「日本は政治的“ピグミー”だ」ロッキード事件の裏側で田中角栄への侮蔑を重ねたリチャード・ニクソン

文春オンライン / 2020年10月30日 6時0分

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 戦後最悪の国際的汚職事件「ロッキード事件」。その真相が、今回ようやく明らかとなった。しかし、現在に至るもなお数多くの陰謀説が囁かれ続けている。田中角栄は事件にどのように関わったのか、ニクソンとの関係は良好だったのか、なぜ事件は起きてしまったのか……

 国際ジャーナリストである春名幹男氏が、15年に及ぶ取材で掴んだ数多くの新事実を書籍『 ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス 』(KADOKAWA)より引用し、紹介する。

◇◇◇

「日本は良き同盟国ではない」

 1973年1月31日、ニクソンは首相を退任した佐藤のために、秘書の楠田實(くすだみのる)や外務省高官らもホワイトハウスに招き、夕食会を開いた*1。

*1 NL President Richard Nixon’s Diary, January 31, 1973

 佐藤をもてなす合間の同日夕、ニクソンは午後5時前から1時間余り、前財務長官のジョン・コナリーらと懇談した。コナリーはジョン・F・ケネディ大統領暗殺時にテキサス州知事で、ケネディの前の助手席に座っていて、重傷を負った人物として知られている。ニクソンは、野党民主党員の彼を財務長官に抜擢(ばってき)。前年の大統領選挙で、コナリーはニクソンを支持する民主党員票の掘り起こしに協力した。

 そのコナリーとの懇談の席で、ニクソンは田中のことを、次のように非難した*2。

*2 FRUS, 1969-76, Volume E-12, Documents on East and Southeast Asia, 1973-1976, Document 167. Conversation Between President Nixon and John B. Connally, Washington, January 31, 1973

 コナリー「いま佐藤が来ていますか」

 ニクソン「彼は日本で今も尊敬され、われわれの友人だ。彼が首相の時、現在の田中首相の時よりずっとうまくやれていた。田中は非常に生意気で強硬だ。佐藤は岸と同じように米国を助けてくれた」

 それから約半月後の1973年2月16日、ニクソン大統領は閣僚らと国際貿易・通貨問題を議論した。その際、ニクソンは日本経済に対する強い不信感をぶちまけている。

「日本の大商社がすべて政府と共同所有されていることはみんな知っている」

「基本的な問題は、貿易分野で日本が良きパートナーではないことだ」

「田中に関して言えば、日本は良き同盟国ではない*3」

*3 *2同、Document 168

ニクソンの感情的な発言

 以上、1973年1月と2月のニクソンの生の発言を紹介した。いずれも、国務省歴史室が地域・年代別に発行する「米国の外交関係(FRUS)」シリーズの「1973~1976年東・東南アジア編」「日本」の項に、掲載されていた。

 原典は、両方とも録音テープだった。ニクソン大統領はホワイトハウスでの会話を録音していたので、今も録音テープが残されている。

 上記二件の発言は、国務省歴史室の「ヒストリアン(歴史記録者)」が重要性に注目してFRUSに収録したものだ。日本関係のFRUSで生の声を記録したものは珍しい。これらの大統領の発言が、米国の対日外交の重要な部分を成すとみて、取り上げたのである。

 しかし、その内容はひどい。日本には国が保有する大手商社などない。比喩(ひゆ)的な言い方かもしれないが、感情的な発言には驚く。

日米関係見直しを二度指示した大統領

 ニクソン政権は、日本に対してどう対応すべきか、分からなくなっていたようだ。

 田中政権の日中国交正常化は米国側にしこりを残した。対日外交は何とかならんか、という気持ちになったのだろう。

 ニクソン政権は「対日政策」の見直しを指示する、同じテーマの「国家安全保障検討メモ(NSSM)」を1971年4月15日、さらに約2年後の73年3月7日、と続けて発出した。

 前者(NSSM122「対日政策*4」)では、「日本の国際的役割に関する日本の態度変化」「米中関係の展開の影響」など、国際環境の変化をテーマにしていた。

*4 Federation of American Scientists, Presidential Directives and Executive Orders, Nixon NSSM 122,Policy Toward Japan,(2019年11月26日アクセス)

 後者(NSSM172「米国の対日政策*5」)では、「対日関係をめぐる米国の基本的国益の特定」「向こう5年間の日本の関心と目標の特定」といった基本的な課題に関心が移っている。大統領は日米関係の基本を見直そうとしていた。

*5 FRUS, 1969-76, Volume E-12, Document 169. National Security Study Memorandum 172, March 7, 1973

