「グワーッ!」奥多摩山中で母グマと遭遇…猛り狂った獣が私の鼻を目がけて噛みついてきた

文春オンライン / 2020年11月5日 17時0分

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 生息域の拡大、人を怖がらないクマの増加、さまざまな要因により、全国各地でクマが人を襲う事故が急増している。特に秋はクマが冬眠に備えて食べ物を求めて活発に行動するため、人とクマとが急接近する時期だ。もしもあなたが行楽に出かけた先でクマと遭遇したらどのように対処できるだろう。

 ここでは、警視庁青梅警察署の山岳救助隊員としてさまざまな事故現場に立ち会った金邦夫氏による著書『 すぐそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘 』より、クマに遭遇したクライマーの恐怖の瞬間を紹介する。

◇◇◇

クマに襲われ瀕死の重傷

 警察庁で統計を取っている山岳遭難報告票の態様欄に「野生動物の襲撃」という項目がある。これは登山や山菜採りで山に入り、野生動物であるクマやイノシシなどと出くわして襲撃を受けたり、毒蛇のマムシに咬まれたりスズメバチに刺されて、けがをしたり命を落としたりするというものである。毎年けっこう多くの報告があるようだ。

 旧聞に属するが、2008年の夏の終わり、希代のクライマー山野井泰史*1君がクマに襲われ、瀕死の重傷を負ったニュースは大きく報じられた。あらためてその顚末を記してみよう。

*1 山野井泰史
1965年生まれ。単独または少人数で高難度のクライミングを実践している世界的クライマー。著書に『垂直の記憶―岩と雪の7章』『アルピニズムと死―僕が登り続けてこられた理由』(いずれも山と溪谷社刊)。奥さんの妙子さん(旧姓・長尾)も傑出したクライマーとして高い評価を受けている。

「ヤマノイ…クマ…」

 日当たりのあまりよくない〈奥多摩むかしみち〉*2沿いの古い民家を借りて、ひっそりと暮らしていた山野井泰史・妙子夫妻がいまの住まいに移り住んだのは、2人がヒマラヤのギャチュンカンから壮絶な生還を果たし、凍傷で失った手足の指の治療と静養に当たっていた時期のことである。新しい住居は山裾の南向きの高台で日当たりがよく、眼下に奥多摩湖が広がり、その対岸に御前山がどっしりと対峙している。

*2 奥多摩むかしみち
JR青梅線奥多摩駅から奥多摩湖まで旧青梅街道を歩くハイキング散策コース。多くは多摩川沿いにつけられており、峠や橋のたもとには江戸時代の信仰を伝える道祖神や馬頭観音などが往時のまま残り、昔の面影を伝えている。

 彼らは手足の指を手術した翌年の夏から、再び山にチャレンジを始めた。ハンディを克服しようと自分たちの登れる山を模索しながら、国内でトレーニングを続け、中国やグリーンランドの未踏の岩壁を登った。そのグリーンランドの大岩壁登攀の様子は、NHKのBSハイビジョンやNHKスペシャルで何度か放映されたから、山を知らない人たちにも、彼らの生き方は強烈な印象を与えた。

 その年の夏も2人は中央アジアのキルギスに遠征し、7010メートルのハン・テングリ峰と、1000メートルを超えるビッグウォールを2つ登って8月下旬に帰国した。

 9月16日、仕事が終わってから山野井家に顔を出した。ちょうど妙子さんは友人と北海道に行っており留守で、山野井君がひとり所在なげに自宅にいた。キルギスの山の話など聞いたあと、懇意にしていただいている道路下の室川さん宅に2人でお邪魔し、とりとめのない話を1時間ほどして、その日は家に帰った。

 翌17日、私は午前8時過ぎに奥多摩交番に出勤した。交番勤務員が、無線で通信指令本部と何事か通話していた。「ヤマノイ…クマ…」と聞こえた。「なに、どうした。山野井君がどうかしたのか」と聞くと、勤務員は「山野井さんがクマに襲われました」「どこでだ」「倉戸山だそうです。いま交番勤務員と山内(小隊長)さんが臨場しています」と言う。

もげそうな鼻

 私は素早く山岳救助服に着替え、「現場へ行ってくる」と言い置き、山岳救助車に乗り込んで青梅街道を飛ばした。妙子さんはいないし、ご両親への連絡もある。何より、軽傷であってほしいと祈るのみであった。途中、救急車とすれ違った。これに乗っているのだろうかと思ったが、取りあえず自宅の方に行かなければ状況が把握できない。そのまま急いだ。15分ほどで山野井宅に到着した。

 先着した警察官が隣家の松島さん夫妻から状況を聞き取りながら、通信指令本部に報告を続けていた。自宅の庭や玄関付近にも点々と血痕が付着しており、出血の多さが見てとれる。山野井君は先ほどすれ違った救急車で消防庁のヘリポートに向かい、ヘリで青梅市立総合病院に運ぶ手はずだという。私は道路下の室川さん宅に顔を出し、室川夫妻から詳しい状況を聞いた。室川さんの話では山野井君の鼻はもげそうになっており、血だらけの傷の脇から白い鼻骨が見えていた。鼻は皮1枚でかろうじて顔についている状況だったようだ。山野井君は到着した救急車に乗ってからも、室川さんに渡した連絡先への電話を何度も頼んでいったというので、ご両親や北海道の妙子さんなどへの連絡は済んでいるという。

