亡くなった人が登場しやすい? 1700人超へのアンケートでわかった「死の直前」に人が「見る」ものとは

文春オンライン / 2021年1月22日 6時0分

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 死期が迫った人はしばしば、誰かがそばにいるような反応をみせることがある。終末期患者の看取りに長く関わってきた医師、河原正典氏は、この「お迎え」体験と呼ばれる現象について、社会学者らとともに体系的な調査を行ってきた。遺族1700人超に行ったアンケートの結果、みえてきたものとはいったい……。

 幻覚やせん妄の一種なのか、それとも実際に誰かが本人を迎えにきているのか。宝島社より発行された書籍 『「お迎え」体験』(宝島社新書) を引用し、河原正典氏の見解を紹介する。

◇◇◇

1000人以上の「お迎え」体験データ

 いま私の手元に2つの資料があります。「2011年実施 在宅ホスピス遺族調査」と「2015年実施 在宅ホスピス遺族調査」の2つの報告書です。

 これらの報告書は岡部健の主導で2007年までに行われた「お迎え」体験調査の継続調査という側面を持ち合わせていますが、それまでと大きく違うところは、これらの調査が科学研究補助金を得て人文・社会学などの研究者と協力し、在宅ホスピスについて、複数の診療所でより多角的な視点で行われたことでしょう。

 調査の形態は遺族に対するアンケートが基礎となっています。2007年の調査では、調査エリアが宮城県内の一診療所(岡部医院)の利用者にとどまっていたのに対して、2011年の3次調査では宮城県の5診療所、福島県の1診療所の利用者に拡大し、2015年の4次調査では宮城県5診療所、福島県2診療所の利用者と、調査エリアをさらに拡大しています。

 それによって「お迎え」体験が宮城県だけの話ではなく、福島県にも見られる、ある一定の普遍性を持った現象であることを見出そうとしました。調査の対象は「お迎え」体験だけでなく、遺族の在宅緩和ケアに対する感想なども含まれています。

 たとえば「余命告知の是非」「在宅ケアを中断した場合のその理由」「故人が在宅死したことへの評価」「回答者自身の在宅死への感想」、さらに「在宅での看取りを通した死生観の変遷」……。それらに対する答えをアンケートで得ることによって、私たちが遺族に提供できなかったものを把握し、在宅緩和ケアの向上につなげることを目的としました。

 2011年の報告は、2007年1月から2009年12月までに看取りを行った家族に対する調査で、アンケートを送付した1191件のうち、得た回答は575票。2015年の報告は、2010年1月1日から2014年2月28日までに在宅ケアを行った家族に対する調査で、調査協力のお願い書面を送付した2223件のうち、663票の回答を得ることができました。

 では、回答者たちは「お迎え」体験をどう捉え、そこから何を感じてきたのでしょうか。本調査研究員の1人、諸岡了介(島根大学教育学部准教授、当時)がまとめた報告をもとに、私見も交えながら説明していこうと思います。

「お迎え」体験の定義とせん妄との区別

 すでに記したように、本調査では「お迎え」体験を次のように定義しています。

〈終末期患者が自ら死に臨んで、すでに亡くなっている人物や、通常見ることのできない事物を見る類の経験〉

 現代の精神医学の分野では、終末期におけるこうした体験をせん妄による幻覚、幻視として捉え、治療の対象とする考え方が主流です。終末期でない方にも、上記のような体験をする方はいます。原因疾患としてナルコレプシー(悪夢や金縛りなど、眠気を伴う睡眠障害の一種)、統合失調症、複雑部分発作(てんかん)、側頭葉てんかん、薬剤性などが考えられ、終末期の方の「お迎え」体験もこうしたことが原因になっている可能性は否定できません。しかし、そう見なすことで「お迎え」体験がもたらす家族間の豊かな関係性が切り捨てられる可能性もあり、ここではせん妄診断からいったん距離を置く必要があるでしょう。

 2011年調査報告書の冒頭で、岡部健もこう記しています。

  〈「お迎え」は単なる幻覚幻想ではなく、精神医学などでいう「せん妄」と片付けられないものである。従来の医療的な視点では、それは患者や家族にとって辛いものであり、治療の対象であった。しかし、看取りの現場で観察された事態の推移は、そうではなかった。「お迎え」は辛さや恐れとは異なる感情を、患者と家族に喚起していた。それは文化的なものに由来するが、患者と家族に対する影響は大きい。自宅での死の看取りを支える時、この点が重要な支えとなる〉

 こうしたことを踏まえて、2011年と2015年のアンケート調査では、2007年調査と同じように「患者さまに関して、次のような経験がありましたか」としたうえで、次のようなパターンを選択枝として提示しています。

