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切断された校舎、崩落した橋…熊本地震の傷跡を伝える「震災遺構」の生々しさ

文春オンライン / 2021年4月14日 11時30分

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震災直後の南阿蘇村。倒壊した家屋の脇を自衛隊が通っていく(2016年4月17日撮影) ©AFLO

《熊本地震から5年》“ライオン脱走デマ”で大混乱…あの動植物園が直面していた「2つの危機」 から続く

「ドーンと突き上げられました。私はこたつで眠っていたのですが、気付いた時には天井が目の前にありました。大黒柱が折れて家が倒壊していたのです。真っ暗なので、どこがどうなっているか分かりません。必死になって、はい出しました。後で体育館に避難してから、突き指をして腫れ上がっていたのに気がつきました」

 熊本県南阿蘇村の橋本艶子さん(68)が振り返る。

 2016年4月16日午前1時25分、熊本地震の本震が発生した。

 最大震度7の激震。南阿蘇村でも震度6強を記録した。約28時間前の前震では震度5弱と「皿が何枚か落ちた程度」(橋本さん)で済んだが、今度は1万1000人強の村で16人が亡くなるという惨事になった。関連死を含めると死者は31人にのぼる。

約800人の若者が消えた村

 南阿蘇村には東海大学の阿蘇校舎(農学部)があり、学生からも犠牲者が出た。学生が住む下宿やアパートが倒壊するなどしたのである。橋本さんも下宿とアパートで49人の学生を預かっていて、そのうち2人が潰れた屋内で挟まっていると分かった。

「頑張れ、朝になったら助け出せるからな」

 暗がりの中、先にはい出した学生達が、声を頼りに2人の居場所を突き止めて励ました。余震で崩落する山から岩が転げ落ちる音が響きわたる中でのことだった。

 2人の学生は倒壊した建物の上から穴を開けて救出した。そのうちの1人は大腿部を骨折していて、ヘリコプターで鹿児島まで搬送された。

 大学は校舎の直下に断層が走っていたことが判明した。校舎も壊滅的な被害に遭った。このため、熊本市内のキャンパスへ移転していった。約800人の下宿生らも消えた。

 寂しくなった村。橋本さんは2年半の仮設住宅暮らしの間に「もう戻るまいか」と迷ったこともある。家は解体してなくなり、学生相手の下宿やアパートも再建する必要がなくなった。子供達は「お母さんの今後の人生を考えて住む土地を考えたらどうか」と言った。

「“学生”が帰ってくるかもしれない」

 それでも橋本さんは戻った。また地震が起きたら2階建ては危ないと、小さな平屋を建てた。

「“学生”が帰ってくるかもしれない」と考えたからだ。

 住民と学生の数があまり変わらないような地区だっただけに、両者の関係は密接だった。朝が弱い学生には「遅れるよ」とドアを叩いて起こす下宿のおばちゃんもいた。「夏にはバーベキューをしてくれた」と振り返る卒業生もいる。「第2の故郷」と懐かしむ卒業生が多く、折に触れて訪れては、下宿のおばちゃんに近況を報告し、恩師の研究室にも顔を見せていた。こうして南阿蘇村を訪れることを、卒業生は「帰る」と表現する。

「それなのに、大学も下宿もアパートもなくなっていたら、帰って来る子が寂しい思いをしてしまう。せめて私だけでもいてあげたい」と考えたのだ。

熊本地震の「震災遺構」

 戻った後も、橋本さんと「大学」の縁は切れなかった。

 地表断層が生々しく走る旧校舎は、熊本県が譲り受けて「震災遺構」として保存した。20年8月に公開し、地元住民らが被災体験を交えるなどして遺構のガイドを務めている。そのうちの1人として活動を始めたのである。

 発災から5年が経つ熊本地震は、復旧や復興が進む一方で、人々の記憶から薄れ始めている。だが、忘れてしまっては、教訓がいかされない。そこで、県は蒲島郁夫知事の肝いりで震災遺構の保存に乗り出した。震災ミュージアム「記憶の廻廊」として58件が登録されており、これらを巡ることで、観光にもつなげようと戦略を練っている。