 同年3月27日、愛知揆一蔵相とジョージ・シュルツ財務長官の会談が、ホワイトハウスのキッシンジャーの部屋で行われた。その会談の途中でニクソンが顔を出し、心にもないことを口にした。

「あなたに知ってもらいたいのは、私が良き日米関係に意を強くしたということだ。米国と欧州の協議は多々あるが、日本が加わらないと取引はできないことを知ってほしい。日米は二大経済大国で、対等だ。日本を外した米欧の取り決めなどない*6」

*6 *5同、Document 171, Memorandum of Conversation, Washington March 27, 1973

 続けて、同席したキッシンジャーに「首相の訪米の時間はとれるよね」と尋ねた。

 キッシンジャーはこれに、「イエス。8月初めです」と答えると、「いいことだ。首相と天皇にも会いたい。そして来年は私が日本を訪問する」とニクソンは言っている。

 翌年、自分がウォーターゲート事件で辞任し、思い通りに訪日は実現しなかった。

 ニクソンは、5月12日には、訪米した大平正芳外相と大統領執務室で会った。大平は田中より先に、ホワイトハウスで大統領を表敬訪問する栄誉に浴した。大平への米国側の期待が強いことを態度で示したのだ。

二度目の首脳会談へ日米がさや当て

 この頃、双方は7月31日~8月1日に設定された、田中とニクソンの二回目の首脳会談の準備作業にとりかかっていた。

 両首脳にとって悩みは、大統領も首相も支持率が低下していたことだ。ニクソンはウォーターゲート事件、田中は金権政治が問題にされ、両者は人気回復策で悩んでいた。

 当時、日米間の主要課題は、(1)対中国政策の調整と、(2)日米貿易不均衡だった。しかし、(1)は既に「主要な論点」ではなく、(2)は「解決への道筋が付けられたよう」に見えた。

人気回復に向けての外交プラン

 だから、キッシンジャーはニクソンに「相互に関心がある多国間問題での協力」について、次のような協議をするよう提案した*7。

*7 NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council Institutional (“H”)Files, Study Memorandums(1969-1974), National Security Memorandums, NSSM-172 (2 of 3), Box H-197、Memorandum For: The President, From: Henry A. Kissinger, Subject: Japanese Prime Minister Tanaka’s Visit: The Question of Focus

 ・日本の経済力に比例した役割を地域および世界で演じるよう求める。

 ・日本はエネルギー問題で、日本の協力が重要とされる地域で建設的に取り組む。

 ・新しい分野で米国とともに同盟関係への新たな日本の関心を創出する。

「こうした議題は、CIAの報告によれば、田中が好む」と付記されている。

ゴルフも散策も中止

 二度目の田中との会談に向け、ニクソンは手ぐすね引いていたとみられる。田中に意見してやる、と意気込んでいたのだろう。

 第一に、両首脳は一緒にゴルフする計画だったが、理由もなく止めた。

 前年、1972年のハワイでの首脳会談の際、ロジャーズ国務長官は、次にワシントンで会う時は大平と「一緒にゴルフしないか」と話していた。今回、大平からインガソル駐日大使を通じて「プレーのお招きをいただけたら大平も田中も大変ありがたい」と提案した。

 だから、首脳同士のゴルフも「同意されるなら、(会談前日の)7月30日でアレンジする」とロジャーズはニクソンに伝えた*8。

*8 NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3 ) to (3 of 3), Box 927, Secretary of State, June 7, 1973, Memorandum For The President, Subject: Possible Golf Match with Japanese Prime Minister Tanaka and Foreign Minister Ohira

 しかし、この計画について、キッシンジャーの部下は、7月18日付のキッシンジャーあてメモで「先月日本側から提案があったが、あきらめた」と連絡。キッシンジャーも、大統領あてメモで「ゴルフの可能性はない」と伝えた*9。ニクソンが断ったとみられる。

*9 *8同、National Security Council, July 18, 1973, Memorandum For : Mr. Kissinger From: John A. Froebe, JR. Subject: Proposed Schedule for U.S. Visit by Japanese Prime Minister Tanaka

 第二に、8月1日の会談終了後に、ホワイトハウスの「ローズガーデンを両首脳が散策し、二人で共同声明を発表。宇宙中継で日本のテレビにライブ映像を送信する」という日本側提案の演出も、同じ憂き目に遭った。

 日本の提案は会談前日の7月30日、キッシンジャーに伝えられた*10。しかし、当日の「大統領日誌」によると、「大統領は別れのあいさつをして、3分後に執務室に戻った」。米国側は、会談開始予定を30分繰り上げて午前9時半とし、テレビの宇宙中継はやるが、両首脳による共同声明発表には応じなかったのだ*11。

