「私の父は何者?」河瀨直美監督が、養女として悩んだ10代を乗り越えて『朝が来る』を撮ったワケ

文春オンライン / 2020年11月4日 17時0分

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河瀨直美監督(Photographed by LESLIE KEE)

 河瀨直美監督がメガホンをとった最新作『朝が来る』が10月23日から劇場公開された。

 原作は、ベストセラー作家・辻村深月による同名の小説。特別養子縁組を題材に、14歳の幼さゆえに子どもを手放さざるを得なかった少女ひかりと、長い不妊治療の末に自分たちの子を授かることができず、特別養子縁組をして子どもを迎える佐都子という二人の女性と、その家族のドラマを描いたヒューマンミステリーだ。

 なぜ、河瀨直美監督は小説『 朝が来る 』に惚れ込み、映画を作ろうと思ったのか。そこには、河瀨監督自身が養女であり、「自殺も考えた」と語る壮絶な経験がある――。

 映画『朝が来る』にナレーションで参加した「news zero」キャスターの有働由美子さんが、河瀨直美監督に作品に込めた思いを聞いた(全文は「文藝春秋」11月号及び「 文藝春秋digital 」に公開中)。

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有働 河瀨さんの最新作『朝が来る』は、コロナ禍で4カ月ほど公開延期されていましたが、10月23日からようやく公開されましたね。

 私も一人の女性として、登場人物と自分を重ねて観たので、たぶん他の人とは違うところで涙が出て。すごく印象的な映画でした。劇中、特別養子縁組の制度を紹介するアナウンサーとして声の出演をさせていただきましたが、今年4月には、特別養子縁組制度の対象年齢を拡大することなどを盛り込んだ法改正もありました。なぜ今この作品を映画にしたいと思ったのですか。

河瀨 今年法改正があったのは偶然でした。基本的に養子縁組は家庭環境や親の事情でするため、子どもの視点は見落とされがちです。ところが、辻村さんの小説には、養子縁組をされる子どもの視点が明確にあった。私自身、自分が養子縁組をされた養女だから、親たちがどういう状況で養子縁組をしたかというのは、当事者の子どものまなざしで見ています。また、子どもと生き別れになる14歳のひかりの苦悩を、辻村さんは見事に描いていました。

戸籍についたバッテン

有働 河瀨さんは、生後間もなく生き別れた父親を探す『につつまれて』(1992年)、養母と暮らす日々を紡いだ『かたつもり』(94年)など、ご自身の境遇を作品にしていますが、改めてご家族のことをお伺いしていいですか。

河瀨 はい。両親は、私がお腹にいるときから別居状態で、私が1歳半の時に離婚しています。母もまた両親が離婚していて、祖母がシングルマザーで育てたそうです。祖母には母の下に3人の男の子がおり、子育てが終わっていなかったので、母は祖母には頼れなかった。それで、河瀨家――子どもがいない大伯母夫婦のもとで私を生みました。養子縁組をした小学4年生まで、私は母の姓を名乗っていたので、おそらく母もどこかのタイミングで私を呼び戻したいと思っていたと思うのですが、結局母のもとに行くことはありませんでした。当時、私の戸籍にはバッテンがついていたんですよ。

有働 え、河瀨さんの戸籍にバツがつくんですか。

河瀨 はい。父親と母親の籍から抜けるので、私の戸籍にバツがついて、養子として河瀨家に入るんです。戸籍が電子化されてからは表記が変わり、バツはつかなくなりました。

 1988年に始まった特別養子縁組制度では、新しい戸籍で実子として迎え入れられるので、特別養子縁組という制度をもっと知ってほしいという思いも、この作品を撮る原動力の一つでした。

「この人は何者?」

有働 河瀨さんは、自分が養子だということに、いつ気づいたんですか。

河瀨 大伯母夫婦は年齢がおじいちゃん、おばあちゃんの世代なので、小学生ぐらいの時には本当の親ではないと分かっていました。でも父のことを聞いても、一切教えてくれない。「今、幸せやろ?」と流されるだけだった。それで、自分で市役所に戸籍を調べに行きました。当時は未成年でどうしたらいいか分からなかったので、「就職先の人が自分の戸籍を見たいと言っています」と嘘をついたら、別室に連れて行かれて「その企業はどこですか」って逆に詰問されて(笑)。

有働 そんな企業があるほうが問題ですから。

河瀨 それで、「すみません、嘘です」と正直に言ったら戸籍を出してくれました。私が父親の名前を知ったのは、この時です。さらに父のことを知りたくなって、父の住所を記録した戸籍附票を取り寄せました。それを見ると、父は2年ごとに転居を繰り返していて、「この人は何者? どんな仕事をしているの?」と動揺し、それを頼りに書かれていた住所を訪ねたのです。ですから、私は真実を告知して欲しかった。私が傷つくような事実があるとしても、しっかり伝えて欲しい。その上で、今幸せだと一緒に喜びあえることが、開かれた関係性だと思うんです。

10代の頃は死ぬことばかり考えていた

有働 河瀨さんは、今回の作品を、特に誰に見てもらいたいですか。

河瀨 やっぱり、おじいちゃん(養父)とおばあちゃん(養母)ですね。私はあの人たちがいたからこの世界にいられる。毎朝、お仏壇のお花の水を替えながら、「今日も元気に起こしてくれてありがとう」とだけ伝えるんですけど。

 私は10代の頃、本当に生きている意味が分からなくて、電車が来たらいつ飛び込もう、高いところから飛び降りれば簡単に死ねるかな、ということばかり考え続けていたので。その時に映画がポーンと自分のもとに来てくれたんです。一生懸命自分のルーツを探り、父親とは何か、養母の存在とは何かという日常にカメラを向け続けて作った映画が、私の見ている世界を変えてくれた。そして、自分と関わってくれる人がいること、それこそが「生きていて良かった」ということだと思えるようになった。だから、この2人に見てほしい。見てくれるかな。

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「文藝春秋」11月号及び「文藝春秋digital」掲載の対談「 五輪映画でコロナを描きたい 」では、映画を受けて、有働由美子さんが、かつて不妊治療をしていたことを告白。また、河瀨監督が五輪延期の報せを受けたときのエピソードや、コロナ禍にもかかわらず「なら国際映画祭」を開催した理由、そして世界の観客を魅了する映画作りの秘訣などについて語り合っている。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2020年11月号)

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