体戦で、棋力別に1部から7部に分かれている)では、1部のオール早稲田チームに参加していましたね。

野原 父が早稲田大学将棋部の出身で、レギュラーではありませんでしたが、今でもOB同士強いつながりがあります。私が中学生名人になったとき、OBで早稲田関係の社団戦チームの世話役的な方が「すごいことだよ。良かったら娘さん、1部のチームで参加しないか」と声をかけてくれました。父も「社団戦1部なんて、強いアマばかりで勉強になる」と勧めてくれました。社団戦前日にはOBの方で中学生名人お祝い会も開いて下さいましたし、社団戦では勝てば「よくやった!」、負けても「すごく強い人だから仕方ない。勉強になったよね」というアットホームな感じ。現役生も交えた研究会に何度も誘ってくれ、早稲田の皆さんにはとても良くしていただきました。

奨励会は「傍目で見て、甘くないとも思いました」

――お父様は昔から大学将棋でトップ争いをしている早稲田の出身だったのですね。大学で将棋に熱中した経験から、未蘭先生に強い人と指せる機会を作ってくれたのでしょうか。

野原 父は強い人と指すのが一番の勉強と考えていました。富山から東京に出るのは金銭面でも大変なのに、しょっちゅう東京の大会に出させてくれました。女性大会や、令和最強戦(トップアマが集まる高額賞金大会)など、年に15回くらい東京遠征していました。

 弱いうちは大会で「なんでこんな手を指したんだ!」と父にガミガミ怒られていましたけれど、強くなるにつれて次第に言われなくなりました。

――小6では倉敷王将戦全国ベスト8ですし、中3では中学生名人戦優勝と男女混合の大きな大会で実績を残しました。奨励会受験は考えなかったのでしょうか。奨励会試験には大会成績によって受験生同士の対局がメインの1次試験が免除になる制度があり、中3では1次試験免除資格もあったわけですが。

野原 小6や中1では考えませんでした。でも中3で中学生名人になったときは、周りからも「奨励会受けるんでしょ」と言われました。「入ってみていけそうなら四段を目指せばいいし、それがダメでも強い女流棋士になれる」と。一方で、ライバルだった男の子からは「奨励会は当番もあって前泊もしないといけない。富山から通うのは大変」と聞きましたし、すごく強いと思っている女性が奨励会で苦戦しているのを傍目で見て、甘くないとも思いました。

「この先はまずは実力をつけ、目の前の女流棋戦を頑張らないと」

――男子と同じ条件で四段を目指すという思いは持てなかったのでしょうか。

野原 そうですね。その覚悟は持てなかったです。もちろん強くなりたい気持ちはありました。でも、男子は奨励会を抜けるしか道がないのに、自分は強くなって女流棋士になれればいいやと奨励会に入るのは、違うような気もしました。四段になる覚悟がないのに入るのは失礼だとも。迷ったのですが、結局見送った感じです。

――この先も奨励会に入ることは考えませんか。女流でタイトルを取ったりして男性棋戦出場権を得て勝ち星を重ね、棋士編入試験を受ける道もあります。

野原 高1で5級受験が必要だった(年齢によって受けられる級に制限があり、平手メインの試験対局になる6級は、15歳までしか受験できない)昨年が奨励会試験ラストチャンスでした。この先はないと思います。棋士編入試験は、女流タイトルを取って、男性棋戦で勝てるくらいにならないと考えられないです。まずは実力をつけ、目の前の女流棋戦を頑張らないといけません。

中学選抜で優勝「一番と言っていいくらい嬉しかった」

――中学選抜(男女別に県代表を決める中学生の大会。全国大会は山形県天童市で行われる)女子の部では1年で準優勝、2年で3位、3年で優勝でした。

野原 3年生で優勝できたのは、多くの大会の中でも一番と言っていいくらい嬉しかったです。中学生で一番格式の高い大会ですから。

 1年生のときは、決勝で時間切れ負けをしてしまいました。勝勢で詰みがあることも分かっていたのに「確認しなきゃ」とじっくり考えてしまって。時計の音に「あと数秒」と気が付き、慌てて王手して時計を叩いたら切れてしまいました。相手もびっくりしたと思います。いつもは詰みが見えたらパっと指すのですが、その時は不思議な感覚でした。決勝で緊張していたのと、谷川浩司九段(将棋連盟会長として来場していた)がご覧になっていたのもあったかもしれません。男子の部決勝は王手放置で決着が付き、すごい年だったと言われました。