「お迎え」体験の有無についてのアンケート

 〈患者さまが、他人にはみえない人の存在や風景について語った。あるいは、見えている、聞こえている、感じているようだった〉

 その結果、2011年では「経験した(あった)」が、575件中226件。2007年の42・3%をやや下回るものの、全体の41・8%が「お迎え」体験を認めました(表1)。2015年の報告では「あった」とする回答が32%。2011年のそれを10%近く下回りましたが、診療所別でみると、2011年に42%だった診療所が2015年に31%とダウンした一方で、2011年に33%だった別の診療所の場合は、2015年には逆に41%とアップするなど、各診療所によってばらつきがあり、「あった」とする割合の減少は少なくとも全診療所の傾向ではないことがわかりました。

半数以上が亡くなる日の1ヵ月前までに「お迎え」を体験

 上の表2は「お迎え」体験で何を見たか(あるいは遭遇したか)の内容を大まかに示したものです(2011年)。「すでに亡くなっている人物」が圧倒的に多く、「お迎え」があったとした回答の3分の1以上がそれで占められています。誰が現れるかに関しても、すでに亡くなっている父母、祖父母、夫、妻、兄弟、子ども、友人、親戚などが目立っており、1章で紹介した2007年の調査報告と同じような結果が得られました。「お迎え」体験の内容で、次に多かったのが「風景・情景」です。さらに、「存命だが、その場にいなかった人物」がランクされ、そのあとに件数こそ減っていくものの、ペット以外の動物、仏、ペット、光、神……と、続いていきます。

 また、「お迎え」体験があった時期とその場所に関しても、2007年調査とほとんど同じような結果が出ました。表3は2011年調査のものです。時期に関しては「数日前~1ヵ月前」が最も高く56%。以下、「1ヵ月前~半年前」21%、「当日・前日」13%、「半年以上前」10%と続いていきます。

自宅で「お迎え」体験をする人が最多

 場所に関しては「本人の自宅で体験した」が全体の77%。一般病棟が12%で、残りの11%を「近親者の家」「ホスピス病棟」「福祉施設」で分け合っています。

 その時期に関わらず、「お迎え」体験の場所で「本人の家」が圧倒的に多いのは、患者さんと主介護者(家族)との「日常的なコミュニケーション」という要素が大きいと思います。逆に、病棟や施設で「お迎え」体験が少ないのは、回答者である家族との日常的なふれあいの少なさ、さらに医療的に管理された環境などが影響していると考えられます。

患者が「会いたい人」が登場する

 さて、先ほど紹介した「お迎え」体験の内容のなかで、「存命だが、その場にいなかった人物」が、「お迎え」にきたという事例に着目してください。これは、ある意味で注目に値する現象でしょう。というのも、ホスピス運動の生みの親の1人で、臨死体験研究の第一人者でもあったキューブラー・ロスは、〈出迎えてくれる人はかならず、心から愛している人で、しかも、たとえ一分でも先に死んだ人です〉としたうえで、こんな話を紹介しているからです。

 〈アメリカン・インディアンの女性の例です。彼女は私に、居留地から何百キロも離れたところで妹がひき逃げされたときのことを話してくれました。後ろからきた車が止まって、妹を助けようとしたけれど、妹はその見知らぬ人に「自分は父親といっしょだから大丈夫だ」と、かならずかならず母親に伝えてほしいと懇願すると、息を引き取ったそうです。じつは、彼女たちの父親はその一時間前に、事故現場から千キロ離れたインディアン居留地で死んでいたのでした。妹がそれを知っているはずはありませんでしたのに〉(『「死ぬ瞬間」と死後の生』中公文庫)

「出迎えてくれる人は、たとえ一分でも先に死んだ人」というロスの主張に対して、本調査では「そこにはいないが、まだ生きている人」も、患者さんの「お迎え」体験のなかに登場しています。亡き肉親や友人の登場が多くを占めるとはいえ、「お迎え」体験はこうした「生きている人」の登場も含め、当の患者さん自身の願望がどこかで映し出された現象ではないかと、私は思うことがあります。

 つまり、患者さん自身の心の奥深くに、会いたい人、話したい人、見たい風景・情景などが潜んでいるのではないか。そう考えると、亡くなった肉親が現れるケースが、なぜ多いのかもわかるような気がするのです。

「お迎え」体験で家族が現れやすい理由

 人はこの世に生まれた後、いちばん近くにいる者の強い影響を受けて、自我や人格を形成していきます。そのいちばん近くにいるのが、両親であり、祖父母であり、兄弟や親戚、友人に他なりません。

 人というのは、生きている人よりも亡くなった人のことを真剣に考えるところがあります。亡くなった人に対しては、元気だった頃以上にその人のことを思い出します。

 そうしたなか、今度は自分が人生の終末を迎え、死を意識するようになる。それはこれまで形作られてきた「自分」という存在(自我)の消滅を想像させます。だからこそ衰弱し、薄れゆくその意識のなかで、人格形成に強い影響を与えた肉親などに、静かに思いを馳せるのかもしれません。

(河原 正典)

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