《パリ教師殺害》日本では報じられない事件の”真相”とフランス国民の本音

文春オンライン / 2020年10月21日 6時0分

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亡くなった中学教師サミュエル・パティさん ©AFLO

 授業で預言者ムハンマドの風刺画を見せた仏の中学教師サミュエル・パティさんが10月16日、パリ郊外で首を切り落とされて殺害された。

 実行犯であるチェチェン共和国出身のイスラム教徒アブダッラー・アンゾロフ(18)は既に警察によって射殺されたが、犯行後、切断した首の写真とともに《異教徒の指導者マクロンよ、ムハンマドを冒涜したおまえの犬1匹を処刑した》とツイートしていた。

犯人が触発された可能性が指摘される“ファトワー”とは

 仏のダルマナン内相は、同犯行は「ファトワー」と呼ばれるイスラム教の宗教令に触発された可能性があると指摘し、このファトワーを発行したイスラム教指導者アブドゥルハキム・セフリウィとパティ氏の教え子の父親を既に拘束したと述べた。

 ファトワーというのは、特定の問題についてイスラム法学者がイスラム法的な見地から発行する意見である。それは口頭で述べられる場合も、文書の場合もある。7世紀のイスラム教の創始以来、現在に至るまで、イスラム世界にはあらゆる問題について一般信徒や為政者の求めに応じ法学者がファトワーを発行する伝統があるのだ。

 ファトワーというのはあくまでも「一見解」にすぎず、それ自体は裁判の判決のように執行力を伴うものではない。だが特定のファトワーを真と信じるイスラム教徒にとって、その内容は時に神の命令に匹敵する強いメッセージとして受け止められる。

 1989年、小説『悪魔の詩』の著者であるサルマン・ラシュディに対し、預言者ムハンマドを冒涜した罰として死が相当であるというファトワーを発行したのは、イラン・イスラム革命のイデオローグにしてイランの初代最高指導者ホメイニ師であった。1991年に同書を日本語に翻訳した五十嵐一氏が何者かによって首を切られて殺害されたのも、このファトワーと関係しているのではないかと報じるメディアも国内外に数多くあった。

イスラム教は殺人を禁じている――イスラム教指導者たちも非難

 仏メディアは今回、当該教師殺害を命じるファトワーを発行したとされるセフリウィについて、モロッコ出身であり国家治安の脅威とみなされる個人のリスト(Fiche S)にも記載され、長らく当局から過激派として目をつけられていたと報じている。斬首を実行した18歳のイスラム教徒がセフリウィのファトワーを知り、自発的に行動に及んだとしても全く不思議はない。

 イスラム教徒がある行為を宗教的義務であると信じて実行する場合に必要なのは、“強い信念”と“行動力”のみである。一般にイメージされるような組織も、資金提供も、綿密な計画も彼らは必要としない。

 この凄惨な事件については、イスラム世界のイスラム教指導者たちも声明を出している。

 エジプトのイスラム学の殿堂であるアズハルとエジプトの大ムフティー(ファトワーを発行する人の意)シャウキー・アッラーム師はともに、イスラム教は殺人を禁じているとして当該事件を強く非難した。

仏当局による陰謀論も

 一方、イスラム主義組織ムスリム同胞団の運営する世界ムスリム学者連盟(IUMS)の事務局長アリー・カラダギー師は、10月17日、「IUMSはフランス人教師殺害を非難すると同時に、人種差別的憎悪を煽り、宗教を攻撃した者を非難する」という声明を出し、被害者であるパティ氏が殺されたのは自業自得だと示唆した。さらにカラダギー師は同日、2回目の声明を出し、当該事件はイスラム教とテロを結びつけるために仏当局が計画したのであり、真犯人はまだ生きていると主張した。いわゆる陰謀論である。

 カラダギー師は仏マクロン大統領について、「極右」で「十字軍イデオロギーの持ち主」とも述べている。

 イスラム法は確かに、預言者ムハンマドを冒涜した者を死罪と規定する。実際、今もほとんどのイスラム諸国では、預言者ムハンマドを冒涜した者を厳しく罰している。しかしそれは、イスラム諸国で施行されている法がイスラム法の規定や価値を反映しているからである。

フランスではムハンマドの冒涜も表現の自由の範囲内

 フランスはそうではない。フランスで施行されているのは共和国法であり、イスラム法的価値はそこには反映されていない。むしろ、イスラム法が禁じる預言者ムハンマドの冒涜を、表現の自由の範囲内として認めるのが共和国法であるという点において、両者の価値観は対極に位置すると言っていい。

 イスラム過激派との戦いはイデオロギー戦。これは実際にイスラム過激派と戦っているあらゆる当事者が共有する、極めて基本的な認識だ。

 マクロンは10月2日、新たなイスラム過激派対策法案を12月に閣議提出する予定だと演説した。新法案は、義務教育を3歳からに引き下げ、全国民に幼いうちから、特定の宗教や権力に囚われるべきではないという世俗主義を身につけさせることや、過激思想の源とされる外国人イスラム教指導者の受け入れを禁じ、指導者を国内で育成することなどを含む。仏調査会社ODOXAの調査によると、同法案を支持する仏国民の割合は8割にのぼる。

世界中のイスラム教指導者に迫られる選択

 2015年1月にイスラム過激派テロリストが新聞社「シャルリー・エブド」の本社を襲撃した事件や、同年11月にパリ市街や郊外で相次いで銃撃や爆発が起きたパリ同時多発テロなど、フランスは相次ぐイスラム過激派によるテロに見舞われている。いま、仏の世俗主義、共和制は既に瀕死の状態にあるという危機感を多くの仏国民が共有しているのだ。

 世界中のイスラム教指導者は、あくまでもイスラム的価値を普遍的なものとして押し通し、フランスだろうとどこであろうと預言者ムハンマドを冒涜した人間が殺害されるのは自業自得だと主張し続けるのか、それともイスラム過激派テロとの戦いを優先させ非イスラム諸国とも連携し協力していくのか。いま、その選択を迫られている。

(飯山陽/Webオリジナル(特集班))

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