増田康宏六段が角落ち対局で「今回は本気でやりました」

――女流アマ名人戦では史上初の3連覇という素晴らしい結果を残しています。特に力を入れていたのですか。

野原 最初に優勝した中2のときは特別な回で、ベスト4まで東京で決め、その続きは後日(日本将棋連盟の旅費負担で)天童市の滝の湯ホテルで行うことになっていました。中1のベスト8を超えてベスト4に残り、中学選抜でも行った天童に行けることになり、嬉しかったです。強敵だと思っていた真帆ちゃん(礒谷女流初段)、小野ゆかりさんに宮澤紗希ちゃん(2人とも女流プロ資格を満たしたこともあるアマ強豪)はベスト4の前で負けていて「チャンスじゃね」とポジティブに考えました。天童では2回勝てば良く、優勝することができました。

――優勝すると、女流王将戦や倉敷藤花戦のアマ枠に選ばれる可能性が高くなる、男性アマ強豪が集まる全国大会、赤旗名人戦や朝日アマ名人戦に女性代表として出られるなど特典がたくさんあるのですよね。

野原 そうなんです。「こんなに特典があるなら、来年も頑張ろう」と思いました。中3のときは、中学生名人戦と中学選抜の優勝の後で、女流アマ名人戦も本命視されました。前のような気楽な立場ではなくなり、やりにくかったです。対策も立てられた中で優勝することができました。高1のときは、夏の高校生大会で入賞すらできず、「女流アマ名人戦だけは結果を残したい」と思って臨みました。予定されていた日に台風が来て、1日順延になって大変でしたけれど、思い入れのある大会で3連覇できて嬉しかったです。

――女流アマ名人戦優勝により、しんぶん赤旗の企画で時の新人王と対局しています。中2のとき増田康宏六段、中3のときが藤井聡太二冠ですね。そのときのことを教えて下さい。

野原 両方とも角落ちでした。増田先生は2年連続新人王で、前年は真帆ちゃんと対戦し、真帆ちゃん勝ちと聞いていました。下手が勝つことは滅多にないそうで、増田先生は連敗するわけにいかないと思われたみたいです。ボロ負けしてしまい「今回は本気でやりました」と言われました(笑)。指導対局とは違う1対1の真剣な対局で「プロの本気ってすごい」と強さを体感できたのは、とても貴重な経験だったと思います。

藤井二冠はテレビで見たまんまで謙虚

――藤井二冠とは?

野原 有名人なので緊張しました(笑)。その対局も完敗でした。でも、私の良かった手を褒めてくれ嬉しかったです。対局を丁寧に振り返って「この局面ではこうしたほうが良かった」と優しく教えてくれ、質問にも答えてくれました。時間を余らせて負けてしまったので「時間配分を工夫したらもっと強くなりますよ」とアドバイスをいただきました。それから時間配分に気を付けるようになりました。

 それまで私は序中盤で悪くしてから終盤でひっくり返すような将棋を指していました。それでは本当に強い相手には通じません。アドバイスを生かし、序中盤でも時間を使い自分が良くなるようにしっかり考えるようになりました。

――そんな藤井二冠は1歳年上。同世代と言われることもありますが、どう思いますか。

野原 実際にお話しした藤井二冠は本当に謙虚で、テレビで見たまんまでした。すごく落ち着いていて、とても1歳上とは思えませんでした。和田はなちゃん(女流2級。藤井二冠の1歳年上)とも話したのですが、あまり藤井二冠と同世代とは思ったことはなくて、近いのは年齢だけで、見習うべき相手というか……。

――藤井二冠の活躍を見て思うことはありますか。

野原 あれだけ年上の棋士に勝ちまくっているのはすごいなと思いますし、将棋は年齢が関係ないのが魅力だと思います。藤井二冠は将棋を楽しんでいるのも伝わってきて、そこも素晴らしいです。

写真=松本輝一/文藝春秋

「重厚な将棋に憧れて……」17歳の女流棋士が“鉄板流”森内俊之九段に弟子入りするまで へ続く

(宮田 聖子)

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