「諦めちゃっても、夢はかなう時はかなう」 早大出身インテリ覆面レスラーが語る“リアル版”『俺の家の話』

文春オンライン / 2021年3月5日 17時0分

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スーパー・ササダンゴ・マシン ©️文藝春秋

 脚立を手に持ったレスラーが、文春に殴り込み――? マスクをかぶった彼の名は、スーパー・ササダンゴ・マシン。DDTプロレスリングに所属しレスラーとしてリングに上がる傍ら、新潟県内の金型工場の代表取締役社長も務めている。近年はリング内だけにとどまらず、バラエティ番組『水曜日のダウンタウン』(TBS系)や『八千代コースター』(NST系)などにも出演し、人気を博してきた。

 傍目には順風満帆に見えるササダンゴ選手のキャリア。だが、元々は素顔で普通のプロレスラーとして活躍していた。しかし、実家にいる父が倒れて家業を継ぐことになり、一度は引退も経験している。まさに現在TBS系で放送中のドラマ『俺の家の話』のリアル版だ。そんな彼の半生は、どんなものだったのだろうか?(全2回の1回目/ #2 を読む)

◆◆◆

「東京に行けばなんとかなる」と思った高校時代

――ササダンゴ選手は大学から東京へ出てきています。地元である新潟から上京されたきっかけは何だったのですか?

ササダンゴ 実家が自営の工場だったので、ずっと子どもの頃から両親に「跡を継げ」という話をされて育ってきたんです。でも、跡を継がなきゃいけない法律はないじゃないですか。それで、とにかく大学進学を口実に東京にさえ行ってしまえば、あとは自由だろうと勝手に思っていたんです。当時はプロレスなんか全然見ていなくて、むしろ「ちょっとダサいもの」みたいに思っていて。

――そうなんですね。上京して入学された早稲田大学では、どんなことを?

ササダンゴ 映画とか映像系のエンタメが好きだったので、シネマ研究会というサークルに入っていました。そこでひたすら300本とか500本とか、ノルマで映画を見せ続けられて。おかげでもう今、映画嫌いになりましたもん(笑)。ただ、そもそもあまり大学に真面目に通っていなかったので、単位が足りなくなってしまって。4年生の時に卒業見込みがもらえなかったんですよ。結果的にそのまま2年も留年して、6年たった時点で「あと2年通っても単位がとり切れないので辞めてください」って大学側に言われてしまって。人としてはちょっと…ですよね(笑)。

――そこからなぜプロレスの世界に…なかなかつながりもなさそうですが?

ササダンゴ 大学生になって、テレビでプロレスを見たらようやくちょっと面白さを感じたんです。ちょうど新日本プロレスのマットに大仁田厚が上がっていた99年とかですね。こっちはスポーツ中継だと思って観ているわけですよ。でも試合後、大仁田さんが泣きながらアナウンサーのことを張り手して、2人で泣いているんですよ。「え、これなんなんだ」って思って(笑)。興味を持ちましたね。

 大仁田さんを観ていて、実力以上にパッションというか…熱量の力でここまで来られるんだなって驚いたんですよね。当時の僕のようなプロレスを知らない人たちの心まで引き付けてきた。そこで、プロレスの世界の扉をノックすると、「待ってました」とばかりに映画サークルにも隠れプロレスファンがいたんです。それでどんどんいろんなことを教えてもらって、のめりこんでいきました。

映像ディレクターになり、新興のプロレス団体DDTへ

――でも、その頃はまだ、直接的にプロレスとの接点はないんですよね。まだ1ファンの立場というか。

ササダンゴ ようやくプロレスを好きになったんだけど、どっちかというと映像なりで「物を作る側」にいきたいっていう気持ちが強かったんです。ちょうどそんなときに映画サークルの先輩から、声がかかって。

 当時はスカパーができた頃で、何百というチャンネルが新しく生まれ始めた時だった。それで、チャンネル数が増えたことで、結果的に「流すものが足りない!」となっていたんです。先輩たちはエンタメ系のチャンネルでセクシーな女性の映像を流す番組の手伝いをやっていたんですけど、規制があって昼間はそういう映像が流せない。そこで、その時間帯に流す番組を撮りに行くようになったんです。

――まずは映像ディレクターとして仕事を始めたのですね。

ササダンゴ そうですね。それである時、先輩から「プロレス好きだったら、DDTっていう新興のプロレス団体があるから、それでなにか映像作ってみなよ」と言われたんです。それが2000年のことですね。当時のDDTは高木三四郎(※現在はDDTプロレスリングを傘下に持つ株式会社CyberFightの代表取締役社長)さんがメインを張っていたんですけど、アマレスでオリンピックとか、華やかな経歴があるわけでもない。ある意味、大仁田厚より亜流だったんですよ。でも、エンタメ色が強くて、技や強さで勝負していないプロレスの感じが良かった。それこそ最初に大仁田さんを見た時に思った、映画でもスポーツでもない「何か」みたいなものがあったんです。

プロレスラーデビューと新潟への帰郷

――しかし映像を作る側だったのに、そこからなぜレスラーに…?

