二人のA級棋士を育てた名伯楽・井上慶太九段「稲葉くんは0.1秒くらいで指す感じでした」
文春オンライン / 2020年12月18日 11時0分

井上慶太九段
藤井聡太二冠に勝った最年長棋士は「急に心拍数が上がって、まったく手が見えなくなった」 から続く
今年(2020年)の11月18日、A級順位戦の5回戦で稲葉陽八段と菅井竜也八段の対局が行われた。この二人は、ともに井上慶太門下。つまり名人への挑戦権をめぐって将棋界のトップ10人で争われるA級順位戦で、同門対決が実現したのである。
道場のある兵庫県の加古川市は「棋士のまち」
井上慶太九段は「私も、兄弟子の谷川先生とA級で対戦しましたので、そういうところは、受け継いでいけてるのかな」と控えめに語るが、簡単にでき得ることではない偉業であろう。
井上慶太九段へのインタビュー。後編となる本稿では、関西将棋界に「井上一門あり」とも言われる一門のこと、そして多数の弟子との思い出話などをお聞きした。
井上慶太九段が主宰する「加古川将棋倶楽部」といえば、関西では名の知られた道場である。道場のある兵庫県の加古川市は、「棋士のまち」を標榜する将棋界と縁の深いところ。ゆかりの棋士として、井上慶太九段、久保利明九段、稲葉陽八段、神吉宏充七段、船江恒平六段の5人の名前が同市のホームページでも紹介されている。
加古川までくるとマンションの倍率が10倍で
――「加古川将棋倶楽部」設立のいきさつについて教えてください。
井上 私が加古川に引っ越してきたのは平成4年でした。実家は神戸なんですけど、結婚を機にマンションを買いたいなと思って新居を探していたんです。ただ当時はバブルの終わり頃、神戸でマンションを買おうと応募しても倍率が200倍とかで買えないんですよ。そこで、だんだん西に流れていったんですが、それでも100倍とか50倍とかでね。それが加古川までくると倍率が10倍で、たまたま当たったからそこに住むようになったんです。
――では、バブル期ゆえの偶然で、加古川に住まわれるようになったと。
井上 そう。たまたまですね。加古川を走る電車から見えるのは田んぼばっかりでしたね。
――それが道場を作るようになったのは、どういったご縁で……?
井上 ちょうど同じ頃、加古川のアマチュアの方が、脱サラされて「加古川将棋センター」という道場を開かれたんです。これがちょうど平成4年で。それで私が、一応「師範」となってそこに教えに行くようになったんです。その後、その席主さんが高齢になられて、またネット将棋が流行り始めてお客さんの数も減ってきまして。それで自分に後を継いでくれないかという話がありまして。そのときはまだ40くらいで、道場をやるのは辛いなと思っていたんですが、それまで毎日だったのを、土日だけならと作ったのが、今の「加古川将棋倶楽部」です。これが平成16年のことでした。
この「加古川将棋センター」に、小学生の頃から通っていたのが、稲葉陽八段と船江恒平六段だったという。
井上 稲葉くんと船江くんは、小学2年生のときから知っています。当時は、彼らほどではないにしても、それなりに指す小学生はたくさんいましたね。なんか遊びみたいな感じで、わいわいやっていました。
稲葉くんは0.1秒くらいで指す感じでした
――お二人がプロになられたのは、当時から、特別な教えなどをされたからなのでしょうか。
井上 うーん。特に教えたこともないですけどね。彼らは、今から考えたら才能抜群やったと思いますね。当時はよくわからなかったんですが。
――当時は、どういったお子さんだったのでしょう。
井上 稲葉くんは指し手が早すぎてね。0.1秒くらいで指す感じでした。1局、2分とか3分で終わってしまう。とにかく早くて「むちゃくちゃやな」という印象でした。稲葉くんは、強くなるかどうかはよくわからなかったですね。お兄ちゃん(アマ強豪の稲葉聡さん)と一緒に来てまして、お兄ちゃんのほうが常に香車一本くらい強い感じでした。
――船江先生は、稲葉先生のひとつ上。
井上 そうですね。船江は気がええから、おっちゃんに人気がありましたね。あんまり圧倒的な強さというのはなかったんですが、要所要所で切れ味の鋭い手を指すんでね。なんか才能ありそうやけど、ポカもよくするし……。それで可愛がられてました。
――大人の印象は、子どもによってだいぶ違うわけですか。
井上 子供って落ち着きがないから、大人にはだいたいうっとうしがられるじゃないですか。稲葉くんなんてね、すぐ指して横向いたりしてるから、ものすごく嫌われてました(笑)。でも船江くんは、愛想いいしね、適当に負けたりするから「コウヘイくん。コウヘイくん」って可愛がられていましたね。
――出口先生(若武四段)も小さいときから教室に通っておられたんですか。
井上 そうですね。彼も才能はあると思いましたね。ただ、当時は生意気というか、口のききかた知らんというか。天真爛漫なところがあって、ちょっとそのへんはどうかなと思っていました。彼は才能のわりにプロになるのが遅れましたね。
ある日、連盟に手紙が来てたんですよ。「弟子にしてほしい」と
井上慶太門下生で、今、プロ棋士であるのが、前述の稲葉八段と船江六段、出口四段、そして菅井竜也八段である。ただ、菅井八段は、加古川の地で将棋をしてきたお三方と違って入門の経緯が違うという。
井上 ある日、連盟に手紙が来てたんですよ。名前は菅井竜也。住所は岡山県やし、名前も聞いたこともない。何かなと読んだら「弟子にしてほしい」と書いてあった。
――それでどうされたんですか?
