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40人の若い衆に「お前たち、 大人数で騒いで恥ずかしくないのか!」警察幹部も感心した組長の妻“姐さん”の胆力

文春オンライン / 2021年3月21日 17時0分

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警察幹部も感心した“姐さん”がいたという(写真はイメージ)©iStock.com

「サラリーマンと決定的に違う、“出世するヤクザ、出世しないヤクザ”」暴力団幹部が証言 から続く

 暴力団組織のトップは組長や親分、ときにはオヤジと呼ばれるが、組長の妻は業界で「姐さん」と呼ばれる。かつて、姐さんをモデルにした大ヒット映画『極道の妻たち』でフィクションとはいえ、その一端が描かれたことがある。

 では、実在の「姐さん」とはどんな存在なのか。長年にわたり暴力団犯罪の捜査にあたってきた警察関係者や、暴力団幹部らが明かした。

「お前たち!」と子分を叱りつける姐さん

 警察当局の捜査幹部OBが印象深かった出来事を語る。

「かつて、指定暴力団の幹部で、自らも大きな組織を率いていた組長を逮捕することになった。逮捕状を持って、ごく少人数の捜査員で組事務所に入り、応対した者に『親分の逮捕状が出ている。逮捕する』と伝えた。すると、『警察が何しに来た!』と言わんばかりに40人くらいの若い衆が出てきて取り囲まれてしまった」

 そこで登場したのが、組長の妻だったという。

「若い衆がひしめき合い事務所内が騒動になると、奥から組長の妻と思われる女性が出てきた。そこで子分たちに向かって、『お前たち! 警察の方々はこんなに少人数で来ているのに、大人数で騒いで、恥ずかしくないのか!』と事務所内に響き渡る声で一喝した。叱りつけられると若い衆はたちまち大人しくなり、冷静な話ができるようになった。

 組長の妻は怒鳴り声を上げた訳ではないし、大声を出したということでもなかった。しかし、声に張りとツヤがあって、事務所内に響く良く通る声だった。声に迫力があっただけでなく、かなりの美人だったことも記憶に残っている」(同前)

捜査幹部が感心した「姐さんの貫禄」

 組長が逮捕された事件が起きたのは、1990年代のバブルが崩壊したころ。組長は組員らとともに不動産業者に対して、「カネを払え」などと脅迫していたとの情報を警察当局が入手し、内偵捜査を進めていた。

 バブル景気のころは地価や株価が右肩上がりで上昇しマネーゲームが繰り返され、多くの人々が潤ったが、バブルが崩壊すると各方面で資金がショート。カネをめぐりトラブルが絶えなかった。カネを払えと脅迫されるだけでなく、不動産業者が暴力団組員らに目隠しされて連れ去られるなどの荒っぽい事件も多かった。

 こうした事件には、一部の不動産業者が地価を吊り上げる、「地上げ」という活動で暴力団を利用していたことが背景にあった。

 暴力団幹部らは、「バブルのころは、この地上げで1000万円、あちらで2000万円など、1カ月のシノギ(資金源)が数千万円ということもあった」などと証言。「経済ヤクザ」と称される暴力団幹部もこの当時は多かった。

 この組長も不動産取引をめぐる容疑が固まったため逮捕状を取り、冒頭のようなやり取りとなったが、捜査幹部が感心したのは「姐さんの貫禄」だった。

「さすがに多くの子分を抱える大組織の親分の奥さんだった。たいしたものだと妙に感心してしまった。この一喝によって、組長は姐さんの手前だけでなく、子分たちの手前もあり、逃げることはないなと思った。実際、その通りで、組長は素直に出てきて、逮捕に応じた」

「3代目姐」妻・文子

「姐さん」という立場で、かつて最も有名だったのは3代目山口組組長、田岡一雄の妻、文子が上げられる。

 文子は田岡死去後、統制の乱れが危惧された山口組内で組長と同等の権威を備えているとして、兵庫県警が「3代目姐」と認定していた。権威だけでなく事実上、権力を掌握し山口組を率いていた「首領」との位置付けだった。

 兵庫県警が文子を「3代目姐」と認定した背景には、巨大組織である山口組の組長の後継争いがあった。

 田岡は戦後間もない1946年に組長に就任すると、全国各地に進出し、それまでは神戸市の地方組織に過ぎなかった山口組を国内最大組織へと拡大させた。山口組内だけでなく、全国の暴力団組織の間で現在もカリスマ的存在として知られている。

 その田岡は1981年7月、68歳で死去した。4代目組長として有力視されていた山口組ナンバー2の若頭、山本健一も後を追うように翌82年2月、死去する。56歳の若さだった。そこで兵庫県警は同年6月、文子を3代目姐と認定したのだ。

 後継の行方が注目されるなか、山口組若頭補佐で竹中組組長の竹中正久が山口組若頭に就任すると、同組内の実力者であった山広組組長の山本広が対抗して山口組4代目組長に立候補を宣言。後継問題は混迷を極めた。

 しかし、文子はここで竹中を推した。1984年6月、竹中の4代目就任が正式に決定すると“山広派”は記者会見を開いて、竹中就任を認めないと宣言。山広派は山口組を脱退し「一和会」を結成した。こうした情勢下で同年7月、竹中の4代目襲名が披露されて、対立の構図は鮮明となった。

 4代目体制がスタートしたが、1985年1月、竹中は大阪で一和会のヒットマンによって射殺される。同行していた山口組若頭の中山勝正ら最高幹部2人も同時に殺害された。以後、暴力団抗争史上最悪の「山一抗争」が激化。双方で死者25人、重軽傷者約70人とまさに最悪の事態を招いた。

 山一抗争のさなか、竹中が殺害された約1年後の1986年1月24日、文子は死去した。山口組が山一抗争の終結宣言を出すのは、その1年余り後の1987年2月のことだった。その後、一和会は解散を宣言することとなる。

「1万人の母親」という気持ち

 田岡が生前に著した「山口組三代目 田岡一雄自伝」の巻末に文子が手記を寄せている。そのなかで、次のように綴っている。

「わたしは二人の(実の)子の母であると同時に、数多くの組員から『姐さん』と呼ばれる母親の立場でもあります。家庭のことも大切で、たえずその内外の動きに心を痛めてまいりました」

 山口組内の若い衆については、「躾の面ではかなりきびしくしてきました」と記述。夫である田岡については、「主人はわたしよりも若い者の方が大切なのか、と腹もたち、悲しくもあり」と妻としての心情も明かしている。

 文子が生きた時代は、山口組が全国に進出し各地の組織と対立が相次ぎ、警察は山口組を最重要捜査対象として取り締まりを強化していた。それだけではなかった。組織が巨大化していくに従い、山口組内部で派閥争いが激化し、山一抗争を招くなど、まさに激動の時代だった。

 当時の様子を伝え聞いている、関西地方に拠点を持つ指定暴力団の幹部は次のように述べている。

「当時の山口組は約1万人の組員がいた。文子姐さんは自分について、『1万人の母親』という気持ちがあったのだろう。外部では警察は山口組を壊滅させると意気込んでいたし、内部では子分たちの母という重い立場。組長死去後の3代目姐という影響力は大きかった。それだけに内外のプレッシャーがあったはずだ」

(敬称略)

本当にあった「極道の妻たち」の宴会「2次団体の組長クラスの妻の飲み会には有名歌手も…」〈私生活のリアル〉 へ続く

(尾島 正洋/Webオリジナル(特集班))

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