*10 *8同、National Security Council, Urgent Action, July 30, 1973, Memorandum For: Mr. Kissinger From: John A. Froebe, Subject: Prime Minister Tanaka Request

*11 President Richar Nixon's Daily Diary, August 1, Nixon Library,(2019年11月26日アクセス)

対日貿易赤字の削減を評価せず

 日米首脳会談前、課題とされていたのは二つ。第一に米国の対日貿易赤字削減、第二に対中関係で異なる日米の政策をいかにして両立させるか、だった。第二点、日米の対中政策の相違は、まだ問題化していなかった。

 米国の対日貿易赤字は前年の約40億ドルの半分以下に削減されることが確実となっていたので、ニクソンが高く評価して当然だった。

 だが、会談一日目、7月31日のニクソンは上から目線で、傲慢な話し方が目立つ*12。

*12 FRUS, 1969-1976, Volume E-12, Documents On East And Southeast Asia, 1973-1976, Document 179. Memorandum of Conversation, Washington, July 31, 1973,11 a.m.

 田中は「1973年上半期、日本の対米輸出額は前年同期比8%しか増加せず、逆に米国からの輸入額は49%増加して、日本の貿易黒字額は約12億ドルに大幅削減となった。日本政府の景気刺激策で内需が拡大し、達成した」と成果を明らかにした。

 しかし、ニクソンはこれに対し、労をねぎらうわけでもなく、「日米のような高度に発達した先進国は競争の運命にある。……こうした競争が激しい政治的対決に発展しないようにすべきだ」と将来の日米対決に警告した。

 その上で、ニクソンは「首相は『コンピューター付きブルドーザー』と呼ばれている。どれほど難しくても首相のような指導者は、危機回避に貢献してくれる」と期待感も示している。 

日本人は「裸で立っているピグミー」か

 その後、ニクソンは次のように、計三回、日本をアフリカの「ピグミー族」にたとえる差別的な発言をした。

 ニクソン 「 自分の基本的な見方だと、経済大国は政治的なピグミーにとどまることができないということだ。それは自然の法則に反する。経済大国は政治的ピグミーにとどまれない……首相は日本が将来歩むべき道をどう考えるのか」

 田中 「 すべての日本国民は米国が過去四半世紀、日本に与えた援助に感謝している。それによって、日本は全面的敗北から復興するまれな成果を挙げた。日本国民の基本的な願いは、米国と緊密に協議し、永久に自由諸国とともに地位を維持することだ」

 ニクソン 「 中国、ソ連、日本、米国を見ると、一つの事実が際立っている。日本は近隣諸国の中でソ連などとは対照的に、経済大国ながら軍事的かつ政治的にはピグミーとして裸で立っている。……現在の安保関係の取り決めは、それら諸国が熟れたスモモのような日本を見ても、むしり取ろうと思わないよう、最良の保障となっている」

 田中 「 大統領の見方と同感です。米国と日本の固い結合が他のあらゆる関係にとっても重要です。それなしに日本は中国と国交正常化できなかった」(太字部筆者)

侮蔑を受け止めた田中角栄

 田中はニクソンから「ピグミー」と侮辱されても、反発することなく、戦後米国から受けた支援に感謝し、安保条約のおかげで日本は守られていると認めた。そして、日米安保があったから日中国交正常化ができた、とも主張した。論理的には、のれんに腕押しのような反論だ。

 では、「五年後の世界」はどうなるか。ニクソンは「日米安保条約が廃棄され、日本で支持されなくなったら、多くのアメリカ人は喜んで出て行く。韓国から米軍も撤退する」と言った。言うことを聞かなければ米軍を撤退させる、というカードをここで見せた*13。

*13 *12同

 それにしても、日本と日本人に対して、これほど侮辱的な言葉を使った米大統領がいただろうか。日本側の会談記録はどうなっているのか。外務省に情報公開請求して入手した*14。

*14 外務省情報公開第00014令和2年4月2日、開示請求番号2019-00903

 外務省の会談記録では、ピグミーを訳さず「政治的な小人(political pygmy)」とカッコ付き、あるいはカッコなしで英文のまま記していた。「田中総理・ニクソン大統領会談の模様」と題する1973年8月23日付9ページの文書は、こうした刺激的な発言を省いていた。この会談が外交問題化しないよう配慮した形だ。「ピグミー」は、『リーダーズ英和辞典』(研究社)によると、「アフリカ赤道森林地帯の矮小黒人種」とある。それが転じて「こびと」「知力の劣った人」という意味もあるとしていて、差別的に使用され得る言葉であることが分かる。

“アメリカの虎の尾を踏んだ”からロッキード事件は起きた? 戦後最大の汚職事件を巡る通説と真実 へ続く

(春名 幹男)

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