「母さん許して!」なぜ“我欲の鬼女”は叫ぶ我が子を出刃包丁でメッタ刺しにしたのか?

文春オンライン / 2020年10月25日 17時0分

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一審判決は厳しい量刑だった(東京朝日)

父が主謀、母が殺害、妹が協力…一家で息子を惨殺した日大生保険金殺人事件とは から続く

< 父が主謀、母が殺害、妹が協力…一家で息子を惨殺した日大生保険金殺人事件とは >より続く

毒の量を間違え、注射も失敗…失敗続きの殺害計画

 息子・貢のあまりの自堕落ぶりに、これ以上諭しても無益で、到底立ち直る見込みはないといよいよ保険金殺人を実行する決意をした父・寛と母・はま。ここから、寛とはまが共謀した貢殺害計画が実行に移されるが、何回も失敗する。成功を期待するのはおかしいが、ここでも犯行はどこか間が抜けていて笑うに笑えない雰囲気がある。

(1)1935年6月10日ごろ、寛が本郷の薬局で亜ヒ酸25グラム入り1ビンを購入。致死量を指示してはまに渡した。はまは自宅で亜ヒ酸茶さじ1杯を柳川鍋に混入して貢の食膳に出し、貢に食べさせたが、亜ヒ酸が溶けないまま鍋の底に沈殿してしまったため目的を遂げられなかった。

(2)6月20日ごろ、寛は貢殺害をはまに託して樺太へ帰った。7月初めごろ、はまは栄子に保険金殺人計画を立てたいきさつを話して、殺害は一家の災いを除き、他の姉妹らの将来のためだと力説。協力を求めたところ、普段父母に従順な栄子も驚いて思い直すよう求めた。しかしはまの決意が固く到底止められないことを知って計画への参加を決意した。7月初旬ごろ、2人は亜ヒ酸茶さじ半分くらいをコロッケ1個に混入し貢の夕食の膳に供したが、貢が食べなかったため失敗した(のちに「貢はコロッケが嫌いだった」と書いた新聞もあった)。

(3)同年夏、貢は暑中休暇で樺太の徳田病院に帰省。9月12日ごろ、寛は梅毒治療にかこつけて2種類の蒼鉛剤を注射器に入れ、見習看護婦に静脈に注射するよう命じたが、見習看護婦が不審に思って薬局の雇い人に相談したところ、止められたので、尻の筋肉への注射に変えたので殺害に失敗。

(4)帰京した貢から注射のことを聞いたはまは対策を講じるため、9月下旬、樺太へ帰ったが、それに先だって栄子に亜ヒ酸を渡して毒殺を命令。栄子は10月の2回にわたり、自宅で亜ヒ酸を米飯に入れ、貢に食べさせたが、1回目は分量が少なかったため、2回目は分量が多すぎて貢が吐き出したため失敗した。

(5)9月下旬ごろ、徳田病院に帰ったはまは、寛が愛人を病院に引き入れて同棲していたのを責め、愛人を追い出した。10月中旬ごろ、寛に対して、自分が引き受けたのに寛が注射で殺害しようとしたことを責め、逆に寛から殺害が遅れていることを難詰された。はまは「毒薬では目的を達することは困難。出刃包丁で殺害し、強盗に襲われたように装う」と言い出し、寛もはまに一任した。帰京したはまは10月25日ごろ、栄子に協力を求め、計画に基づいて具体的な殺害方法と、殺害後に強盗に襲われたと届け出る時の人相、着衣、年齢などを詳細に打ち合わせた。同月29日ごろ、2人で銀座三越で出刃包丁1丁を購入。研ぎを加えて台所の棚の上に隠し、機会をうかがった。

ここからいよいよ生々しい犯行の場面となる。

「母さん、許して!」

 11月3日午前1時ごろ、貢が外出先から帰宅。好機至れりと、はまは貢と栄子を階下玄関脇の3畳間に座らせたうえ、貢に向かって寛の不行跡を語り、併せて長男としてとるべき態度についていろいろ訓戒を与えるように装って懇談。その間、機会を見て出刃包丁を台所から持ち出して右手に持ち、丹前の下に隠して貢の左後方に立ってすきをうかがった。

 さらに栄子をうながして、打ち合わせ通り、当時兀がやっていた、手ぬぐいで両手首を十字に縛り口で解く手遊びを貢にさせるよう持ち掛けさせた。貢が立て膝をして口で結び目に当てて解こうとしているすきに、はまが出刃包丁で力を込めて貢の左頸部を刺した。

 貢は「母さん、僕が悪いんだよ。許して」と謝り、出刃包丁から逃れようとして、3畳間に接した中廊下に出てあおむけに倒れた。「母さん許して」などと大声で叫ぶと、はまは凶行が外に知られるのを恐れ、慌てて貢に追いすがり、さらに出刃包丁で貢の体各所に切りつけ、最後にはまと栄子の二人で貢の首を突き刺した。