顔面と右腕合計90針のキズ

 私はいったん交番に戻り、午前11時30分ころ青梅市立総合病院に行った。ヘリで運ばれた山野井君はまだ治療中で、治療が終わったらICU(集中治療室)に入るという。ICUの待合室には室川さんのほか、山野井君のお姉さん、友人などが待機していた。そして世界的クライマーの事故を知ったマスコミ関係者が大勢病院に駆けつけており、午後0時過ぎに早くもNHKニュースで山野井君がクマに襲われたことが流れた。午後0時30分ころに千葉から山野井君のご両親が到着し、別室に呼ばれて医師から説明を受けているようだった。4時間にも及んだ処置が終わり、午後1時30分、医師の記者会見が行なわれた。顔面と右腕の傷を合わせて90針の縫合をしたという。感染症を心配して2日間はICUに入り、感染症がなければ一般病棟に移って、1週間ほどで退院できるのではないかとのことだ。午後1時40分、妙子さんが北海道から駆けつけた。ホールにいた私を見つけ走ってきて、「どうです、鼻は大丈夫ですか」と聞くので「医者はなんとかつくのではないかと言っていたよ」と答えると、妙子さんもホッとした様子だった。

猛り狂った母グマとの格闘

 山野井君とクマとの遭遇はどんなものであったろうか。後日談である。

 朝7時過ぎ、山野井君は日課のトレーニングに出た。妙子さんがいないのでいつもより早い起床だった。数100メートル下の奥多摩湖岸の国道に沿って、山の中腹を細い遊歩道がダム上まで続いている。山の斜面には、増えているシカが山を荒らさないようにシカ除けのネットが張り巡らされている。遊歩道も金網のゲートで仕切られているが、だれでも自由に開け閉めして出入りすることができる。

 走り出して10分ほどの所にあるゲートを開けて入り50メートルほど走ったとき、ふと前方からこちらに向かって走ってくる獣が見えた。

「ンッ、カモシカかな?」

 獣は唸りながらこちらに走ってくる。

「???」。グワーッと吠えた。

「クマだ!」

 獣の後ろに小さな子グマの姿も見えた。山野井君は素早く反転しようとしたが間に合わず、クマに跳びかかられ、右上腕に嚙みつかれて山側に引き倒された。覆い被さってきたクマは人間の大人くらいの大きさで、腕を嚙みついたまま離さない。恐怖のなか必死の反撃を試みる。大声を上げながら左手の肘をクマの顔面に打ちつける。耳のそばで聞く、クマのすごい唸り声と荒い呼吸。野生の獣の臭い。猛り狂った母グマの顔が目の前にある。体験したことのない身の凍るような恐怖。

「ウオー」という咆哮

 クマの手は体のあらゆるところに爪を立て、こんどは山野井君の顔面に嚙みついた。ちょうど鼻のあたりである。唸りながらその顔を左右に振る。鮮血が飛び散る。必死に肘打ちを続けるが、これ以上続けたら鼻を食いちぎられてしまう。痛みと恐怖で何度も意識が飛びそうになる。抵抗をやめた。フッと力を抜いたら、クマも顔を離した。「いまだっ」両足に渾身の力を込めて蹴り込んだら、クマと体が離れた。すかさず起きあがり、後方に走った。脇目も振らずに走った。クマの唸り声と、ときどき「ウオー」という咆哮が後ろで聞こえた。金網のゲートの所で振り向くと、まだ後を追ってはきていたが、追い付いてまた攻撃をしようという意図は見受けられなかった。とにかく姿が見えなくなるまで一目散に走った。もう一度振り向いたら、もうクマはいなかった。鼻を押さえながらヨロヨロ歩いた。手を離せば鼻が落ちてしまいそうなほどに食いちぎられていた。血が気管に入り、苦しかった。「気持ちをしっかり持たなければ」と思った。ここで気を失ったら、妙子さんはいないから、だれも探しに来てくれる人はいない。「なんとか家までたどり着かなければ」と、フラフラしながら歩き続けた。

血だらけのまま救急車の手配を依頼

 30分ほど歩いて自宅にたどり着き、隣の松島さん宅に駆け込んだ。血だらけの山野井君の姿を見て驚いている松島夫妻に、手短に事情を話して救急車の手配を依頼した。そのあと自分は自宅に戻り、健康保険証や現金、両親や妙子さんの連絡先などをまとめて袋に入れた。多量の出血で意識がなくなることを心配したのだった。どんな状況下にあっても、的確な判断で冷静な行動をとることができるということも優秀なクライマーの証しであろう。

襲われたにもかかわらずクマの心配を……

 このセンセーショナルな事故はマスコミにも大きく取り上げられたから、広く世間に知られることとなった。事故後数日間、猟友会が東京都の許可を得て、クマ駆除のため小河内ダム上の遊歩道や倉戸山に入ったというが、クマを発見したという話は聞かなかった。昆虫や魚なども含め鳥、犬、猫など、動物の大好きな山野井君は病院のベッドの上で、「あのツキノワグマの親子は、無事逃げおおせただろうか」とか「この事故で駆除されるクマが増えるのではないだろうか」などと心配していたとの話を聞いた。また、「子連れのクマの方に走っていって、攻撃されると思わせたぼくのほうが悪いんだ」とも言っていたという。相手はクマだ、どちらがいいとか悪いとかの話ではないだろうが、山野井君らしい逸話である。

 山野井君の鼻は無事について、顔の中央にほどよく収まった。傷もあまり目立つことはない。いまはまたもとのように、妙子さんと2人で山一辺倒の日々を送っている。

山中のドラッグパーティーで大惨事…「幻覚を見ているのか?」救助隊員が遭遇した若者の奇行 へ続く

(金 邦夫)

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