 東日本大震災ではメディアを賑わせた震災遺構だが、他の災害ではあまり注目されていない。熊本地震の遺構とはどのようなものなのか。

阿蘇大橋の残骸は今も……

 取材に訪れた日、橋本さんは広島市の高校教諭、冨永和志さん(40)の一家を案内していた。冨永さんは同校舎の卒業生で、妻も同級生だ。「遺されると聞いていたので、公開が始まったら来ようと言っていたんです」と冨永さんは語る。

「断層は深さが70センチほどあります。これが事務室の中にまで続いています」。橋本さんが案内すると、「あれっ、Y字型の建物だったのに、左右が切断されている」と冨永さん夫妻が声を上げた。

「下の地面は今もまだ動いていて、校舎は真ん中から左右に傾き、引き裂かれるような形になっています。両側を切らないと保存できなかったんですよ」と橋本さんが説明する。

 正面玄関では、山腹が大規模に崩落した「数鹿流(すがる)崩れ」が眼前に見えた。この崩落や揺れで、真下にあった阿蘇大橋が峡谷に落ち、熊本市内の大学に通う学生が亡くなった。阿蘇大橋の残骸は、今も峡谷の断崖絶壁に引っ掛かったままで、数鹿流崩れと共に震災遺構に選ばれた。

 橋本さんは「亡くなった大学生はいい子だったんです。前震で断水した熊本市の友達のために水を持って行き、翌朝から家で農作業の手伝いをするために帰宅していた最中でした。真面目だったばかりに被災して……」とうつむく。冨永さんは「あの橋は僕らも通っていました。残骸を見た時には胸に迫るものがありました」と目を赤くした。他人事には思えないのだ。

 どの下宿の食事が美味しかったかの思い出話にも花が咲いた。橋本さんは「それぞれ自分の田んぼで作る米だったから美味しいわよ」と胸を張る。だが、地震で田んぼに水が引けなくなって、栽培できなくなった。「今は牧草を植えています。大学があるなら、また作ろうかと力も湧くんだけど、もう食べてくれる学生もいないしね。私達は生業(なりわい)を失いました。寂しくなった村は、震災遺構も含めた観光で生きていくしかないのかな」と自問するように話す。

 冨永さんは「僕らにとっては、学舎を残してくれただけでもありがたい。こうして『帰りました』と戻って来られるのですから。大学は移転しても、ここはやっぱり第2の故郷なんです」と力を込めた。

 一家は「お元気で。また帰って来ます」と何度も手を振りながら旧校舎を後にした。

連続して震度7に見舞われた益城町

 旧東海大阿蘇校舎の他にも、見る人に衝撃を与える遺構がある。その筆頭は益城町の断層だろう。

 同町は前震と本震の2回、震度7の激震に見舞われた。

 震源となったのは布田川(ふたがわ)断層帯で、学術的な貴重さから国の天然記念物に指定された。

 地表に露出した断層は断続的に約31キロメートルにも及んだが、このうち益城町では3地区を震災遺構として保存展示することにした。

 そのうちの一つは、谷川(たにごう)地区だ。上空から見ると、V字型に断層が走っている。土地は両方から押すようにして圧力を掛けると、斜めに割れてずれるのではなく、X型に割れ目ができる場合がある。これを共役(きょうやく)断層といい、その典型例だとされる。民家の庭にX型の半分のV字が見られ、現在は本格整備に向けてシートが掛けられている。断層の真上に建てられていたため、倒壊寸前になった納屋と一緒に保存される。

 そして、杉堂地区。潮井(しおい)神社の石段の途中が1メートルほど横ずれしている。石段は崩れたまま、鳥居や巨木も倒伏したままの状態で、破壊の激しさを物語る。神社のすぐそばには断層崖があり、その下部から湧水が流れ出ている。地域で大事にされてきた潮井水源である。

 断層があるがゆえに、阿蘇山からの伏流水が湧き出しているのだ。断層は災害を引き起こす一方で、人々が自然の恵みを享受する手段にもなってきたことがうかがえる。

 さらに、堂園地区。田畑の中に延長180メートルもの横ずれ断層が出現した。横ずれ幅は約2.5メートルにも及ぶ。これだけ動いたのだから、住宅の被害は著しい。柱が破断するようにして倒壊した家が多く、48世帯のうち36戸が半壊以上となった。