ササダンゴ DDTに「アイアンマンヘビーメタル級王座」というチャンピオンベルトがあって。このベルト争奪戦のルールは、レフェリーさえいれば24時間いつでもどこでも、フォールを取られたら、そこでベルトが移動するんです。例えばインタビューを受けているレスラーに、大道具の脚立が倒れてきて、そのまま脚立が覆いかぶさっていたら、脚立がチャンピオンになるのではないか。そんなアイディアを高木さんが出して、「それ、やりましょうよ」ってなったんです(笑)。

 ところが、意外とレスラーってそういうことやってくれない。「脚立に3カウントされるなんてできない」って言うんです。こっちは「絶対面白いのにな」と思っているのに。でも高木さんが言うと、「わかりました」って言ってやるんですよね。結局、レスラーってレスラーのいうことしか聞かない。だったらレスラーやろうかと。それがきっかけです。

――結局、ご実家の家業は継がなくても大丈夫だったのですか?

ササダンゴ 24歳くらいの時ですかね、大学6年も行ったのに「卒業できない」となった時に父親がスーツ着て東京まで来たんです。「プロレスの仕事がしたいのはわかる。でも、さすがに新潟に帰ってこい」みたいなことを言われましたね。どういうツテをたどってくれたのか分からないですけど、僕が映像制作をやりたいのを汲んで「映画の配給会社のクチがあるから」みたいな話を出してきたんです。すごく悩んだけどその時は「DDTがあるからやらないよ」って断りました。

 でも2010年、32歳になった頃に父親が倒れてしまったんです。そうしたら、母親とか叔父からも「帰ってきてくれないか」と言われて。それで「もう一度、父親と話だけしてみるよ」って病院に行ってみたんです。また「帰って来いって言われるだろうな…」と思ったら、今度は「みんな新潟に帰って来いと言っているけれど、いま一緒にやっている仲間を大事にしろ」みたいなことを言われたんです。

実家を無視してプロレスを続けるのは「なんかおかしい」と

――かつては、「帰ってこないか」と言っていたのに…。

ササダンゴ そうなんです。そこで父が「経営っていうのは、なんだと思う?」って聞いてきたんです。「わからない」って言ったら、「続けることなんだ」と。経営というのは、会社を続けることが本質なんだと言ったんです。だからお前も、軌道に乗ってきたんだったらDDTを続けろ、と。

 実家の坂井精機という会社は、70年近く続いてきた企業なんです。父は大学出てからずっとその仕事をやってきて、会社を大きくしていった。でも当時はリーマンショックの影響で、会社の売上が半減していたんですよ。もう大赤字で、今思えば父も心が折れていたんだと思います。そこでふと「あれ、このままだと会社はどうなるんだろう?」と思ったんです。父のキャリアの最後が、会社をたたむことだったら――それはかわいそうだなと、初めてその時に思って。これまでずっと「続けること」を考えてやってきた人のキャリアの最後に会社をたたませたら、それは最悪だよなと感じたんです。父からそのバトンを受け取るところまではやらなきゃダメだなと思ったんですよね。

――ただ、その当時あった仕事を辞めることは簡単には決断できないですよね。

ササダンゴ そうですね。でもプロレスって、リングに上がる人の人生とか生き方を全部さらけ出すことだと思うんです。それなのに、自分の中のリアルな実家の話を無視して続けるのはなんかおかしいなって思って。もちろん周りは「なんでやめるの」って言うんですよ。DDTも軌道に乗って大きくなってきていたし、なんで今なんだ、と。ただ、高木さんだけは「いいんじゃない」って言ってくれましたね。不思議と何かわかってくれたのかもしれません。

――引退ではなく、休業を選ばなかったのには理由があったのですか。

ササダンゴ 工場経営もプロレスも、どっちもそういう中途半端が通用する世界じゃないかなって思ったんです。ちゃんと引退して、「東京のヤクザな稼業から縁を切りました」って言っておかないと、地元に戻ってもダメだろうみたいなのがありましたね。人って不思議なもので、ちょうどそのタイミングで子どもができて。自分だけじゃなくて奥さんと子どもがセットで地元に帰ってくることで、非常に家族の受け入れ態勢が柔軟になりました(笑)。そういう縁もあったと思います。

ご当地レスラースーパー・ササダンゴ・マシンの誕生

――それでもう、レスラーとしては終わりと決めていたんですか。

ササダンゴ 実は引退試合をした後楽園ホールに、お客さんがパンパンに入って。鈴木みのるさんに相手をしてもらったんですけど…。もうやり残したことはないぞ、新潟から父も観に来てくれて、「これで全部やり切った、よし帰ろう」と思っていたのに、最後の最後でめちゃくちゃ良い興行になっちゃったんですよ。それで逆に心残りが出てきてしまって。復帰への布石がそこで打たれた感じです。

――新潟に戻られてからの生活は、どう過ごしていたのですか?