井上 当時、岡山県には有吉先生(道夫九段)がいらっしゃって、岡山の子は有吉門下になるのが、なんとなく慣いでしたので、ちょっとえらいことやなと思いました。それで、岡山に北村先生(北村實棋道正師範)という大山名人記念館の館長もされていた方がおられて「こういう手紙が来たんですが、どうしたらいいですか?」と相談させてもらったら「一度、会ってみてくれないか」と言われまして。なんでも、菅井くんがもともと北村先生に相談してたようなんですよ。最初は「羽生さんか森内さん(俊之九段)の弟子になりたい」って言っていたそうですが、北村先生から「それは無理じゃ」と言われたみたいです(笑)。それで、僕の名前が出たそうです。
――どういった理由で?
井上 NHK杯を見ていたとき、僕の解説が面白いのと、同じNHK杯で僕が対局しているときはすごく真面目だったので、そのギャップがすごいと言ったそうですね。
雰囲気的には奨励会三段くらいでしたね
――入門に際しては、実際に対局などをするわけですか。
井上 ご両親と一緒に家に来てもろてね。それで一局、飛車落ちで指してみたんですけどね。
――どういった印象でした?
井上 これはもう、すごいなと思いました。雰囲気があってね。当時、小学校5年生でしたが、雰囲気的には奨励会三段くらいでしたね。将棋に賭けるといった迫力がありました。指し手も鋭くてかなり強かったですね。
――小学校5年生のときの棋力は、稲葉先生や船江先生とくらべると?
井上 それはもうぜんぜん菅井くんが上でしたね。これは間違いないなと。
――それはプロになれる?
井上 そうですね。
――小学5年生で一局指して「この子はプロになれる」と思う子は、今まで何人いましたか?
井上 うーん。そうですねぇ。うーん。菅井くんくらいかもしれませんねぇ。
――では菅井先生は、突出したものを持っておられた?
井上 そうですね。
「俺もついに名人の師匠か」と思ったんですけどね(笑)
井上九段の直感通り、菅井少年は小学6年生で奨励会入会。そして17歳のときに三段リーグを突破してプロ入りを決めている。そして時は流れ2017年には、王位戦において王位を獲得。井上一門に初のタイトルをもたらした。
井上 あの王位戦は、相手が羽生さんでしたからね。まさか初挑戦で、あの羽生さんからタイトル取るとは思っていなかったので、びっくりして。本当に菅井くんのいいところばっかり出たタイトル戦でした。嬉しかったですね。
――驚きが大きかったですか?
井上 一門でタイトルを取るなら稲葉くんからかなと思っていたので。
――2017年の名人戦、佐藤天彦名人に稲葉陽八段が挑戦されました。
井上 2勝1敗とリードしたときは「俺もついに名人の師匠か」と思ったんですけどね(笑)。お祝いのスピーチも考えようかと思ったらあかんようになりました(結果2勝4敗でタイトル挑戦失敗)。
――タイトル戦などでは、将棋のことについて相談されるといったようなことはあるのでしょうか。
井上 いやあ、そんなん、求められても困ります(笑)。
――精神的なことを助言されたりとかは?
井上 名人戦のときは、「勝っても負けても勉強やから。勝敗気にせず戦ってほしい」って言ったんですけど、あれがよくなかったかな。
――といいますと?