 結局、頸部、背部、左右上肢などに刺し傷17カ所、切り傷5カ所などを負わせ、その場で右前膊刺創(橈骨動脈全断)による失血並びに頸部刺創(左頸静脈左側大半の切断)による空気塞栓により死に至らしめた。

 瀕死の貢が「母さん、分かったよ」「栄子、僕は死ぬから末期の水を飲ませてくれ」と言ったと書いた新聞もある。こうやって犯行の模様を見ていくと、いかに放蕩無頼とはいえ、貢の最期が哀れに思えてくる。

 昭和事件史の「谷口富士郎の犯罪」もそうだったが、同じ家で一緒に暮らす肉親が自分の殺害を狙って機会をうかがっている不気味さ、無残さは想像を絶する。それは一種の「魔界」なのかも。未遂も5回重なれば、何かを感じてもおかしくない。貢がなじみの娼妓に予感めいたことを漏らしたのも当然のような気がする。

「とうとう貢を殺しました」「よくやってくれた」

 その後も新聞は連日大きく報道した。1935年12月20日付東朝夕刊の「親の愛微塵もなし 『よくやってくれた』 妻を賞(ほ)めた夫」の見出しの記事は、犯行後、はまからの電報を受けとった寛が11月7日、本郷の家に着いた時のことをこう書いている。「(はまは)夫の膝に泣き伏しながら『お父さん、とうとう貢を殺しましたよ』と告げると、『よくやってくれた。後が大事だからしっかりしておくれ』と、寛も涙声になってはまを励ましたものである」。

「肉親の血を吸ふ(う) 愛の世界の叛逆者 たゞ(だ)貪慾(欲)一筋道」の見出しは同じ日付の東日。はまと栄子が犯行を認めたのに、「父寛はいまだに一言も自白せず『貢の四十九日も近づき、親類知人を招いているから、なるべく早く帰してください』としらを切り、当局の嘲笑と反感を買っている」とある。

「社会から呪うべき一個の人間を葬り去ることがこの世のためだ」

 逆に悲劇的な色彩で扱われたのは栄子。両親に命令されてやむなく犯行に加担したという視点から人物像が描かれた。取調べ中から「純情な榮(栄)子 “父母を助けてください”」(12月19日付東朝朝刊)、「母や弟妹を 気遣ふ栄子」(12月20日付東日朝刊)などと報じられた。

 年が明けた1936年1月15日付東朝朝刊には「實兄謀殺の心底を截(た)つ 大罪に悶ゆる榮子の懺悔録」という栄子の手記の抜粋が載った。事件担当の野村佐太男検事を通して出たようで、ほかの見出しは「哀切!世に訴へる 肉親愛憎の極致篇」。記者の文章も「母をかばい、父を恨み、兄を呪い、そして不運のわれを嘆く、娘の切々たる告白」とすさまじい。

 その中で栄子は、父は酒好きで女狂いの軽薄・冷酷な人であり、母は、酒乱の夫と離別した祖母が産婆をしながら苦労して育てたと記述。自分はその間に生まれた運命から逃げられないとした。「母から不良の兄を殺す相談を持ち掛けられた時、私は、社会から呪うべき一個の人間を葬り去ることがこの世のためだという考えと、哀れな母を救う一つの道であると思い、何の躊躇もなく兄を殺すことに賛成しました」。

 家族を苦しめた兄の行状を振り返り、恨んでいる父に対しても「一家のため、ことに何も知らぬ秀子や兀のためと思うだけに、父さんだけは何とかして後に残ってもらいたかった」と述べている。

 記事には、栄子の手記を読んだはまが書いた文章も載っている。「こんなにまでして私を思ってくれた栄子を、ああ、この愚かな母はなぜなぜ娘を大罪の渦中に引き込んだのでしょう。娘がかわいい、いや、かわいそうでなりません」。栄子の手記はこの年に冊子として出版されたほか、「婦人公論」1937年7月号にも掲載されたが、内容は大筋で変わらなかった。

“徹夜組”も登場 傍聴人は早朝から定員を超えた

 殺人と殺人未遂、詐欺の共同正犯で起訴された3人の初公判は、事件から1年半以上たった1937年5月24日、東京刑事地方裁判所で開かれた。

「衂(ちぬ)られた肉親地獄」「眼前子を抉つ(えぐっ)た血刀 娘を真中に鬼畜の夫婦」(東朝)、「肉親愛の喪失 家庭の関心を動員して 裁かるゝ(る)父・母・妹」(東日)、「血に綴る肉親兇劇」(読売)と、5月25日付夕刊各紙の見出しは相変わらず華々しい。