ササダンゴ いざ新潟に帰ってみると、思っていたよりも全然、時間に余裕があって。そんなとき、2012年にDDTが武道館で興行をやったんです。僕、現役時代にずっと「日本武道館で興行やりたい」って言っていたんです。高木さんがそれを覚えていてくれて、「武道館でやるから、1日だけ復帰しないか」って言ってくれて。念願だったこともあったし、「それはしょうがないですね」みたいな感じで、ゲスト出演くらいならいいかなと思って(笑)。

――最初は限定的な復帰だったのですね。

ササダンゴ ちょうど同じ時期、全国各地で“ご当地プロレスブーム”が生まれていたんです。そんなこともあって、新潟にも『新潟プロレス』っていう団体があった。それで武道館に向けて練習するところがなかったんで、そこを紹介してもらったんです。スポーツジムに行く感覚で、隣町のショッピングセンターの倉庫に行くと、プロレス好きのおじさんが集まって受け身の練習をしているんですよ。そこで初めて、「日常生活と地続きのプロレスもあるんだな」ってちょっと思ったんです。

――そしてDDTの武道館興行が終わって、また日常に戻る…はずだった。

ササダンゴ 本当はもうプロレスやらなくていいんですけど、そのまま新潟プロレスの道場に練習しに行っていたんです。そしたら月1回とか、老人ホームのイベントや近所のお祭りに呼ばれるんですよ。両親も武道館の時に「1日だけだぞ」って言っていたので、バレちゃマズイ(笑)。でも「ご当地レスラーっぽい覆面かぶれば大丈夫かな」って思って。新潟のご当地の笹団子をモチーフにした「スーパー・ササダンゴ・マシン」として試合に出ることにしたんです。最初は、身バレ防止策のためのマスクで。

――意外とバレないものなんですね。

ササダンゴ いや~でもさすがに半年くらい経った時にDDT時代の後輩が気づいたらしく、たまたま会った時にボソっと「坂井さん…プロレスやられてますよね?」って言われて。その時は「いやいや、やってない」って言い張ったんですよ(笑)。「絶対違う!」って。でも、ちょうどそんなタイミングでDDTが新潟に巡業で来て、スーパー・ササダンゴ・マシンにオファーが来たんです。

――古巣との対決となると…バレますね…。

ササダンゴ そうなんです。別の人間にマスク被せて出てもらおうかとも思ったんですけど、体格が違いすぎて無理で。それで結局、自分で試合に出た。正体はバレバレでしたけど、素顔も出さず、声も発せず、なんとか静かにやり過ごして。まぁでも、その1回で良くも悪くもDDTへの禊もできたし、これで終わろうと思ったんです。

リアル『俺の家の話』…家業を継ぐために引退し、覆面レスラーで復帰

――でも、現在もレスラーを続けていますよね?

ササダンゴ それが当時、DDTがAKB総選挙に倣って、上位メンバーだけが興行に出られる人気投票をやったんです。そしたら知らないうちにスーパー・ササダンゴ・マシンがエントリーされていて、しかも9位に入ってしまった。結果的に選抜メンバーによる興行に駆り出されたんです。それで久々に東京に行って、試合して…そこからはもう、ズルズルです(笑)。

――なんだかいま放送されているドラマ『俺の家の話』に似ていますね。一度、家業を継ぐために引退したレスラーが、覆面レスラーとして復帰する。

ササダンゴ 似ているとは思います。でも、逆に言うとあれはあれでよくある話なんだろうなと。家業を継ぐためとか、家族の事情とかで、何かを諦めないといけないことは、多くの人に起こりうる出来事でもある。僕がたまたまプロレスラーだから、引退して復帰するというケースが劇的なように見えますけど、こういう経緯というのは実はすごく普遍的な出来事なんじゃないかと、あのドラマを見て思いましたね。

――そういう意味では、一度何かを諦めたり、そこからもう一度何かを始める決断をするのは非常に勇気がいることだと思います。

ササダンゴ 昔から「ずっと継続して、続けていればいつかいいことがある」みたいなことってよく言うじゃないですか。でも、僕はいろんなことを諦めて、辞めているんですよ。大学も途中で辞めて、DDTも途中で辞めて。それでもいろんな縁があって、また戻ってきてこうやってリングに立つことができている。「諦めなければ絶対に夢がかなう」と言いますけど、僕は「諦めちゃっても、夢はかなう時はかなう」と思います。そういう風に考えられるようになったのは、結構、大事なことだなって思いますね。

――辞めるとか諦めることは、決してネガティブなことだけではないと。

ササダンゴ そうです。むしろ僕は諦めるとか、辞める決断ってすごく大事だと思うんですよ。辞める決断は、新しいことをはじめるのと同じくらい大切。辞めて飛び込んだ別の世界で得たものが、元の世界で花開くことだってある。結局、夢や目標って1回くらい諦めたって、かなう時はかなうんです。それは絶対に言えると思いますし、あまりそれをネガティブに捉える必要はないんだろうと思いますね。( #2 へ続く)

写真=佐藤亘/文藝春秋

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(池守 りぜね)

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