井上 菅井くんは「絶対に取る」といった迫力を持っていたんでね。だから取れたんかなと。そういった「絶対取れ」といったアドバイスをすべきだったかなと、菅井くんを見て思います。
悩んでいるみたいですね。弟子との接し方
初めて盤を挟んだときに「プロになる」と感じさせた雰囲気。そして初めてタイトルの挑戦のときに「絶対に取る」と感じさせる気迫。やはり普通の人とは違うオーラを菅井竜也八段はもっているのだろう。まだ20代で、現役のA級棋士であるものの、すでに複数の弟子を取っているところも菅井流なのかもしれない。
――菅井先生がお弟子さんを取られたときは、なにか相談などはされましたか?
井上 そのときは相談されたかなあ。今はよく相談されますよ(笑)。彼も真面目なんで、どうしたらいいですかねって。悩んでいるみたいですね。弟子との接し方。
――菅井先生のお弟子さんは、孫弟子にあたられるわけですが、一緒に一門研究会のようなものもされているのでしょうか。
井上 そうですね。月に2回ほど。菅井くんの弟子も入れて24、25人の奨励会員を集めてやってますね。
今は「才能」と「努力」どっちもないと……
――井上門下は18歳までに初段になるという規定があると聞きましたが。
井上 今の奨励会の規定は、僕が入ったときと同じなんですよね。でも今は入会の時期も低年齢化してますので、何年もかけて初段になれないようなら、他の道に行った方がいいのではないかと思っています。ただ、関西では古森くん(悠太五段)は19歳くらいまで1級とか初段でしたが、今では活躍していますから、人によって伸びる時期は違うのかもしれんなと悩んだりもしています。でも、基本、今までは18歳で初段になれなかったらやめてもらってますね。
――よく「才能」と「努力」は、両輪のように言われますが、そのあたりどのようにお考えですか?
井上 うーん。僕らの時代だったら才能か努力か、どちらかあればプロになれたと思いますが、今はみんな優秀ですからね。どっちもないとプロになれないんじゃないかなと思います。そのなかからタイトルを取るとなれば、どっちもすごい人でしょうね。
――最後に、ご自身の将棋について、これからの目標を教えてください。
井上 それなりにボチボチ戦えたらと思っています。今の最新形の将棋は自分には指せないので、自分なりの独自の形を追求していきたいなと。一応、800勝が区切りとしてあるんですよ。今、750勝くらいなんで、あと50勝。それは達成できたらなと思っています。
三段リーグに6人いる弟子には「ぜひプロになってほしい」
――お弟子さんへの期待はいかがですか。
井上 A級の2人には、ぜひタイトルを取って欲しい。あと船江くんと出口くんには、もっと上で活躍して欲しいですね。できると思いますんでね。あと三段に6人いてますけど、みんな可能性あるので、ぜひプロになってほしいと思います。
――今期から中七海さんが、奨励会三段になって、女性としては西山朋佳さん以来の3人目ということで注目を集めておられます。
井上 新三段になって苦戦していますが、真面目でコツコツやるタイプなので、慣れてくればそれなりの成績を出すと思っています。
――ちなみにタイトル戦にお弟子さんが出ると、やっぱり和服をプレゼントされたりするものですか?
井上 ああ、そうですね。
――それはタイトル初挑戦のときだけ? 2回目からもですか?
井上 それは1回目だけ(笑)。
――プロになったお弟子さんにも、なにかプレゼントされますか?
井上 僕の場合、特注で扇子をたくさん作ってもらって、それをお世話になった方やファンの方に御礼に差し上げなさいと渡します。これは段が上がったときにも渡していますね。もう長いこと作ってないんで、早く次もね、と待ってるんですけどね(笑)。
ドラマは、奇跡ともいえる偶然のうえに成り立っている
井上慶太九段にお話をうかがっていると、今ここにある将棋界の歴史というのは、本当にいろんな偶然によって織り成されているんだなと感じる。
もし井上九段のマンションがすんなり決まっていれば、弟子との出会いもなかったかもしれない。
もし井上九段が、藤井猛九段の銀の上がりを予見したら「藤井システム」の誕生も、その後の居飛車と振り飛車の戦い方も変わっていたかもしれない。
いろんな偶然が織りなすドラマと歴史。将棋界の魅力は、そんな奇跡ともいえる偶然のうえに成り立っているのだろう。
写真=山元茂樹/文藝春秋
(岡部 敬史)
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