 初公判がこれだけ遅れたのは、はまと栄子が起訴事実を全面的に認めたのに対し、予審段階で「父・寛一切を自白」(1936年1月8日東朝朝刊見出し)とされた寛がその後、共謀の事実や注射による殺人未遂を否認したからだろう。

 初公判でも「父寛又も犯行否認」と読売は見出しを立てた。法廷の模様について同紙は「夜半から雨にもめげず押し寄せた傍聴人は午前7時半、既に定員200人を突破」と記述。

 東日も「事件が事件だけに、傍聴人は前夜から詰め掛け、裁判所は『お定』以来のにぎわいを呈した」「婦人傍聴人は普通家庭のマダムふうの人が多く、この事件に対する家庭の関心がうかがわれる」と報じている。「お定」とは、愛人を絞殺して局部を切り取り、逮捕されて前年11月に初公判が開かれた「阿部定事件」のことだ。

親子に下された判決は…

 公判でも寛は否認を続け、同年5月26日の公判では、予審で罪を認めたことについて「警視庁で殴打されたり水をブッかけられて二度も人事不省に陥ったこと、検事にも頭を殴打されたためにめまいがして卒倒するようになり、予審廷でもフラフラ状態で認めさせられたと訴えた」(5月27日付読売朝刊)。

 これに対し、はまは犯行は自分一人でやったと栄子をかばった。5月28日には栄子が陳述。傍聴人が殺到し、「“純情の加擔(担)者”榮子立つ」が見出しの29日付東朝夕刊は「前回に比べて若い女性が多いのが目立ち、栄子の母校、小石川高女や日本女子大の生徒がその大部分を占めていた」と書いた。

 裁判長の尋問で貢殺害の場面にかかると栄子は「『どうぞお許しくださいまし。とても私の口から申し上げる勇気はございません』。これだけ泣き声で述べると、栄子は身を震わせて泣きむせんでしまい、傍聴席の婦人たちも一斉にハンカチを目に押し当てた」(5月29日付東朝朝刊)。

 1937年7月2日の求刑は寛が死刑、はま無期懲役、栄子は懲役8年。その後の公判ではまと栄子は「求刑は軽すぎる」と訴え、寛の弁護人は無罪論などを展開した。7月19日、寛とはまに求刑通り、栄子に懲役6年の判決が下された。

「人倫滅却の犯罪」(7月20日付読売夕刊見出し)、「憎むべきは寛 榮子には情の言葉」(東朝見出し)の内容。3人は控訴したが、既に同月7日には日中全面戦争が始まっていた。戦争報道に押されて控訴審のニュースは扱いが一気に縮小。ほとんどベタ記事になった。

 1938年6月18日の控訴審判決を報じた19日付東朝夕刊の記事も3段。寛は無期懲役、はまは懲役15年、栄子は懲役4年と、いずれも刑を減軽された。はまと栄子は刑に服し、寛だけが上告したが、同年12月23日、上告棄却となり刑が確定した。

「こんな人があんな大罪を…」

 その後のことは澤地久枝「保険金殺人の母と娘」(「昭和史のおんな」所収)が詳しい。全員仮名になっているが、それによると、寛とはまは1940年の「紀元2600年」の恩赦で減刑された。栄子はその時点で既に仮出所していたようで、その後、結婚したという。

 はまは「出獄時期ははっきりしないが(昭和)20年12月8日、敗戦後の疲弊し荒廃した世相の中で寂しく死んだ。数えの56歳であった」(同書)。

 寛は獄中にあった時から仏教に帰依し、仮出所後は東京都内の病院で、医者ではなく、患者の世話をする仕事をしていたという。顕本法華宗管長を務めた中川日史「いのちの四季」によれば、獄中の寛と長く文通し、宗教的な交流を続けた。「こんな人があんな大罪をと不審するような、いわば好々爺であるのも嬉しかった」と書いている。しかし、その後、兀と思われる寛の末子から死亡したと連絡を受けた。生前「懺悔録を書きたい」と言っていたが、果たせなかったようだという。

日本初の保険金殺人だったのか?