「次の世代に伝えなければならない」

 堂園に壊滅的な打撃を与えたのは16日未明の本震だ。農業を営む田上勝志さん(55)は、前震発生時から走り回ったため、疲れ果てて熟睡していた。気付いた時には倒壊した家の下敷きになっていて、挟まった左足を自力で引き抜き、はい出した。

 妻はタンスの下敷きになっていた。近所の人の力も借りて40分ほどで助け出したという。警察車両で熊本市民病院に運んだが、同院は倒壊の恐れがあるとして受け入れてもらえなかった。済生会熊本病院に搬送すると、トリアージの「赤」と判断された。6カ所も骨が折れていて、すぐに治療しなければ命に関わる重傷だった。その後、2カ月以上入院することになる。

 これほど激しく被災した地区であるのに、復旧や復興への動きは早かった。既存の自治会とは別に、まちづくり協議会を結成し、狭かった道路の拡幅や、避難用の公園の整備などを盛り込んだ提案書を、他地区に先駆けて町役場に提出した。この協議会の会長として議論をリードしたのは田上さんだ。

大蛇伝説は地震の教訓だった?

 その話し合いの中で「地震のことを次の世代に伝えなければならない」という問題意識が高まった。

 堂園地区には大蛇伝説があった。山際の蛇ケ谷(じゃがたに)に、長さ15間(約27メートル)もの大蛇がいた。怖くて住民は外に出られないような状態だったが、旅の僧がお経を唱えると、大蛇はおとなしくなり、罪滅ぼしに池を掘った。蓮の名所で堂園のシンボルになっている堂園池である。大蛇はこの池の主となったが、隣村に住む妻の大蛇に会いに行った時、山焼きが行われていたため、2匹とも死んだ――という物語だ。

 田上さんは「蛇ケ谷はまさに断層上にあります。断層は何度も動いてきたので、昔の人には大蛇のように見えたのかもしれません。警戒するよう後世に伝えようとしたのではないかと思います」と話す。ただ、大蛇伝説が地震の教訓であると気付く人はほとんどいなかった。

 今度は確実に伝えていかなければならない。

 そこで、まちづくり協議会に震災記録保存部会を設け、全住民に呼び掛けて証言集を作成した。資料的価値が高いのは、同じ家族でもそれぞれ異なる被災体験が掲載されていて、多角的に被災体験を浮き彫りにした点だ。心に傷を受けて「思い出したくない」という人の声もそのまま掲載した。生身の人間の声が伝わってくる。池の魚がはねるなど地震の前兆現象を体験した住民がいたことも分かった。

 堂園には教育旅行で断層見学に訪れる学校が増え、若手が語り部活動を始めた。

 田上さんは「小さな資料室を建てて、何が起きたかを伝えていきたい。見学者と住民が気軽に話ができるような場になれば」と構想を描いている。

一度外に出た若者が戻り始めた

 こうした取り組みが続く堂園には変化が現れた。従来は区長を務めるような年代の男性達の考えで地区が動かされてきたが、若手や女性の意見がいかされ始めたのだ。まちづくり協議会では意識して若手や女性に動いてもらったためもあるが、発災時に若い消防団員の献身的な活動を見て実力を認めた住民が多かったのだともいう。若手が動くことで、地区独自の花火大会を実現させるなどしてきた。

「地震ではつらい目に遭いました。きついことには地区の皆で当たってきましたが、楽しいことも皆で一緒にやりたい。若手を巻き込んだら、それができるのです」と田上さんは笑う。

 このところ、堂園では一度外に出た若者が家を建てて戻る例が目立っている。もちろん自宅の再建を諦め、公営住宅に入ったり、子供の家に身を寄せたりした高齢者もいる。「断層があるのにまだ住むのか」と首を傾げる人もいる。だが、もともとの団結力に加え、若手や女性が力を発揮し始めた堂園には、断層のリスク以上の魅力を感じる人が多いのかもしれない。「今、最も活力のある地区」と話す役場職員もいる。

 被災だけでなく、そうした集落の在り方の変化についても、語り継いでいってほしい。

撮影=葉上太郎

(葉上 太郎)

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