 ネットメディアなどは、この事件を日本初の保険金殺人事件としている。しかし、田村祐一郎「家族と保険」(「生命保険論集No.148」所収)には「本邦初の保険金殺人事件は、明治25年、東京・本郷においていとこ同士の間で発生した毒殺事件であろうか」とある。犯人はいとこを毒殺したのち、保険金1000円の詐取を図って失敗し、逮捕されたという。

 同論文は「昭和10年から12年は保険犯罪史上まれにみる時期であった」と述べる。集団放火事件、自殺強要事件、チフス菌殺人事件が連続して起きた。その後、戦時下で保険犯罪は途絶えるが、日大生殺しは「明治から大正を経て昭和戦前に至る保険犯罪史の最期を飾る事件であった」(同論文)。

 戦争が身近に感じられるようになって、家族が兵士として出征し、家の収入が激減するその保障に「徴兵保険」が広く普及した。その意味で不安な時代だったといえるのだろう。

 保険はイギリスが発祥で、明治時代に日本に移入されたが、当時から巨額の保険金をつけた契約について毒殺や自殺の疑いから契約者が保険会社ともめる事件が続出したという。

 月足一清「生命保険犯罪 歴史・事件・対策」は、「保険がなければ1日も暮らせなくなった20世紀を『保険の世紀』と呼ぶ」と説明。逆に「『極めて少額の保険料で多額の保険金や給付金を約束する』保険の本質的な仕組みは、特に経済的困窮に陥った悪意の人々によって逆用され、故意に保険事故を引き起こされる可能性を内包している」と書いている。

 同書によれば、寛が貢に生命保険をかけていたうちの1社が「死因に不審を抱き、捜査本部に相談した。これが謀殺発覚のきっかけとなった」という。

 事件の弁護人だった太田金次郎は著書「法廷やぶにらみ」の中で「この事件は二・二六事件、阿部定事件とともに昭和の三大殺人事件として騒がれたものである」と書いている。

 弁護士の森長英三郎「日大生殺し事件」(「史談裁判第3集」所収)によれば、論考で野村検事は万葉集の山上憶良の「しろがねもくがねも玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも」を引用したという。

「親は子に対して慈愛を注ぐから、子は親に対して孝行をしなければならない。父母の恩は海よりも広く深い。父母ばかりではなく、父母の父母、祖先を尊ばねばならぬ、との儒教道徳から明治以来の封建的な家族制度がつくられた」

「家族制度は旧日本の体制の根幹であり、親の子に対する慈愛は家族制度の出発点であった。日本帝国主義の大陸進攻政策は、消耗品として兵隊、植民のための人間を必要とし、人口はいくらあっても足らなかった」

「そういう時に起こったのが日大生殺しであって、国民に衝撃を与えた」

親の「子殺し」がもつ意味

 いまはまだしも、親が実の子を殺すことは常識では考えられないことだった。それはまた、戦争へ向かおうとする時代の日本にとって、国家を支える家と家族制度を破壊する重大な行為でもあった。

 検挙直後の1935年12月18日付東朝朝刊には「實の親子間に あり得る事か こゝに鈍る當局の豫断」という記事が載っている。捜査当局の話として「真実の親子間にこんなことが行われ得べきことではないので、捜査本部の内輪にも謀殺説が立てられたが、まさかとその意見を排してきたのだ」としている。

 それが当時の普通の受け止め方だったのだろう。12月19日付東日朝刊は怒りと焦りを最大限の表現で次のような記事にした。それは時代が求めた声だったのだろう。

 残虐極まる殺人事件として世人の耳目を聳動(しょうどう=人心を驚かせ揺さぶる)せしめた本郷の日大生殺しは、果然保険金目当ての両親の謀殺事件と判明。しかもわが子に凶刃を振るった謎の下手人は母親と断定された。焼け野の雉(きぎす)、夜の鶴。自分の腹を痛めた実子を、しかも高等教育を受けさせて日大歯科3年まで進級し、実社会にスタートさせるのもここ1、2年の先に見えながら、かかる犯行をあえてしたことは世界にもその比を見ない冷酷無比な事件で、ことに実父の教唆により、実妹と共謀で自宅で惨殺するに至っては、わが国犯罪史上全くその類例を見ざる、わが家族愛の放棄であり、母性愛への反逆で、神人相容れぬ戦慄に耐えぬ犯罪である。

「焼け野の雉、夜の鶴」とは、いずれも子どもを思う深い慈愛を表すたとえ。事件はそうした日本の美徳の基本概念を破壊すると捉えたのだろう。もちろん、その論理は現代にはそぐわないが、親殺し、子殺し、虐待が頻発するいま、はたして代わりにどんな論理があり得るのか。

【参考文献】
▽「大審院刑事判例集第17巻」 法曹会 1938~1943年
▽太宰治「花火」=「文藝」1942年10月号所収
▽澤地久枝「保険金殺人の母と娘」=「昭和史のおんな」(文藝春秋、1980年)所収
▽中川日史「いのちの四季」 筑摩書房 1972年
▽田村祐一郎「家族と保険」=「生命保険論集No.148」(生命保険文化センター、2004年)所収
▽月足一清「生命保険犯罪 歴史・事件・対策」 東洋経済新報社 2001年
▽太田金次郎「法廷やぶにらみ」 東京書房 1958年
▽森長英三郎「日大生殺し事件」=「史談裁判第3集」(日本評論社、1972年)所収

(小池 新)

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